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チンパンジーから人とAIを考える(ゲスト:京都大学高等研究院准教授 山本真也さん)

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〜人間・チンパンジー・AI〜AIが社会基盤となるからこそ必要であろう叡智、 今残すべき叡智とは?

AIを考えること、その先に行き着くのはいつも「人間とは何か?」という問いです。今回は「人間にしかできないことは何か?」をテーマに、人とチンパンジーを比較します。人間の進化の隣人であるチンパンジーとボノボ、ヒト社会の隣人とも言えるイヌとウマを対象に、認知研究とフィールドワークの両方を行なっている京都大学高等研究院准教授・山本真也氏にお話を伺いました。

【ゲスト】
京都大学高等研究院准教授 山本真也さん

進化の隣人であるチンパンジーとボノボ、ヒト社会の隣人とも言えるイヌとウマを主な対象に、認知研究とフィールドワークの両方を通して知性の進化の謎に取り組む。究極の研究テーマは「人間とは何か」を知ること。学問分野でいうと生物学と心理学を組み合わせた比較認知科学という分野で、とくに社会の中で発揮される知性:社会的知性に関心を持つ。主なキーワードは、共感・他者理解・協力・文化・集団。動物たちの心を通してヒトの本質を明らかにしていくことを目指している。2017年『Bonobos:Unique in Mind,Brain and Behavior(Oxford Univ Pr )』を出版。

チンバンジーに白目はない

僕は比較認知科学という分野で研究しています。ヒトの進化の隣人であるチンパンジーやボノボ、社会的に非常に絆の強いイヌやウマ、そういった動物たちを通して、「人間とは何か?」ということを探る研究をしています。

例えば、キングコング。これは、ゴリラがモデルになって作られた映画のキャラクターだと言われていますが、実際にゴリラはこんなに凶暴な動物なのか? キングコングが作られた時代には、まだゴリラのことがほとんど知られていなくて、大きくて黒い動物だということで、非常に凶暴なイメージを持たれていたのですが、実際はそうではありません。

最近亡くなったココという手話を覚えたゴリラがいました。絵を描くことでも有名になったゴリラですが、子猫を非常にかわいがって世話をしていました。子猫が亡くなったときはとても悲しんで、いろいろな手話を使って悲しみを伝えたと、そういう逸話が残っています。

次にチンパンジー。『猿の惑星』という映画がありますが、この映画に出てくるチンパンジーは全部コンピューターグラフィックスで作られています。実際のチンパンジーと大きく違うのが目の部分です。映画に出てくるチンパンジーには、おそらく映画製作者の意図だと思いますが、人間の目が入っています。すぐには気付かないかもしれませんが、実際のチンパンジーには「白目」がないんですね。2000年代の最初に、いろんな動物の目を調べた研究があります(Kobayashi & Koshima 1997 Nature)。その研究で、白目を持ってる動物はほとんどいないということが分かりました。

人は目を見ただけで、相手が誰であるか、どういう感情を持っているのか、さらには、相手がどういう気持ちで接しているのか、そういう情報を非常にうまく伝える装置になっています。それも、この白目があるからではないかと言われています。いまインターネットだけでコミュニケーションを取る機会が増えていますが、本来人は対面で向かい合って相手の目を見ながら心を通じ合わせてきた動物です。このことは種の進化的な流れで見ると非常に重要なことで、ヒトの一つの特徴であると言われています。

このように、動物たちの研究を通して、その動物たちそのものを知るということ、そしてそれら動物たちと比較することで、人はどういう動物なのかを知る。それが、比較認知科学であると理解していただければと思います。今日はチンパンジー、ボノボのお話を中心にさせていただいて、皆さんと一緒に、ヒトというのはどういう動物なのか、を考えていきたいと思っています。

チンパンジーはヒトに進化しない

簡単にチンパンジーとボノボの紹介をします。「進化の系統樹」を見ると、皆さんに馴染み深いニホンザルは、ヒトと3000万年ほど前に分かれたと言われています。それに対してチンパンジーやボノボとは、約600万年から700万年ほど前に、共通祖先がいました。そこから分かれてヒトになり、あるいは、チンパンジーになり、ボノボになったと言われています。

