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家族のかたちは時代で変わる 〜池岡義孝さん「家族社会学」講義(聞き手:協同組合Cift 発起人 藤代健介さん)

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AI時代の人間らしさVol.7 〜家族編〜

「人」の文字は、人と人が寄り添う形。現代社会において家族は、最小単位のコミュニティと言われていますが、家族の形やコミュニティのあり方は、拡張家族や同性婚などの出現によって、これまでのステレオタイプの家族から変化してきています。家族とは何か? 人には家族が必要なのか? 今回は、家族社会学の見地から、これからの人と人との関係性を考え、AI時代の人間らしさについて深掘りします。

<プロフィール>
池岡義孝さん
早稲田大学 人間科学学術院 教授

早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。早稲田大学文学部助手、人間科学部専任講師、助教授を経て現職。専門は家族社会学。日本家族社会学会会長。編著書に『戦後日本社会学のリアリティ』(東信堂、2016年)、『変容する社会と社会学』(学文社、2017年)『現代日本の家族社会学を問う』(ミネルヴァ書房、2017年)などがある。

藤代健介さん
協同組合Cift 発起人/コンセプター 株式会社prsm デザインコンサルタント

1988年生まれ。慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科在学中に理念を場に翻訳するデザインコンサルティング会社prsm(プリズム)設立。TEDxTokyoの空間デザイン設計や東日本大震災被災地でのコミュニティ設計などに多重的に携わる。世界経済フォーラムのGlobal Shapers Communityに選出され、2016年度Tokyo Hubのキュレーターを務める。SHIBUYA CAST.のクリエイター向けフロアにはコミュニティ設計から参画し、2017年5月より自ら創設した「Cift」の住民となる。

社会を通して家族を見る、家族を通して社会を見る

池岡:家族というのは、いろんな領域からアプローチが可能です。心理学や人類学の家族研究もあれば、経済学だって家計調査とか家計の研究をやっていますから。家族については、様々な領域からアプローチが可能です。私は社会学の観点から家族の研究をしています。具体的にどういうことかというと、社会のあり方によって家族が変わる。社会変動によって家族が変わる。私の研究室のキャッチフレーズは「社会を通して家族を見る。家族を通して社会を見る」です。ちょっと極端に言うと、心理学は「家族」という小集団の内部に深く分け入って、人間関係やその内面的な問題を研究するのが得意でしょう。社会学の観点から扱う「家族」は、家族を取り巻く社会との関係を見るのが大きなテーマになります。今日のテーマは「AI時代の人間らしさ」ということですから、現代社会の最先端ですよね。その現代社会の最先端で家族がどうであるのか。そういう話に最終的には持っていきたいと思います。

今、日本家族社会学会の会長をしています。家族を社会学的に研究する専門家集団が日本にどれくらいいるのかというと、実は会員はそんなに多くなくて750人ほどです。社会学的に家族を研究する専門家が、もちろん若い大学院生も含めてですけれども、日本には750人くらいいます。

我々は現代社会に生きています。この現代社会というのは近代社会の延長線上にあります。その前には前近代社会があります。これは封建社会とも言います。社会学の観点からは、それぞれの時代に対応した家族がある。近代社会の家族のことを「近代家族」と、前近代社会の家族は「前近代家族」と呼べるでしょう。比喩的に言いますけれども、現代社会から過去をざっと見てみると、近代社会まではよく見えるけど、その向こうは見えないという感覚です。つまり、近代と前近代の間に大きなギャップがあるんですね。前近代社会と近代社会は全く仕組みが違う社会。だけれども、近代以降の社会は現代に繋がる同じような仕組みを持っています。

近代社会の始まりの時代に何が起こったかというと、フランス革命が起こり、イギリスで産業革命が起こり、そういった現代に連なる新しい営みが起こりました。それは近代以前の封建的な社会とは大きく違うわけですね。封建的社会は宗教が支配し、産業革命が起こらないですから、みんな農業をやっていたり、自営業をやっていたりして、そういう自給自足的な共同体で生活していたような社会ですけれども、それが近代になってくると、現代に繋がるような社会の仕組みになってくる。ですから、前近代家族と近代家族は大きく違うわけです。我々は近代家族の延長線上にありますけど、前近代家族は驚くような姿をしています。

