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「オフグリッドの世界と、その可能性」~ナショナリズムとの関係編~

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いまの私たちを取り囲むGRID、その大きなものの一つが、私たちを地理的な国境で囲い込み、法律や制度という秩序で統治する、国家という枠組みです。政変や戦争で変わる国家の枠組みに翻弄される人々もいますが、その一方で交通網の発達により国境を自由に超えることができ、ITの発達によってインターネット上で自由に国家を超えて人々が繋がることもできるようになりました。

しかし国家というGRIDをOFFすることはそう簡単ではなさそうです。宗教や民族に基づいた一つのイデオロギーで国家という壁を厚くする国もあります。その壁を取り除くには、さまざまな宗教の根底に流れている共通の神話性に目を向け、民族にかかわらず共通して存在する遺伝子や微生物レベルの多様性に気付く必要があるようです。

私たちは、国を飛び越えてネット上に飛び交う情報量が増えれば増えるほど、思い通りにならない自分の身体という枠組みとその限界を意識せざるを得ず、自由に国家間を行き来できるようになればなるほど、身体を移動させるために消費するエネルギーコストと各地域に根付いた固有の文化に意識を向けざるを得ません。

ネットワーク上に出現した身体や国境を持たないAIと、身体や地域社会と繋がり続けるしかない人間。その2者が互いにつながり合い、それぞれが持っている独自の機能を高めて共に進化して行くことで、新たなGRIDが生まれるのかもしれません。

12月の「総論編」に続いて、今回は「ナショナリズムとの関係」がテーマ。わたしたちはナショナリズム、すなわち「国家」という大きなGRIDを外し、その概念を無くすことができるのでしょうか。また、そこから見えてくる未来社会はどのようなものでしょうか。

近年では、イギリスのEU離脱によりEUは揺れ動き、国家というGRIDが見直されています。ISは、独自のGRIDを新たに作り活動をしています。米国では、トランプ氏の大統領当選により新しいGRID強化が進んでゆく見通しです。一方で、ビジネスやコミュニティは遥か昔に国家を飛び越え、さらには国家というGRIDを超えて生きようとする人たちが増えている現状もあります。強化、緩和、そして変化。いま大きく変わりつつある「国家」というGRIDをテーマに、これからの社会の行方について考えていきます。

<ゲスト>

ドミニク・チェン氏
株式会社ディヴィデュアル共同創業者/NPOコモンスフィア理事

1981年生まれ。博士(学際情報学)。NTT Inter Communication Center[ICC]研究員/キュレーターを経て、NPOコモンスフィア(クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)理事/株式会社ディヴィデュアル共同創業者。IPA未踏IT人材育成プログラム・スーパークリエイター認定。NHK NEWSWEB第四期ネットナビゲーター(2015年4月〜2016年3月)。2016年度グッドデザイン賞・審査員「技術と情報」フォーカスイシューディレクター。著書に『電脳のレリギオ』(NTT出版)、『インターネットを生命化する プロクロニズムの思想と実践』(青土社)、『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』(フィルムアート社)等。訳書に『シンギュラリティ:人工知能から超知能まで』、『みんなのビッグデータ:リアリティマイニングから見える世界』(共にNTT出版)

竹村真一氏
京都造形芸術大学教授、Earth Literacy Program代表、当財団評議員

東京大学大学院文化人類学博士課程修了。地球時代の新たな「人間学」を提起しつつ、ITを駆使した地球環境問題への独自な取組みを進める。世界初のデジタル地球儀「触れる地球」や「100万人のキャンドルナイト」、「Water」展(07年)などを企画・制作。2014年2月、丸の内に「触れる地球ミュージアム」を開設。環境セミナー「地球大学」も丸の内で主宰。東日本大震災後、政府の「復興構想会議」検討部会専門委員に就任。

国境を超える遺伝子

ドミニク・チェン:国家というテーマに対して何ができるか。自己紹介を兼ねて、このスライドに映っているのは僕に関わりのある国家の国旗なんです。私のDNAは、祖母がベトナム人、祖父が台湾人、台湾とベトナムのハーフで台湾人の父、母が日本人。遺伝子的にはこの3つの国が関係しています。そして、僕の父は25歳くらいのときに、フランスに一度も行ったことがないのに、日本での留学中に東京のフランス大使館に採用されて、そのままフランス人になった。その後、僕は東京で生まれました。

私は日本でフランス人として、東京都にあるフランス人学校に通い、その後パリで中学と高校を過ごしました。大学はロサンゼルスだったので、アメリカの影響も受けています。国籍はフランス人ですが、影響はいろんな国から受けています。こういう生い立ちも関係しているかもしれませんが、僕のような人は増えているのではないかと感じています。1人の中にいくつもの国があるというのは珍しいことではありません。

23andmeという遺伝子調査キットのサービスがあります。この図はあるサンプルデータですが、1人の遺伝子の中に、韓国、東アフリカ、日本の分布がある。科学とテクノロジーの力でこのようなことが遺伝子レベルで分かる時代になっています。