ですから、ニホンザルからチンパンジーに進化して、チンパンジーからヒトに進化したわけではありません。「チンパンジーも進化するとヒトになりますか?」とよく質問されますが、そういうわけではありません。また数百万年経つと、チンパンジーはチンパンジーなりの進化をして、ヒトはヒトなりの進化をしていきます。

進化の系統樹を見ていくと、ヒトだけが特別だという考え方はちょっとおかしいんじゃないかというのが分かると思います。最近は、ヒト科とオランウータン科を分けるのではなく、チンパンジーやボノボ、オランウータンやゴリラなど、大型類人猿まで含めて全部を「ヒト科」と呼んでいます。このような進化的に非常に近い動物たちを研究することで、ヒトがどういう進化の道筋をたどってきたのかを調べたいなと思っています。

僕の院生時代の指導教員だった松沢哲郎先生の研究で有名になった、数字を覚えた「アイ」というチンパンジーがいます。そして、そのアイの息子の「アユム」というチンパンジーは、数字を覚えて小さいほうから順番に押していくことができます。画面上に1から9まで数字出てきて、最初の1を押すと、他の数字が全部白く塗りつぶされてしまいます。つまり、最初の1を押す前に九つの数字を覚えるという課題です。アユムは数百ミリ秒のレベルで九つの数字を一瞬で記憶することができます(Inoue & Matsuzawa 2007 Current Biology)。しかし人間がこのスピードで覚えられる限界は、四つか五つぐらいだと言われています。

記憶力は知性のなかでも非常に大事な部分だと思うんですが、瞬間記憶に関しては人よりもチンパンジーの方が優れていると言われています。つまり、人だけが全て優れているのではなく、それぞれの種によって得意なもの、不得意なものがあるのではないか。

ヒトはホミノイド(ヒト上科)という大型類人猿の系統に入りますが、この系統は約2400万年前に生まれました。一時は絶滅しかけた種のはずなのですが、今から1万年前からとてつもないスピードで変化を遂げています。進化ではなくて変化を遂げている種であると言えます。100万年単位の系統樹と比較すると、たったこの200年ほどで爆発的に増えて発展してきている種です。この発展をそのまま維持することが可能なのか? 僕は様々な動物やそれらの進化を研究している立場から見ると、かなり無理があるのではないか考えているところなんです。

ヒトは、事実として、これだけの繁栄を遂げています。確実に、世界の中で今最も繁栄している種の一つだと思います。この繁栄がなぜできたのか? それを考える上で非常に大事になってくるであろうものが、「文化」と「協力」という行動なのではないかと考えています。協力、これは私たちの社会基盤です。文化、これは現在のテクノロジーの発展とも密接に関わっています。この二つの「ヒトを人たらしめる」2つの特徴が、本当にヒトだけのものなのか? チンパンジーやボノボの研究を進めることで、いろいろ分かってきています。

好戦的なチンパンジー、平和的なボノボ?

チンパンジーとボノボは、100万年ほど前に進化が分かれた非常に近い種で、さらにこの2種はヒトに最も近い種になります。そういった意味で「進化の隣人」と呼ばれますが、この3種をいくつかの項目毎に比較すると、非常に面白いことが分かります。

1950年代ぐらいまでは「道具を使える動物」であることがヒトの定義だと考えられていました。しかし、それがチンパンジーでも道具を使うことが分かって、ヒトの定義を書き換えなけれればならない、そういった議論が生まれたぐらいです。一方で、野生のボノボは道具を全然使いません。知性がある賢い動物だと言われていますが、道具という観点から見るとヒトと大きな違いがあります。

次に「繁殖に結び付かない性行動」、これはヒトとボノボに見られますが、チンパンジーには見られません。これが女性の社会的な強さに結び付いて、さらには平和的な社会に結び付いているのではないかと、そのような議論もされています。「協力関係」あるいは「戦争」という点で見ると、集団間の致死的な攻撃交渉つまり「戦争」がヒトには見られます。そして同じようことがチンパンジーでも見られます。チンパンジーは、群れと群れが出会うと、非常に敵対的な関係を築いて、それが殺し合いのケンカに発展してしまうこともあります。それに対してボノボは、他の集団と一緒に行動したり、グルーミングをしたり、食べ物を分け合ったり、そのような行動を見せることもあるほど平和的な社会を築いていると言われています。