社会学者は近代以降の社会を「近代1」と「近代2」の二つの位相に分けているんです。それぞれの時代に対応した家族のあり方や変化があって現代の家族の姿につながり、そしてそこから先はもう一人のゲストとして出てくる藤代さんがやっているような実践にまさに繋がってくる。

愛し合っている夫婦がいて、子供がいて、それが「家族」だとみなさんは思うかもしれません。そして太古の昔から着ているものや化粧が変わってきても、同じ形の家族を人間はずっと営んできたと思っていませんか? しかし、これは近代になってきてからできた家族の新しい姿です。「近代家族論」という研究の仕方があって、これはヨーロッパの研究なんですが、その中で近代の家族はどういう家族なのかを明らかにする研究成果があります。

「近代家族」の姿は、18世紀後半のフランス革命や18世紀後半から19世紀前半にかけてイギリスで誕生した産業革命のような革命によって成立した近代社会の構造と、その時代の労働形態に適合的な家族の一歴史的な形態です。そしてこの家族形態は農業や自営業には適さない、産業革命以降のモデルだということです。特徴としては、夫は外で働き、妻は家事と育児に専念する。暗黙のうちに、性別役割分業が内包されているんですけれども、前近代には性別役割分業なんてなかったんですよ。これは近代社会によって成立した家族のタイプだということです。ヨーロッパでは、こういう家族の歴史はまだ200年くらいしかない。

日本では、明治末期から大正期くらいにこのような家族形態の萌芽が生まれましたけれども、社会全体に広く普及したのは戦後の高度経済成長期以降と言われています。たかだか60年くらいの歴史しかないわけです。ですけれども、我々はこれがずっと昔から普遍的な家族のあり方だと思い込んで、ある意味この姿に縛られすぎている。今日はそういうところで、みなさんの常識を打ち壊してみましょうというのが私の話です。

公と私の分離

みなさんは前近代と近代を分けるものは何だと思いますか? 社会学では市民革命が起こり産業革命が起こったことによって公私の分離が起きたと考えている。前近代社会はパブリック(公)とプライベート(私)が混在一体となっていました。例えば、隣のおばさんがやってきて「ちょっと味噌が足りないから貸してよ」と、簡単に貸したような時代がありました。それは今の感覚からすると、プライベートがないと言えるかもしれない。今はプライベートが強くなっているから、他人の家族に入り込もうとする周りの人は警察に通報されることもあるかもしれない。家族はプライベートな領域として他から隔絶した一つの強固な集団になったんです。

しかし、かつて家族はそんなに強固な集団ではなかった。共同体の他の成員や親戚や近所の人や、あるいは男だったら男同士の集団、女だったら女同士の集団がドカドカやってきて、家の中を通過しても構わないようなものだったんです。近代では産業、企業、工場、労働や市民社会がパブリックの代表で、プライベートの代表が家族ということになった。しかし近代より前の時代はそういうことがなかった。

前近代までは農業や自営業が中心ですから、住んでいるところと仕事をするところが同じです。みなさんはどうですか? サラリーマンの方が多いと思いますけれども、自宅は自宅、仕事場は仕事場で別、通勤されている。つまり職住が一致していたものが、近代以降になると職住が分離することになる。そうして、自給自足的な経済から大規模な市場が成立したことによって、有償の市場労働というのが誕生しました。