 

そして遺伝子は地域毎に分布を持っていて、この図は「H7」というグループに属する遺伝子を持つ人のヒートマップです。同じ遺伝属性を持つ人が世界でこういう分布になっていると分かる。国家という境界線は人工的なもので曖昧なものだというのがリアルに分かります。

人類は今まで移動と交換とコミュニケーションを行ってきました。陸路、海路、空路を開拓して、今は回路の時代、つまりインターネットの時代にあります。物理的なレイヤーに情報レイヤーが重なって植物の根茎のように複雑なネットワークになっています。本当はその複雑さをテクノロジーや科学の力によって高解像度でシェアできるはずですが、そこに国家という枠が邪魔しているのではないか? と感じています。

「脳の協働」を促すクリエイティブ・コモンズ

僕自身の生い立ちがリミックス的で混合していることもあって、文化のダイナミズムを活動の起点にしています。たとえば、19世紀フランスの精神経済学者ガブリエル・タルドが「脳の協働」という概念を唱えていて、人間の発明や新しい概念の獲得は「異なる脳同志の協働」であるということを言っています。

移動することで知らない人と出会って話して、コミュニケーションを行う時点で協働が始まっている。そのことを意識させられたのがクリエイティブ・コモンズ(CC)という運動です

僕は学部を卒業した後、新宿初台にあるICCというメディアアートの博物館で働き始めて、そこで映像記録のアーカイブを作り始めました。そこで一方的に映像を放映して配信するのではなくて、そこに「CCライセンス」を付けて、誰でも二次利用できるようにしました。CCとは2002年にアメリカで発足した国際NPOで、著作権の問題に新しい光を当てようとする運動です。

著作権には保護する領域と保護しない領域があります。権利者が生存している限り、基本的に権利は保護されますが、権利者が亡くなってから一定期間経つと、その作品はパブリックドメインに属して、社会全体で共有できる財産になります。

ところが著作権が保護する動きがどんどん大きくなって、この200年で肥大化してしまった。一番最初に、18世紀にイギリスで著作権が生まれた時は登録制で、有効期間は14年でした。しかし現代では最長で作者の死後120年経たないと社会に還元されません。そのため、インターネットが盛り上がってきた2000年代初頭のアメリカで「この法律は時代遅れではないか?」という議論がまき起こってきた。しかも著作権は文化を保護し、法に則って著作物を利用し合うためにできたものなのに、非常に複雑で閉塞的なものになっていました。
それに対してCCというのは、私有と公有の中間領域をつくろうと、6パターンのライセンスを設定し、アーティスト自身が決められる仕組みになっています。

CC創設者のローレンス・レッシグは「文化とはいじくり回す自由」が重要なのだと言っています。作品を作ってガチガチに保護して誰も触れないようにして、遠くから眺めたり崇めたりするだけでは文化は発展しない。作品に対して積極的に触りに行って、別のものにつくり変えたりすることが重要だと。インターネットやコンピューターというのは原型というものがありません。複製して別のものを作っていくというダイナミズムがあります。著作権の自由度はイノベーションを生むためにも重要です。

僕は10数年この運動に関わってきています。そこで一番学習したのは、社会システムというのは様々ですが、そのシステムに対して意図に応じてオルタナティブ(代替案)を提案できるし、それを社会に実装できるということです。CCは世界80カ国以上に支部を持っていて、インターネット上でCCライセンスが付与された作品は現在では10億個以上確認されています。最近ではアメリカの官公庁が税金を投じた学術研究の成果に対して、CCを付けて公開するよう義務づけるようにまでなりました。

このように、私にとって脳の協働とインターネットというのはほぼ同義の価値を持っていて、人々がいかにいきいきと自由にコラボレーションできるか、ということを考えてきました。

新たに発生したネットワークの障害

脳の協働というのはもっとシンプルな言葉で言うと、コミュニケーションだと言えます。新しい作品をつくるのも不特定多数に向けたメッセージ発信としてのコミュニケーションだし、身近な人と言葉を使って会話するのもコミュニケーションです。それをいろんな人が行っているネットワークのことを共同体と呼びましょう。そのネットワーク全体が活性化するためには、そこに参加している個々人が最大限に能力を発揮することが重要です。

そのためにはどのような統治のシステムが必要なのか? 国家というのは共同体という形態の一つでしかありません。たとえば、Facebookは月々で10億人以上のユーザーが集まって、それぞれが同じルールと仕組みに基づいてコミュニケーションしています。それはもはや国家以上の影響力を持ち始めているのではないかと思わせられる規模です。

ただこうしたグローバルなコミュニケーションのネットワークには障害も起こっています。たとえば2年前の冬にパリで大規模なテロがおきて僕の親戚もあと一歩のところで巻き込まれそうでした。テロが起きることで身の回りの安全が阻害され、国家は防衛反応として過剰に爆撃し戦争も起こす。メディアではそのような悪いニュースばかりが流れています。