「協力」という項目では食物分配という行動が知られています。ヒトの社会では、おすそ分けをしたり、一緒にご飯を食べたり、食事を介した親和的な関係の構築がよく見られます。ボノボの場合は他の集団の個体とも食物分配をしますがチンパンジーには見られません。凶暴なチンパンジー社会、平和的なボノボの社会、それらの進化の先にあるものとしてヒトの戦争や平和を説明しようという動きも近年盛んに行われています。

チンパンジーは自発的に協力しない?

京都大学には霊長類研究所熊本サンクチュアリという二つの大きな類人猿研究施設があります。霊長類研究所で僕が大学院生時代にチンパンジーの協力行動を調べるために行った研究なのですが、二つの隣り合った透明なブースにチンパンジー1人ずつ入ってもらいます。左側はジュース容器が手の届かない所に置かれていて、ジュースを取るためにはステッキが必要です。

そして、そのステッキは右側のブースの中にあります。右側のブースにはジュースが壁に付いていて、ストローがないと飲めませんが、そのストローは左側のブースに置かれています。このような環境を設定したときに、チンパンジーたちはどのような行動をとるのか調べてみました。

それまでは、他者を助けるという利他的な協力行動はヒトにしかみられないというのが通説でしたが、実験をしてみると2人に協力行動が見られたんです。チンパンジーも相手を手助けしてあげることが分かりました。そしてお互いの利益のためにステッキとストローを交換するだけではなく、片方にしか利益がない場合でも同じ行動をしました。

ただ面白いのは、ステッキを欲しがっているチンパンジーが、ステッキを使わずに手を伸ばしてそのジュースを取ろうと頑張ることがあるのですが、その場面を片方のチンパンジーが見ていても、ステッキを自主的に手渡すことはまずありません。相手から手を伸ばしてステッキを要求されるという、明示的な要求行動が出てこないと手助けしません。相手が困っている状況を見て、自発的に手助けしてあげることは、チンパンジーでは見られないことが分かりました。

Yamamoto et al. 2012 PNAS

さらに、道具の種類を増やしたり、2つの部屋の壁を黒く塗りつぶしたりして同じ実験をしましたが、最終的にジュースを飲むために必要な道具を渡してあげることがわかりました。それまでは、チンパンジーは相手が何を欲しがっているのかが分からないから手助けしないと考えられてきたのですが、この実験で分かったことは、相手が何を欲しがっているか、どういう状況にあるのかを見て分かっていても、自発的に手助けをすることはないということです。

この実験から考えると、ヒトとチンパンジーの間に「自発性」の違いがあるのではないか。チンパンジーは自発的に手助けしないけれど、ヒトの場合相手が困っていたり、悲しんでいたりすると、自発的に寄っていって手助けする。ヒトもチンパンジーも相手の状況を理解するという意味での知性はある。でもチンパンジーの場合は、それがすぐに協力行動、手助けをするという行動には結び付かない。

人間だけが利他的か?

もう一つ「利他的コイン購入実験」という実験をご紹介します。先ほどの実験と同じように透明な2つのブースがあって、それぞれに自動販売機があってコインを入れるとリンゴを買うことができます。この2つのブースにそれぞれチンパンジーに入ってもらって、右の子がコインを入れると左の子にリンゴが出てくる、左の子がコインを入れると右の子にリンゴが出てくるという場面を設定しました。2人ともコインを大量に持っている。この場面でお互いに協力するのか、互恵的な関係が作れるのかを調べました。