自営業では給料がありません。前近代では自分たちで食べる分を生産し、何か余力が出たらみんなで分けるみたいなことで、給料なんて概念はなかった。産業革命によって大規模な市場が成立することで、賃労働、有償労働が発生します。それまでは実は「家事労働」という概念もありませんでした。農業や自営業ではやることは全て家内労働、家の中でやる労働だったんです。外に働きに行って賃金を稼ぐ労働が出てくると、賃金が支払われない仕事が「家事労働」として区別化されるようになった。近代になって初めて有償労働と無償の家事労働の区別ができて、その有償の市場労働を男性がもっぱらやる、無償の家事労働を女性がもっぱらやるという風になっていってしまう。それに対応してジェンダー、男らしさや女らしさといったものがしっかりと確立してくるのが、近代以降のことです。

夫婦と未婚の子供が暮らしているのが「核家族」です。実は社会史やヨーロッパの研究成果によると、ヨーロッパの古い時代は大家族だったのではないかと思われていたんですけれども、きちんと調べてみると、前近代から核家族的な単位が多かったとわかってきました。ただ、純粋な核家族ではなくて、他の親族が加わったり、非血縁者の女中さんや奉公人が加わったりというタイプもありました。けれども、基本的に前近代も核家族的だったということがわかっています。

近代社会になって来ると、その核家族が他の親族や非血縁者も排除して、純粋な核家族になってきます。そこに、固定的な性別役割分業が家族の中で成立し「専業主婦」が誕生します。それまでは専業主婦なんてなかった。自営業や農業では女性も働きます。専業主婦のように、外で働かずに家事育児をやっているだけというのは、近代になって初めて成立したものなんです。

子供は小さな大人だった

前近代から近代の間には、大人中心主義から子供中心主義へという子供観の変化もあります。前近代では子供は大切に育てられていません。大人でさえも生きていくのが大変な前近代社会では、子供は生まれても育てられないとなると殺したり、農村に里子に出したり、そんな風に子供は扱われていました。純粋無垢で可愛らしくて、愛される存在としての子供という位置付けではなくて、ある程度大きくなると労働ができるということで「小さな大人」として扱われるような社会でした。

フランスのパリの風景を描いた版画集では捨て子院の様子を見ることができます。さっき言ったように、子供が生まれても育てられないから捨てちゃうんです。ただ捨てるんだったら忍びないので、修道院に併設されている捨て子院に行って捨てる。ここに収容されたとしても、生存率は低いんですね。2/3くらいは死んだという話があります。捨て子院のようなものが制度化されるくらい子供は過酷な状況に置かれていました。

当時の赤ん坊の扱いは「スウォドリング」といって、布でぐるぐる巻きにされていました。昔は子供をぐるぐる巻きにしておかないときちんと育たないというイデオロギーがあった。大人が仕事をしている時ジャマにならないように、ぐるぐる巻きにして放っておくんです。実は今でもあります。日本ではあまりやっていないかもしれませんが外国では結構やっていて、赤ちゃんを包むと安眠するという説があって今でも市販されています。

『子供の遊戯』*パブリックドメイン (Pieter_Bruegel_d._Ä._041b)

オランダの農民画家、ブリューゲルに『子供の遊戯』という絵があります。この中で結婚式ごっこしている少女達がいますが、少女には見えません、老婆です。これが「小さな大人」の感覚です。ブリューゲルは農民画家で写実的な絵を書きました。ブリューゲルは社会が子供をどう見ていたのかという観点で、この子供を描いたんだと思います。

我々は子供というと可愛らしくて愛される存在だと思っていますけれども、中世の人たちはそういう感覚で子供を捉えていなかった。ある程度大きくなった子供は、学校もない時代ですから、一人前の大人になるためには、ギルドの親方のところに預けられて、ムチで叩かれたりして、厳しく教育されて一人前の職人になっていくということがありました。

近代社会になると公私が分離します。公私が分離すると家族外の広範な人間関係と交流が衰退していきます。そして、家族が集団性を強化すると、愛情経験の場は家族に排他的に独占されて、家族の中の愛情が特権化されます。そして、家族は子供中心にその凝集性を高めていきます。前近代では子供が邪険に扱われていましたけれども、今度は一転して子供を大切に扱って家族だけで責任を持って育てていこうという風になっていくのが近代社会です。