先日亡くなられた統計学者のハンス・ロスリングはデータビジュアライゼーションに革命を起こしたと言われる人ですが、非常に本質的なメッセージを残しています。メディアで流れるニュースは悪い話ばかりだが、世界では悲惨なことだけが起きているわけではないと言っています。世界では良いこともたくさん起こっている。世界と対峙するとき、一つの側面しか見ていないと悪い方向に流されてしまうと。
たとえば、カナダの首相ジャスティン・トルドーは閣僚の半分を女性にして、民族的マイノリティも閣僚に加えました。メディアからどうして? と聞かれると「だってもう2015年だから」だと短く答えました。ロンドン市長のサディク・カーンは初めてのイスラム系の市長になりました。このように多様性というものが花開いている場所もあります。いまメディアはトランプ一色ですが、そうではない動きも世界で着実に広がっているということを知っておいた方がいいと思います。

コンピュータ科学者アラン・ケイの「未来を予測する最適な方法は、それを発明してしまうことだ」という有名な言葉がありますが、僕はそれを読み替えて「世界を理解することは、それを創り出すことだ」と考えています。いまどうしてこんなことが起こっているのか? これから何が起こるのか? 過去の分析や未来の予測をしている時間があれば「私たちはいまどういう世界をつくりたいのか?」ということに社会としてもっと時間を費やした方がいいと思います。

たとえばFacebook創業者のマーク・ザッカーバーグは、フェイスブックはこれから社会インフラを目指すということを宣言しました。グローバルなネットワークとして5つの特徴(互助的であること/安全であること/情報の周知をすること/積極的参加を促すこと/包摂的であること)を備えたものにすると約束したのです。Facebookはアメリカ大統領選でフェイクニュースの巣窟になったという批判を受けて、このような重要なメッセージを発しています。

 

そして現在、我々のネットワーク障害の最大のものがフィルターバブル問題です。個々人が、自分に耳障りの良いニュースだけを見て充足してしまい、自分と異なる意見を目にすることがなくなることで、社会の分断が進んでしまう現象のことです。これをどう崩すか。今後国家という枠を超えて地球全体で、どうやってコミュニケーションと合意を可能にするか。たとえばFacebookを使っていると、政治思想的に右寄りの人には右寄りの記事が、左寄りの人には左寄りの記事ばかりがタイムラインに流れるようなアルゴリズムが背後で動いています。私たちはフィルターされた情報の泡の中にいて、それぞれ別の世界にいる。それがフェイスブックだけではなく、インターネット全体によって助長されているのではないか、と議論されています。グーグルも検索結果からフィルターバブルをいかに排除するかということを研究しています。

他にも「ポスト真実」や「オルタナティブファクト」という言葉が生まれてきています。実はこれは古くて新しい問題です。突き詰めていうと、もともと人間の身体というものが、フィルターバブルの問題を備えてしまっているのではないか。

情報の経路を考える時に「メディア」という言葉を使いますが、これは「メディウム」の複数形です。一般的にメディアというのは報道機関、ニュースや新聞やテレビのことですが、何かを表現するための素材、という意味もあります。それらに共通する本質は「情報を媒介するもの全般」がメディアだと言えます。

そこで重要なのが、情報というのは「媒介」されますが、キャッチボールのような「伝達」は構造上起こりえないということです。情報は受け取る人間の嗜好性や履歴などによって、まさにフィルターされて作り替えられてしまう。メディアというのは情報を伝達するのではなくて「どう受け取られ作り替えられるか」を示す仕組みであると言えます。

これは認知科学においては常識ですが、客観世界はどこにも存在しないということです。たとえば、クオリアという言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、「わたし」の見る色と「あなた」の見る色は一致しません。このような事実は、我々の身体も一種のフィルターバブルであることを示しています。

しかし、だからといって絶望する必要はありません。世界は主観的にしか立ち上がらないけれども、それでも主観世界同士で交流し合って影響し合うことができる。そのためのテクノロジーとして私たちは最初に自然言語というものを手にして、それがいまやインターネットというものになってきている。

そして20世紀はマスメディアが現実像を作ってきました。新聞を読めばなんとなく世界の現実を感じることができましたが、現代はアルゴリズムが人間の編集者に代わって現実像を織りなすようになってきています。Facebookを見ると、アルゴリズムがどういう情報を並べるべきか、ログインしているユーザー毎に一瞬で計算して表示します。

いま人間がアルゴリズムの提示した情報にどう向き合うか、そのことがとても複雑になってきています。ここで思い出すべきは、本来、社会やテクノロジーというのは生命のサブセット(部分集合)であるということです。多くの人は生命や個人は社会のサブセットであると考えているかもしれませんが、そうではありません。生命が先にあったから、社会が生まれてテクノロジーも生まれた。だから僕が思っているのは、フィルターバブル問題やフェイクニュース問題は ITだけのせいではなくて、むしろ人間が内在的に抱えている問題が最大化してしまっているだけなのではないか、ということです。だからこそ、人間そのものについて再び深く学ぼうと思います。