まず、親子で実験をしましたが、2人がそれぞれ協力するということは生まれませんでした。次に大人同士で実験してみると、片方のチンパンジーが3枚、4枚とコインを入れていっても、もう片方は何もしない。いい加減にしろよと壁の間から相手を小突くと、ようやくお返しのコインを入れてもらえました。それでも5枚入れたのに、2枚しかお返ししてもらえませんでした。これを続けると、両方ともコインを入れるのをやめて、お互いに相手が入れるのをずっと待ってしまう、という結果になってしまいました。

ただし、相手に要求されると、ある程度コインを入れてあげるという行動も見られています。この研究からも、やはり自発性というものが大事なのではないかと考えています。およそ700万年前、チンパンジーとヒトの共通祖先には、恐らく協力行動や利他的行動自体は見られていたのだろうと思います。ただし、相手から要求されないと、明示的に要求されないと起こらない形の利他行動だったのではないかと。

ヒト独自の進化である、間接互恵性とも言われたりしますが、2個体間だけではなく社会全体で協力を良しとする社会。そのようなものを作ることができたことによって、より自発的な利他行動が増えていったんではないか。そして、高い利他性、協力性、互恵性、そのようなものを基盤に社会が発展してきたんではないか、と考えています。そのヒトの特性によって、交易や貿易、グローバル社会といったものを可能にしてきたのではないか。

ただ同時に、ヒトとはお節介もするようになりました。この「お節介」も、ヒトの特徴なんではないかなと考えています。チンパンジーやボノボは、相手に何も言われてないのに自分から手助けしてお節介してしまう、そういったことはあまりありません。ある意味、効率的な社会を築いていると言えるかもしれません。ただ、ボノボに関しての研究はまだあまりされていないので、もしかしたらボノボのほうが、もっと協力的、あるいは自発的な種なのではないかとも言われています。

協力は本当にいいことか?

いままで2個体間の協力関係を見てきましたが、ヒトは過酷な環境で生き抜くときに、集団で協力することができます。ヒトという種を考える時に、社会全体での協力関係が非常に重要なのだと考えられているのですが、それが進化の過程でどのように獲得されてきたのか? ボノボやチンパンジーはどうなのか? 僕がいま一番興味を持って研究しているのはそこです。僕は西アフリカのギニア共和国とのボッソウという地域でも、チンパンジーの研究をしているのですが、そこにはチンパンジーの森があり、その森を人間が作った道路が分断しています。チンパンジーが森を行き来するためには、この道を渡らなくてはなりません。

チンパンジーにとってヒトは非常に怖い動物です。さらにこの道は、自転車が通ったり、バイクが通ったり、ときには車が通ったり、非常に危険な場所です。この道を渡らなくてはならないという状況でチンパンジーはどのような行動を見せるのか? それをいま調べているのですが、彼らはいろいろな協力的な行動を見せてくれます。

このような状況下では、最初に強いオスが出てきます。そして、そのオスは、さっさと安全な森に逃げ込むのではなくて、他の個体を待ってあげる。メスや幼い子や老人が渡るのを見守って、最後にしんがりを強いオスがまた固める。このような形で、集団全体での協力的な行動が見られるのが分かりました。

同じような環境でボノボはどのような行動をとるのか、それもいま研究しています。ボノボが棲んでいるコンゴ民主共和国のワンバという森にもヒトの道が通っていて、その危険な道を渡るときのボノボの行動を見ているのですが、実は、チンパンジーがとったような協力的な行動はあまり見られませんでした。

2個体の関係で見ると、チンパンジーよりもボノボのほうが協力的で平和的だと言われていましたが、実は集団性という点で見ると、むしろチンパンジーのほうがボノボよりも優れているのではないか。これはまだ仮説の段階で、今まさに研究をしているところなので確定したことは言えないのですが、そのような違いが見られるのではないかと考えています。つまり、ボノボは2個体間の協力関係に非常に優れていて、恐らくそれは、個体間の寛容性というところから来ているのだろうというふうに考えています。一方チンパンジーは、むしろ2個体間より集団全体でまとまる力が非常に強いのではないか。