それを後押しして正当化した代表的な人物がフランスの啓蒙思想家で、教育学の開祖と言われているジャン=ジャック・ルソーです。ルソーは、実際にはたくさんの子供が多くの女性との間にいた。その子供たちをどうしたのかと言いたくなるけれども、自らの思想としては自分の子供は大切に愛情を持って育てようと提唱しました。今ではごく当たり前のことですけれども、生まれると捨てる、殺す、里子に出すということを平気でやっていた前近代から見ると画期的なことでした。

バルザックの小説の中にこういうフレーズがあります。貴族のおばあさんが「近頃の若い娘は子育てなんかにうつつを抜かしていていかん」と。子供が大切に育てられないのは下層階級の話に限らず、上層階級でも同じでした。上層階級の女性の主たる仕事は、家の主人をサポートする一家の女主人。雇い人や家の仕事を差配するのが主たる仕事でした。子育ては女中や乳母に任せればいい、そんなことにうつつを抜かすのはいかんというわけです。「娘が子育てにうつつを抜かすのもあのジャン=ジャック・ルソーの思想のためだ」というような台詞まで書いてある。このように、フランスの啓蒙思想家が子供を大切に育てようと言ったわけです。

家事労働は愛情の交換

今度は女性の変化についてお話しします。社会と家族の変化を語るときに、男性はほとんど変わらない。常に仕事をして、仕事をして、仕事をしてという存在です。けれども、子供と女性は違うんですね、変化してくるんです。子供も女性も前近代では仕事をしていて、近代の最初のほうでも仕事をしていて、近代が深まっていくとだんだん学校と家庭に回収されていく。それまでは女性も子供も労働の最前線の現場にいたんです。前近代では自営業や農業の最前線にいて、産業革命の最初は過酷な労働現場の最前線にいたんですけれども、だんだん家庭と学校に回収されるんです。

男は外、女は内というような固定的な性別役割分業は近代になってからできました。家事労働の定義は市場化されない労働ということです。家事労働というと、食事を作ったり、掃除をしたり、洗濯をしたりするのが家事労働だと思うかもしれませんが、弁当を買ってくれば食事を作るというのも市場労働なる。洗濯物もクリーニングに出したら市場労働になる。掃除も、掃除代行業といったものに委ねれば市場労働になる。労働の種類によって家事労働が定義されるのではなくて、市場化されるかどうかで判断されます。市場労働の特徴は労働に対価が支払われることです。働いて賃金もらうわけです。だけれども、家事労働はいくら働いていても対価が支払われません。

市場労働は対価が支払われるので、労働の量と質が計算されます。たくさん働けば賃金をたくさんもらえます。残業がそうですよね。そして、経験を積むと労働の質が上がるから、たくさん給料をもらえます。だけど家事労働はどんなベテランになっても、対価が支払われないわけですから、労働の量と質は計算されません。市場労働は競争に晒されています。つまり、働きが悪いと「君は明日から来なくてもいいよ」と言われるかもしれない。なぜならば、代わりはいくらでもいるから。家事労働ではそうはいきません。

では、なぜ人は無償で家事労働を行うのでしょうか? 近代家族論では、家事労働を無償で行うことによって、愛情、情緒の交換が行われると考えます。例えば、新婚の夫婦で、旦那さんが仕事を終えると一目散に家に帰ってくる。専業主婦の奥さんがいるとすると、その奥さんが昼間から料理本を見て、すごい料理を作って、初めて作ったので塩味きついけれども、帰ってきてそれを食べた旦那さんはちょっと辛いと思っても「美味しい、君の料理すごいな、うちのお袋こんなものを作ってくれなかった」みたいなことを言うと、奥さんの家事労働が報われるという構造です。あるいは、小さな子供がお母さんが作った料理を食べて「お母さんの作った料理は世界で一番美味しいね」と言った途端に、お母さんのそれまでの料理を作るという家事労働が報われるわけです。子供が「とても美味しいね、じゃあ1,000円ね」って言ったら、なんとなく変ですよね。