「苦しみ」を基にした合意形成を

僕はいまAIの問題を研究していて『シンギュラリティ』という本を訳したのですが、そこでハッとさせられたのは「苦しみ」という概念です。AIやアンドロイドと我々を隔てる違いは、彼らは「生物的な不都合」を持たないということです。死や病気というものを真に理解する能力を彼らは得られない。

アメリカの政治学者フランシス・フクヤマは、「苦痛を経験できる能力こそ、他のすべての人間とつなげてくれる共感の源泉である」と言いました。共感を数値化する目処は立っていないにもかかわらず、共感の仕組みや情報を伝える仕組みをアルゴリズムに任せてしまっているのが現状です。

アルゴリズムには人間の行動をコントロールしようとする性質があり、人間は数値化された情報に従いたがる。思考をそこに委任している状態なんですね。そこに対して、人間同士の価値観に基づいたコミュニケーションを行っていかなければならない、というのが私の立場です。

では人間の価値のためにコンピューターをどう使うべきか? 言い換えると、これからの時代の人間にとって、合意可能な幸福のかたちとは何なのか? この度、『ウェルビーイングの設計論』 という本の監訳を務め、「日本的なウェルビーイング」とは何かについて科学技術推進機構から助成金を頂いて研究を始めました。その中で共同研究者が作っている「心臓ピクニック」というものを出発点にして考えています。

これは自分の心臓と同じように振動する、聴診器がついた箱です。たとえば緊張しているときにこの箱を触っていると、振動を通して自分の心臓が外在化されることで、リラックスしてくる。他の人の心臓を触った時には、ただの振動する箱なのに、そこに「相手の心臓という生々しいものに触れている」という感情移入が働いて、意味を投影してしまう。これは非常に本質的だと思い、これをヒントに日本的な共感のコミュニケーション、非言語的な共感のプロセスを設計できるのではないかと考えています。

一方で苦しみに着目することで、人間の本質を更に深く探れるのではないか。理性的な議論を介した合意というものよりも、もっと身体的な共感に基づいた社会的な合意形成を図れないか。そのようなことを考えていますが、背景には合理的な合意形成というのは限界を迎えているのではないかという問題意識があります。そこで、「Gross National Pain (国民総苦痛量)」というコンセプトを考えました。このデータを取ることができれば、最も苦しんでいることが明確な人を優先しようという政策的な合意を、右翼も左翼も関係なくできるのではないか。

たとえば現在、Spire (スパイア) という呼吸量を測るデバイスがアメリカで開発されています。この小石のようなデバイスを腰の部分に付けておくと、呼吸が乱れていると緊張、整っているとリラックスしていることが分かる。この会社はアメリカ在住のユーザーたちから実際にデータを集めているのですが、面白いのはトランプ大領領が当選した瞬間、アメリカ全土の緊張量が上がったということがデータとして示されたことです。

 

市民の自由を守りながら適切な介入をするという国家を、テクノロジーによってつくる。そのためには「Gross National Pain」、国民総苦痛量のようなマイナス価値をベースにしたほうが世の中の合意を取りやすいのではないか。たとえば目の前に血を流して倒れている人がいたら、誰でも政治的な思想に関係なく、その人を助けようとするはずです。だれがどういう理由で苦しんでいるか、それを捕捉することこそ21世紀の国家の役割がやるべきなのではないかと思っています。こうした生物学的リアリティに基づいて社会をつくることが、テクノロジーを使ってできるのではないか、そういうことを考えています。

多民族国家「日本」の共生OS

竹村:歴史を遡って行くと聖徳太子の時代、飛鳥の都では街を歩いていると半分が外国人でした。聖徳太子は7人の話を同時に聞けたのではなく7カ国語がわかるという意味だったようです。多くの民族が混じり合って日本人が形成されてきたわけですが、万世一系の単一民族の国という幻想は明治時代必要に迫られてできました。外国の侵略に対して挙国一致体制で戦争をするためにできたイデオロギーにすぎません。日本はもともとポリフォニック(多層的)な国だったんです。

日本は地理的に極東にある吹きだまりでありまして、氷河期が終わりメコン川を遡って中国で古代王朝をつくった人たちの一部が日本にも流れてきたり、北からはマンモスを追いかけて日本に入ってきたり、西からは稲や鉄を持ってきた人たちがいて、いくつもの民族が交じり合ってできた国です。

 