この違いがなぜ生まれるのか? ここに協力行動と戦争が関係してきます。先ほども触れましたが、ボノボは他の集団とも友好的な関係を築きますが、チンパンジーは隣の集団と非常に敵対的な関係を築きます。集団と集団が出会うと大ゲンカになって、殺し合いになってしまうときもある。それほど、非常に厳しい集団間の関係を築いているのですが、それが逆に、特殊な環境に置かれると集団内の結束が発揮される。危険な状況や強い緊張状態に置かれると、むしろチンパンジーのほうが集団としての結束や協力行動っていうのが生まれてくるのではないか。このように考えています。

ヒトは両方の性質を持っていますが、それはなぜなのか? まだほとんど分かっていません。その謎を、チンパンジーやボノボの社会を通して見ることで、人間社会の平和と、その真逆として考えられがちな戦争、その二つを関連付けて見ることができるのではないか。単純に「協力はいいことだ」ではなく、本当はいい面だけとも限らないのではないか。一つの行動には様々な二面性があると思うのですが、そこをチンパンジーやボノボを通して研究できればいいなと考えています。

ヒトとウマの共通性

僕はチンパンジーとボノボだけではなく、ウマとイヌの研究もしていますが、それはなぜかをお話しします。集団と集団が生み出すダイナミクスというものが、いま比較認知科学の分野で非常にホットなトピックになってきています。その点で、僕はウマとイヌに注目しているわけですが、ポルトガルのアルガ山という場所には野生のウマがいて、いま彼らの社会を調べているところです。その山には大体200頭から300頭ぐらいのウマが、柵もない所で自由に暮らしています。オオカミもいて、実際に捕食されたりしているのですが、ここでは地上でひたすら追いかけるだけではなくて、ドローンを使って空からも観察しています。

上空から山全体の写真を撮ってスキャンして、ウマの群れと全個体に名前を付けています。日本のチームが中心になって研究しているので、「キョウト」や「ヒョウゴ」など群れに県名を付け、「ギオン」や「コウベ」など町・地域の名前を個体につけています。30分ごとに写真を撮ることによって群れの位置や個体の位置を全部記録して、個体間の関係、あるいは群れ間の関係を調べています。まだ最近始めたばかりで確定的なことは言えないのですが、面白いのが集団の間でかなり特定の関係が見られることが分かってきました。

https://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/publication/MonamieRinghofer/Ringhofer2017-Primates.html

例えば、「キョウト群」と「ヒョウゴ群」はよく一緒に動いたりしていますが、それが混じり合って一つの群れになることはなく、離れるときには必ず「キョウト群」と「ヒョウゴ群」に明確に分かれる。でも、動くときには2つの群れで一緒に動く。そのような群れを超えた関係性が見られるのです。

そのどこが面白いかと言うと、ヒトの社会とかなり似通ってるんではないかということです。ヒト社会でコアになる単位は家族です。そして、複数の家族からなる血縁集団が形成されます。さらに、血縁集団が集まって地域集団が形成されていきます。地域集団や集落、市町村・国のレベル、さらにはグローバルな国同士の関係もみられます。これを「重層社会」と呼んでいるのですが、そのような社会が見られる動物はあまり多くありません。その一種としてウマがいるのではないかということで、この集団間の関係に注目して研究を進めているところです。

野良犬の社会

同じように、イヌも面白い社会を築いています。日本では、なかなか見かけなくなりましたが、東南アジアでは野良犬がそこら中でうろうろしています。イヌは面白い動物で、オオカミから分かれて、ヒトの手による家畜化という過程を通して進化してきたわけですが、1万年ほどのかなり短いスパンでオオカミと性質を変えてきています。

ヒトというのは、実は自分自身を家畜化する「自己家畜化」というプロセスを経て平和共存社会を築いてきたと言われており、ヒトの進化を考える上でこの「家畜化」というプロセスが非常に大事だと考えられています。これをイヌとオオカミの比較、つまり家畜化された種とそうでない種の比較を通して理解しようという研究が最近かなり盛んになってきています。

そこで野良犬の社会を調べてみようと台湾に行ってきました。台湾にある大学のキャンパス内にいるイヌの集団にGPSを付けて位置や移動距離を把握して、個体がどのような集団を作っているのか、集団間の関係はどうなっているのかを調べたのですが、結果を言うと、イヌの社会はかなりフレキシブルなものでした。

群れとしてある程度のまとまりがあるのですが、その群れと群れの間で頻繁に行き来があり、おだやかな集団間の関係を築いているのではないかということが分かってきています。これも、まだ確定的なこと言えないのですが、少なくともオオカミと比べると、かなり違う社会を築いています。オオカミは血縁集団でガチっと固まっていて、他の集団と出会うと攻撃的になる、チンパンジー的な集団間関係と言えるかもしれません。それに対して、イヌはかなりゆるいまとまりで、どちらかというとボノボ的な平和的な集団間関係を築いているのではないかと考えられます。

イヌは調査対象として見て観察するだけでなく、尿を採ったりホルモンを測ったりすることもできるので、集団内の団結性、あるいは集団間の競合関係、あるいは寛容関係、そういったものの要因を、生理的なレベルから調べることにもできるのではないかと考えて、このイヌの研究を進めているところです。

絶滅に瀕しているヒト科

このように、チンパンジー、ボノボ、さらにはイヌ、ウマ、彼らの知性や社会性を研究することを通して、ヒトの社会はどのようなものなのか、どのような特徴持っているのか、そしてそのような特徴がどんな環境で、あるいは社会で進化してきたのかを知る手助けになるのではないかなと考えています。

最後に、いま全世界で人間、つまりヒトは、約76億人いると言われています。それに対して、他のヒト科の仲間たちは全世界でどのくらい残っているか分かりますか? チンパンジーは20万頭、ボノボに至っては1万頭ぐらいしか残っていないと言われています。ヒト以外のヒト科4種は全て激減していて絶滅の危機に瀕しています。そのことをお伝えして、今後みなさんにも、彼らに興味を持っていただければ非常にうれしいなと思っています。

霊長類研究所のサイトには、今日お話ししたチンパンジーの食物分配の話や、研究以外のこともいろいろな情報が載っています。動画もたくさん載っています。ぜひご覧になってみてください。また京都大学のもう一つの研究施設、熊本サンクチュアリは日本で唯一ボノボが住んでいる施設になります。彼らの情報についてなかなか普段は目にする機会がないと思いますので、ぜひこれらのサイトを見て、引き続き興味を持っていただければなと思います。

MON-DO

問)知性が進化するのに適した集団内の個体数はありますか?

答)僕の研究ではないのですが、霊長類の脳のサイズを測った研究があります。脳の前頭新皮質という、かなり知性に関わってくると言われている部位の大きさを測った研究では、集団のサイズが大きくなればなるほど、その部位の発達度合いが高くなっているという研究があります。集団サイズが大きくなればなるほど、コミュニケーションを取り合う相手の数が増えるので、それに伴って脳が進化してきたのではないかと言われています。

それをベースに、ヒトの脳の大きさからヒトに適した集団サイズを予測する研究によると、脳に適した集団サイズは150人ぐらいだと言われています。そのような研究を踏まえると、現代社会の集団サイズ、あるいは集団間の関係の規模の広がり、これはかなり特殊だと言えます。進化のタイムスパンで考えると、こんなに短いスパンで起こった大きな変化にヒトの脳が対応できているのか、そこにいろいろ弊害が出てきているのではないかと考えています。

問)人間自体の脳の大きさは変わっていないという前提ですよね?

答)そうですね。基本的に、脳の大きさはそれほど変化がありません。ただ、脳というのは、非常に柔軟な器官ですので、脳の大きさは変わらなくても、脳の中のニューロンの結び付きは、かなり柔軟に変わります。しかし脳の構造、体の構造は数千年というレベルで変わるようなものではありませんので、脳の大きさは変わってないと言えると思います。

問)人間はこの数十年、数百年で、処理すべき情報量が爆発的に増えてきていると思いますが、その中でヒトの進化の兆候は見られると感じますか?