CC BY-SA 3.0, PHGCOM, Japanese embassy to the Tang court.jpg

平安時代以降は遣唐使も廃止されて世界に対して閉じたようにも見えますが、最近の網野善彦さんなどの中世日本史研究によると民衆レベルでは海を渡って交易や人の往来があり、日本は決して一つではありませんでした。また1人の人間の中にも多様性があり、たとえば百姓という職業は農民だけをさす言葉ではなく、百の職業や生き方をしている人たちを指す概念でした。それほど多様なソーシャルウェア(社会的なソフトウェア)が日本にあって他民族を繋げて「和を以て尊しと為す」というかたちで、共生のためのOS(オペレーションシステム)を持っていたわけです。

中国でも多民族をつなぐために漢字が生まれました。中国大陸で漢字というものが必要とされた理由は、言葉の違う人たち同士が、言葉や価値観が違っていても字面を見れば内容が分かるから。他民族多文化を緩やかにつなぐ普遍OSとして漢字が必要とされて、3000年くらい前から使われるようになりました。漢字とは多元的なものをつなぐOSだったのです。

イスラムでも、オスマントルコではユダヤ教やキリスト教、イスラム教など多くの宗教が共存し、それぞれの宗教的な信条をお互い尊重し合っていました。 国際法の原点もオスマントルコで生まれたと言われています。ミレット制という法律の下で宗教共同体が認められ、互いの信教の自由と保護が担保されていました。異宗教間で教会の鍵を預け合い、相互依存の関係をつくるような知恵もあったようです。人類には多元性をリソースとして担保し活用することで、何百年も平和状態を維持するというシステムが歴史的にあったということです。

地球をつなぐ新たな神経系

竹村真一です。簡単に自己紹介をしますと、デジタル地球儀「触れる地球」というメディアを使って地球人を作るお手伝いを10年間やっています。さらに遡ると、その原点は20年前に仲間たちとつくった「センソリウム」というサイトのなかの「ブリージングアース」というプログラムです。

僕は関西出身で阪神大地震を経験して、その被害の大きさよりもショックだったのは自分の身の回りで大きな地震なんて起こらないと思っていた、この地球の現実に対する無知でした。地球の現実を可視化したい、地球の胎動を可視化することで自分たちと地球との関わり方を変えていきたいと思ったんですね。 これに感性のソフトウェア「センスウェア」だと名付けて、それを束ねた感性の博物館「センソリウム」というインターネットミュージアムをつくりました。これは1997年のアルスエレクトロニカで賞もいただきました

当時このプログラムをつくるにあたって驚いたのが、僕のような地震学者でもないインターネット技術者でもない者でも、地震の深さや強さ、緯度経度などの細かいデータをインターネットとつながればリアルタイムで入手できるということです。世界中の何万という地震計のリアルタイムデータに、インターネットで地球大の神経系を通じてアクセスできるんだという実感値が生まれました。

インターネットはメールを送ったりホームページを閲覧したりするだけじゃなくて、地球大の神経系として人々の共感だけではなく、人間と地球とのコミュニケーションツールにもなり得るかもしれないという予感を持った。それが「触れる地球」に繋がっています。

そしてさらに5年くらい遡って20代の頃、「地球大の神経系」というアイデアの着想を得たのは、アマゾンの先住民族の村での体験からでした。当時、首狩族の集落で先住民の暮らしを経験したのですが、そこには狩った首を燃やしたススで燻されたドクロが天井にぶらさがっていて、みなさん裸にふんどしで入れ墨をしていて、電気もガスも水道も交通手段もないところでした。そんな場所で週に一度発電機を回してテレビを見るんです。当時は80年代後半、何を見ていたかというとサッカーワールドカップを観ていた。


マラドーナを知っているか?」と子供たちから聞かれてテレビを観てみると、伝説の5人抜きゴールがそのとき起こった。その伝説の場面を先住民の集落でライブで見るという凄い経験をしたんです。その時にとんでもない時代になってきているなと実感しました。一番文明から遠くは慣れている先住民の村の子供たちが、マラドーナに驚喜してゴールに共感して細胞をふるわせている。だとしたら地球全体の何十億人の人たちの細胞がいま震えているのだろうかとそのとき思いました。

その時からもっとネットワークは進展していますが、逆に私たちのスコープ(視野)はこの20年で狭くなったのではないでしょうか。アルゴリズムによって自分の中に入ってくる情報は狭く偏ったものになって、技術的な帯域がブロードバンド(大容量通信)になるほどマインドのチャネルは”ナローバンド(低容量通信)”になっています。

国家を超える、2500年前の「精神革命」

そんな状況の中で、国家とは何か、国家を超えていくにはどうすればいいかと議論するよりも、有効な実践がたくさんあるよと先ほどドミニクさんが教えてくれましたが、国家が出現しそれを超えていくためのチャレンジや精神運動はいままで歴史的にもたくさんありました。

たとえば2500年前に精神革命があったと言われていて、面白いことに洋の東西で孔子老子仏陀プラトンソクラテスピタゴラスなどが同時多発的に現れました。それはどういう時代であったかというと、国家というものがプレゼンスを高めてきた時代なんです。国家のロジックに対してイデオロギー的に真っ向から反対するのではなくて、非常にしなやかに人間のありかた、心のOSを磨いていくことで超えて行こうとしていた。