答)非常に興味深いところだと思います。お答えとして、まず可塑性がある部分と、ない部分という形でお答えしようと思います。脳の可塑性は非常に高いですし、ポテンシャルも高いと思います。僕は脳の専門家ではないのですが、脳の研究者の書いた本によると、脳の構造を変えなくても、ニューロンのネットワーク量は指数関数的に増やそうと思えば増やすことはできるそうです。そういった意味での可塑性は非常に高いです。

ただ、そこは進化としての変化ではなく、生まれてから死ぬまでの間での発達としての変化で捉えたほうがいいかなと思います。その変化が直接次の世代に残るわけではありませんので。進化というのは、基本的に突然変異、つまり遺伝的なものを含む変化ですので、生まれてから死ぬまでの変化は、いろいろ議論のある部分でもあるのですが、基本的には進化の考え方としては、次の世代に残りません。

例えば、すごく勉強した人がその勉強で得た成果を知識として伝えることはできるのですが、遺伝としては次の世代に特に残っていかないということです。すごく頭のいい親の子どもでも、勉強をしなかったら親のようにはなれません。そのような意味で、可塑性とうのは、生まれてから死ぬまでの間でどれだけ伸ばしていけるかという意味でのフレキシビリティ、ポテンシャルはすごく高いと考えています。

その一方で、可塑的ではない部分もたくさんあると思うんです。一つは、脳の大きさもそうなのですが、それ以上に僕は身体に興味を持っています。体のつくりを考えると、本当に数万年〜数十万年という単位で、ヒトの体の構造は基本的に変わっていません。少なくとも、チンパンジーが四足歩行で動いているのに対して、ヒトは二足歩行である。二足歩行で歩く形態、運動形式というのは、ほとんど変わっていません

つまり、何を言いたいかといいますと、知恵とか知性というものが、かなり体の特徴に根ざしたものであるのではないか、ということです。先ほどお話した、目の形態もそうです。ヒトの目が白目を持っているというのは、恐らく、この数千年で変わってきたものではなく、もっと昔からヒトの特徴として持ってきたものだと思うんですね。

そういった体の形態、顔のつくり、表情を生み出す筋肉の作り、そういったものは、この数百年〜数千年のレベルでは変わり得ないものだと思うのです。そのような身体をベースにした社会関係、あるいは社会的知性のようなものは、なかなかフレキシブルに動かせない部分の一つではないかなと考えています。

京都大学の山極先生がおっしゃっていたのですが、AI社会になって人がインターネットや情報だけでつながる社会の仕組みが非常に発達してきている一方で、身体性をベースにした対面のコミュニケーションがものすごく減っていると。そこが、ヒトという種の未来を考えたときに少し不安な点だとおっしゃっていたのですが、僕も同じ意見を持っています。

身体をベースにしたコミュニケーションがあるはずなのですが、それがものすごく減ってきている。身体を介しない、制約を受けたコミュニケーションの在り方というものが、今後AIやロボットなどの新しいテクノロジーによってどのように変わっていくのか、どう変わることができるのか。変わり得ない部分があるのではないか、その辺りをいま考えているところです。

問)チンパンジーやボノボに、ヒトと同じように知性があることは分かりましたが、感性という点ではどうなのでしょうか? 絵や風景を見て美しいと感じたり、神のようなものを信仰したり、そういうことはあるのでしょうか?

答)僕も非常に興味を持っています。チンパンジーやボノボは宗教を持っているか? ヒトの宗教の起源はどこにあるか? いま非常に興味を持っています。利他性ということも関係してくるとは思いますが、まだそこまでは分かりません。また、美しいものに対する彼らの反応というのも、僕の知る限り、まだあまり研究がありません。

ただ、音楽に対する反応というのは最近注目されていて、いろんな動物で知られています。一つには、言語の進化を調べる上で、音楽への反応や、鳥における歌などについては非常に研究されています。ヒトの言語の進化を知るうえで、声のボーカルコミュニケーション、音楽性みたいなところを研究されることが多いです。僕は、音楽に対する動物の反応に非常に興味を持っています。

京都大学霊長類研究所の研究で、チンパンジーがリズムに同調するというものがあります (Hattori et al. 2013 Scientific Reports)。チンパンジーはリズムがあると自動的に同調してしまうみたいなんです。僕が研究している「協力社会」とも関係してくるのですが、アフリカの原住民族でも、集団でリズムに合わせて踊りをして集団全体でトランス状態になったり、戦争のときにもそのような行動が見られるんです。

お互いにリズムを合わせることによって、相手との絆を結んでいく。これは「共感」とも言われます。リズムや音楽に対する感性はどのように進化してきたのか。その感性が進化したことによって、集団性というものが強まってきたのではないか。あるいは、集団性を強めるための手段として音楽に対する感性が生まれたのか。どちらが先か分かりませんが、集団というものを考えるときにも、音楽に対する感性というテーマは非常に面白い点だと思っています。

問)私は社是に利他主義を掲げています。利他とは、誰かにいいことをすると、巡り巡って自分の利になって返ってくること。そもそも仏教の教えの中にもありますが、チンパンジーやボノボも利他に喜びを感じることでコミュニティーが成り立っているとお聞きして非常に感銘を受けました。また、この財団では、AIとかロボティクスによって支えられる社会に変化していくなかで、ヒトはどのように変化していくのかにも興味があります。

また、今後社会が発展して、食べ物や飲み物や衛生的な環境が全ての人に行き渡って、人は働く必要がなくなって、生命維持のための努力も必要なくなったとき、私たちはどのようなことに喜びを見いだすのか? 文明が発展して社会が便利になればなるほど、人は根源的な欲求を利他的に求めていくのかなと思っています。

答)利他を喜びとするというのはヒトの大きな特徴だと思います。この点に関してはチンパンジーやボノボと大きく異なっていると考えています。ヒトの場合、他者を助け、他者が喜ぶと、その喜びが自動的に伝染して自分もうれしくなる。このような正のフィードバック(快感情の伝染、あるいは共感と呼んでいる)がみられます。だからこそ、自発的な利他行動もよくみられるようになったのではないかと考えています。

それと同時に、利他を維持していく、あるいは協力社会を維持していくうえで、この「本性」に頼るだけでどこまで可能なのかということになると、正直なところまだよくわかりません。宗教の研究者とお話しする機会もあるのですが、人間の持っている宗教には利他が教義に入っています。キリスト教も仏教もヒンズー教もイスラム教もそうです。少なくとも、主要宗教は全て利他を教義の中に教えとして含んでいます。それは人間の本性に根ざしているから入ってきたのか、あるいは逆に、利他を教えないと社会が回らないからなのか。僕自身、どちらなのか分からないところがあります。

現代の社会では、身体的な協力関係を経験しない、インターネットだけで完結するコミュニティーが増えてきています。狩猟採集社会では、本当に協力しないと食べ物を得ることができなかったり、食べ物を作れなかったり、協力というものが社会維持のために必要ですが、現代の社会は潤沢になって多くのものはお金があれば手に入ります。社会が経済、お金だけを中心とした価値観になってしまうと、お金さえ持っていれば、協力しなくても生きていけるんじゃないか、そういう考え方が生まれても、おかしくはないと思うんですね。実際に、そういう考え方が出てきているのではないか。そして、利他や協力が必要だと考える人と、そう考えない人の間で意見の違いやコンフリクトが生まれ始めているのが、現代社会のひずみになってきているのではないかと感じます。

ですので、本当に社会が潤沢になって、働かなくてもいい、協力しなくてもいい、という環境ができてしまった場合に、協力というものが、そもそもヒトのとるべき行動なのか、あるいは、しないといけない行動なのか。僕も正直分からないところです。

ただ、相手の喜びを自分の喜びとして感じられる、そういったことを感じられない社会になってしまうと、いくら物質的なものや環境が豊かになっても、不幸な社会になってしまう。幸せを感じられないけど生きてはいける、という社会ができてしまう可能性があるのではないか。そのあたりは価値観の問題になってくるのかもしれませんが、宗教の力が弱まってきている現代社会で今後どうなっていくのか、ヒトは何に幸せを感じるのか、正直分からないところです。そこは、ヒト、個人個人の違いがあると思うので、ぜひみなさんと一緒に考えていければと思います。

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