ソクラテスとプラトンは面白い関係で、私たちはいまソクラテスの思想に触れることができますが、それはすべてプラトンの著作からです。なぜかというと、ソクラテスは文字を警戒していたからです。文字が人間の心のOSを退化させると、自分では本を書きませんでした。

The Death of Socrates, by Jacques-Louis David (1787)

プラトンはしたたかに、ソクラテスの思想を受け継ぎながら全部自分で本に書いた。そのプラトンの国歌論を紐解くと、これからしっかりした国家を作っていくためには、文字を基盤にして歌い手や吟遊詩人のような口頭伝承の達人を追放しなければならないと言っている。文字に依拠してスタティック(静的)に凍結された秩序の中で国家を運営しなければならないと。

同じ時代に中国では、漢字という文字が多民族をつなぐ有効なOSとして広がって行きましたが、逆に文字によって人間の言語空間のあり方が捕獲されていく時代でもありました。その時代の思想家たちは、新しい文字的な秩序を受け入れながらも、文字や国家に虚勢されない心のあり方を探ろうとしていた。

このように、心のOSを設計する大変なチャレンジングな時代を、今の我々は歴史を振り返って「精神革命」と呼んでいる。その可能性というものを我々はまだ充分に開ききっていないのではないか、仏陀の思想や老子や孔子のやろうとしたことをもう一度、いまやり直さなければいけないところにきているのではないかと感じます。

そしていま、ネットが国家の境界を越えると諸手を挙げてポジティブに言えない、逆に人間をナローバンドにして、ひとりひとりの情報空間を非常に偏ったものにしてしまっている。マスメディア以上の歪んだ窓をつくってしまっているとすると、メディアに浸された自分のあり方をもう一度再設計しながら国家とそれを超える秩序をつくっていく必要がある。正解はどこにもないですが、そういう時代に私たちは生きていると言えるかもしれません。

テクノロジーは人間を更新するか?

ドミニク:3000年をまたぐお話、ありがとうございました。言葉や文字といったものをソクラテスが警戒してた、それを今風にいうと、記憶を外部化することのリスクだと思います。言葉というものを貯蔵しておいて、その対話の時々で生まれる言葉に価値がある、その一回性の中に真実が宿るとソクラテスが信じていた。

私も哲学を高校時代に学んだ時に、「ソフィアを愛する」、つまり知恵や叡智を愛するという意味の「フィロソフィー」に対して、教義への愛、意見への愛「フィロドクサ」をその対極にあるものだとソクラテスは批難していたことを知りました。いわゆるオピニオンリーダーというものをソクラテスは蔑視していて、雄弁で大衆を魅了するような人はフィロソフィーではなくフィロドクサの人であると。みんなの思考を促すのではなくて、みんなに自分の考えをインストールしてしまうような人を哲学の敵であると批難していたことを、竹村先生のお話を聞いて思い出しました。

記号接地、英語でシンボルグラウンディングという言葉がありますが、自分事で話をしている時にそれを聞いている人はすごく共感しやすい、ということがあります。たとえば自分の友達が南米に行ってきて凄い体験をしてきたと聴くと記号接地しやすいのですが、シリアでアサド政権がこんなに非道なことをしていると言われても、シリアに行ったこともなければそこに住んでいる人のことも知らないとなると簡単に共感できない。そこに身体的な限界があります。

もし最新のVR技術を使って、ヘッドマウントディスプレイを通して地球の裏側で起こっていることを自分の目の前で身体的に共感できようになると、報道というものが変わるかもしれない。だから報道としてのVRに可能性を感じますが、他方でその力を利用するエンターテイメント産業やポルノ産業が作る、スリルや恐怖、欲情といった人間の本能を直撃するようなコンテンツが強くなってくると、共感を生むことだけではなく、本能の虜にされてしまうということも同時にあり得るかもしれない。

竹村先生にお聞きしたいのは、この3000年の人間と技術の葛藤の歴史の中で、必ず技術が人間を上書きしてきたのか、もしくは人間側が両者の関係性の中でブレイクスルーを生み出してきたのか。もし何かヒントがあれば、お聞きしたいです。

竹村:技術そのものを人間がどう使いこなしたかだけでは語れません。たとえば活版印刷の出現以前は、文字の情報でも必ず音読するというのが普通だったのですが、活版印刷によって文字情報が溢れ出していちいち音読してられなくなった。それまで必ず耳鼻咽喉系を経由していた言葉が、視覚一辺倒になってしまいました。この辺の話はマクルーハンの研究ですが、失われたものを指摘するだけではなく弁証法的に、活版印刷時代を経て創り出された人間の思考空間がどのように展開して行ったか、を考える必要があります。

情報がナローバンドだからこそイマジネーションや自分の身体感で補わなければならず、補うことによってむしろ豊穣さをつくってきた。しかしそのような余地を失くしてしまうほどに情報がブロードバンドになってしまったメディアというのはあまり生産的ではないと思います。VR技術はその典型です。

例えば、ここは茅場町のカフェですが、窓の向こうが茅場町の空間である必要はないわけです。窓の向こう側が香港であったりニューヨークであったりしてもいい。ただ透けて見えるだけではなくて、窓に置いた自分の手のひらと向こう側の人の手のひらが合った時にお互いの声が聞こえるような、敢えて自分から能動的に触ってその回路を開く、自分の身体感覚をもってチャネルを創造的に開いていくようなことができれば面白い。

オンラインで向こう側の存在を感じたり、向こう側にいる人のコンテクスト(文脈・背景)に対するアウェアネス(気付き・意識)を高めたりするようなメディアデザインがますます重要になってきているのではないか、それこそが本当のブロードバンドになる可能性を持っているのではないかと思います。なんとなく向こうの人の気配が感じられて、そこで言葉を交わすためには能動的な接触をしなければならない、そのあたりのことがブレイクスルーになりはしないかなと思っています。

AIと人間の心

ドミニク:情報量が多過ぎると、創造性が少なくなってしまう。そこは私も常日頃考えている問題で、たとえば文学作品というものは、読み手が文字情報を解凍して、脳の中で意味を生成することで、自由にイメージを膨らませることができる。一方、コンピューターグラフィクスで緻密に作られた映画は考える余地を与えられず情報全てをそのまま受け取るしかない。瞬間的な体感としては圧倒されますし、全員が同じ世界を見るということには役立つのかもしれませんが、そこにゆらぎや多様性は生まれない、そこがジレンマだと思います。

AI(人工知能)が代表する問題というのは、我々が自分自身の脳みそを使ってモノを選択したり決断したりということに対して、ある種第3の脳としてAIがそれを代替してしまうと人間の自律性に問題が出てくるということ。AIがどこまで僕たちの代わりに判断すべきなのか? 主人と奴隷の弁証法ではないですが、奴隷が優秀になっていった結果、主人との関係性が逆転してしまう。その先には人間が人間である必要性がなくなる閾値がある気がするんです。

 

自動化の果てには、本当に映画のマトリックスのような、ただ呼吸をして労働をして税金を徴収されて全体に貢献している、としかいいようのない状態になってしまう可能性もある。その時に人間の自律性というものをどう支援するか、その気付きを生み出すためにテクノロジーを使う必要があるのではないか。そのような議論がいまAIやヒューマンコンピューターインタラクションの領域などでも 始まっています。

 

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先ほど、先生が仏陀や孔子のことを考えているとおっしゃっていましたが、『ウェルビーイングの設計論』という本の中でも仏教が大きなテーマになっていて、 いま世界中の人が仏教を再勉強していることがわかります。仏教はまだスタディされつくされていないので、私もいま勉強しているところです。

竹村:スタディというよりも、先ほどのキーワードの一つでもある「更新」ですね。一番いいスタディは創造的に更新すること、「理解」への最大の近道は「つくる」こと。仏教を更新する必要があります。日本には仏教というものを大変ドラスティックに更新した歴史があります。南無阿弥陀仏南無妙法蓮華経で浄土に行けるというのは、大変ドラスティックな大革命なんです。それは苦行のなかで考え抜いた、仏陀以来、空海も含めて、厳しい修行の最果てに行き着いたミニマリズムだろうと思うんです。鎌倉新仏教の法然や親鸞というのは大変な仏教の歴史における大革命なのですが、OSを更新した。それと同じような営みがいま行われているんですね。

ドミニク:漢字の起源の話について、最近僕は能の謡(うたい)の稽古をしていて、よく能楽師の安田登先生と話をするのですが、文字の発明というものは人類が最初に経験したシンギュラリティ(技術的特異点)なのではないかというアイデアがあります。彼の説によると、漢字の原型ができたのが紀元前1300年くらい、そこから「心」という漢字が出てくるまで300年かかった。つまり古代人というのは紀元前1300年以前まで現代の私たちが考える「心」というものは存在しなかったのではないか、ということです。

心ができてから、過去と未来を隔てる時間軸が出てきた。心が生まれたおかげで計画を立てたり農耕をしたり、国家を運営したりすることができるようになったが、副作用で未来への不安や過去への後悔も生まれた。それから人類は3000年ほど生きてきたが、心の副作用みたいなものが肥大化し過ぎてきたのではないか。だから、次のシンギュラリティは人間の心のアップデートバージョンをどう作るかということなのではないかと。

竹村:僕はチャンスだと考えているんです。それまで人間の優れた特徴であると考えられていた理性的な知性がAIにとって代わられることになります。それまで人間の知性のほんの一部である理性的な思考によって、すべてを言語化・文字化・空間化し、私たちを過去・現在・未来に制約してしまう思考からもっと自由になれるチャンスが生まれている。その知性をAIが受け持つことで人間はもっと自由になれるかもしれない。僕はAIと人間が共進化するのではないかと思っているんです。

微生物と神話がつくる未来

ドミニク:古代シュメール神話古事記の世界を見てみると、神々がとても自由であると同時に身体の不都合を持っていて、悩んだり怒ったり、瞬間瞬間を生きています。3000年前の国家では、心の制約を受けた現代の国づくりみたいものからは解放されていた一方で、自然災害や他民族との戦争などに立ち向かえずに理不尽に死んで行った人たちも多かった。

ただ、現代の人間にも当然、認知限界(人間の認知能力や情報処理能力の限界)があって、ある程度以上の合理性は身体的に分かり得ない領域があると思うんです。そこはまさに機械が得意とする部分なので、上手に機械に任せてしまえれば、身体性や自然の世界、精神世界というものと向き合うことに人間は集中できるようになるかもしれません。しかし、逆にわかり得ないことに漸近していく葛藤のなかでこそ、人間の自律性が生まれるのかもしれません。

生命には多くの謎が残されていると先生からお話がありましたが、最近バイオテクノロジーのカンファレンスに出席するなど、微生物や菌の世界に取り憑かれています。私たちの身体の中に細胞の数以上の腸内細菌やマイクロバイオームが棲んでいて、重さにして1.5kgくらいにもなるそうです。しかし地球上の微生物たちの98%はまだ解明されていないらしいんですね。人間の気分や感情、性格や知性といったものに、目に見えない微生物たちが実は関与しているということがだんだん分かってきているんです。

竹村:あなたはあなたの微生物です、と言われる時代が来るかもしれませんね。

ドミニク:“利己的な遺伝子の手前で“利己的な微生物”によって人間はつくられていると言えるかもしれません。自分自身の中に潜んでいる多様性や他者性と向き合える時代が来るとしたら、もしかしたら、神話の時代のことをもっと現実味を持って感じることができるようになるかもしれません。“デジタルアニミズム”のような。

竹村:イスラムについて言うと、いまネガティブなイメージばかりが世界的に顕在化してしまっていますが、もともと「イスラム」という言葉は平和という意味ですし、「コーランとは文字通りに訳せば「声に出して読むべきもの」という意味です。文字で凍結されたものを声で解凍しなければ生きた知恵にならない、だから翻訳できないんです。

聖書は各国語に翻訳されていますが、コーランはすべてアラビア語で書かれています。インドネシアでもタジキスタンでも、みんなアラビア語でコーランを朗謡する。そのままでは意味は分からないのですが、敢えてナローバンドなチャネルで、声に出して身体性を関与させる。そこはとてもクリエイティブなメディアデザインなのではないかと思うんですよ。

CC BY 2.0, Matthew Logelin, Men praying at jama masjid.jpg

また一日5回の礼拝があります。何があっても公式に“オフライン”になれる回路を社会的に設けている、そういうソーシャルウェアです。これも叡智だと思います。いま若い人たちはオフラインになれなくて苦しんでいると聞くのですが、だったら一日5回の礼拝のような仕組みをつくればいいということです。新しく復元できるいろんなOSが、過去から探り出せる。声や身体性の不都合というのは、シンギュラリティを超えて行くためにもこれから非常に重要になるのではないでしょうか。

ドミニク:宗教の良いところと悪いところあると思いますが、私は芸術文化としてのイスラム教というのは子供の頃からすごく好きで、神の偶像を禁止していることであらゆるものを幾何学で表していて、建築や織物といったかたちで紡ぎ出されるパターンが非常に美しいと感じます。そして、私が日々向き合っている「アルゴリズム」という言葉は、9世紀のイラクの数学者アル・フワーリズミーという人が最初に打ち立てた概念で、それが現代のコンピューターにつながって、数学やテクノロジーを支えているものになっていることにも親近感を覚えます。

いま僕たちが持っている宗教というものに対するある種の偏見やステレオタイプから脱却して、あらゆる神話的思考が共通の回路をもっているということに気付いていけたら、いま私たちが直面している宗教間対立やナショナリズムの対立を融解させる可能性があるのではないでしょうか。

竹村)そうですね。いま私たちがネガティブに感じる宗教のイメージは、国家や帝国との関係や対立の中で武装せざるを得ないところでつくられた側面があります。国家と対峙するなかで組織性や教団性やイデオロギー性を強めていかざるを得なかった。それ以前にイエスや仏陀自身が説いた思想や原風景というのは、私たちが今日語っていた内容に近いわけです。

宗教をアップデートしていったときに、おそらくイスラムやキリスト教や仏教といった宗教の違いを超えたメタ宗教的なこと、メタ“心のOS”的なところに、宗教から流れる地下水脈が確実にある気がするんです。我々の宗教観は、国家による不自由を脱衣すればいろんなことが見えてくるのではないでしょうか。

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