そのようにして「愛情が支払われる」と考える。これを男性と女性になぜ割り当てるのかというと、ここでジャン=ジャック・ルソーらのフランスの啓蒙思想家たちの考えがあるんです。市場労働は功利的な動機付けが優先し、家事労働は情緒的な動機付けを優先する、というわけです。功利的な動機付けというのは、出世とか金儲けとか権力を手に入れたり名誉を手に入れたりするのに繋がります。でも、家事労働では出世するとか権力を手に入れるとかは関係ありません。

このように家事労働は愛情の交換であり、それを男性と女性に割り振るイデオロギーがあって、男性と女性とで生き方が違うんだということをジャン=ジャック・ルソーは言った。このようにして、男性が外で賃金労働をして、女性が家で家事労働をするというのが定着するんですけれども、実はその少し前の段階では子供も女性も労働の最前線にいました。

ソリッド・モダニティとリキッド・モダニティ

これは20世紀のはじめにボストンの近くにあった、その当時世界で一番大きかった紡績工場の出勤風景です。20世紀はじめ、1910年くらいです。誰が出勤していますか? 子供ですよね、後ろにいるのは女性。もちろんこの工場では成人男性も働いていましたけれども、子供と女性は男性のようにあまり文句も言わないし、安い労賃で働かせることができました。

イギリス炭鉱写真絵はがき』という本がありまして、それに出ている写真を見ればわかりますが、当時のイギリスの炭鉱では男性だけではなく女性も働いていたんです。少女たちは狭い坑道の中、上半身裸で炭車を引いていました。女性も子供も産業革命の始まりに労働の最先端にいたんです。日本でも紡績工場で多くの女工さんが働いていました。それが、だんだん女性と子供の労働を制限する社会立法の制定、家族賃金、家族扶養手当の上昇、子供の世話をしない親への罰則規定の強化、女性の幸福は結婚して子供と夫の世話をすることだというルソー風のイデオロギーの普及によって、女性と子供は労働の最前線から家庭と学校に回収されていきました。

子供と女性の就労を制限する社会立法です。イギリスの産業革命は、イギリスがフランスとの間で戦った七年戦争が終結した1760年から1830年代にかけて起こり、その間に工場法というものが制定されました。イギリスで最初に工場法が制定されたのが1833年で、ここで9歳未満の児童の労働を禁止します。ということは、それまでは9歳未満でも働かせていたということです。そして9歳以上の若年労働者の労働時間を制限して、さらに1844年の改正では女性労働者の労働を制限し、さらに1847年には一日の労働時間を10時間以内に制限しました。

ちなみに、日本の場合はどうかというと1911年にようやく工場法が制定されるんですけれども、渋々制定したもので、施行されたのが5年後です。12歳未満の就労を禁止して、15歳未満と女子の労働時間を一日12時間以内にする。そして、深夜の労働の禁止。こういったことを定めましたけれども、イギリスに比べれば、70年くらい遅れています。そのようにして、専業主婦が誕生していきました。

多くの社会学者は近代を二つに分けるんです。ジグムント・バウマンという社会学者が命名したのがすごく言い得て妙なんですけれども、固定的な安定した一つ目の近代「ソリッド・モダニティ」と、不安定で液体のような二つ目の近代「リキッド・モダニティ」の2つです。前近代社会には村落共同体、家共同体、身分制社会、封建、絶対主義国家等の伝統的な社会制度や政治制度がありました。それを変えることでできたのが市民社会や近代家族、学校、企業、階級社会、国民国家からなる新しい近代だったわけですね。前近代的なものを打倒して新しい近代を市民が主人公になって作ったんです。これが一つ目の近代「ソリッド・モダニティ」です。

ですけれども、近代化というのは一旦始まると止まらない。常に不備なもの、弱いもの、それらの権利を擁護して、社会をより良きものに変えていかなければならない。伝統的な社会は王様や封建領主が支配していましたから、市民が社会を変えられなかったけれども、近代以降は社会が変わっていってもいいし、変えるべきだということなった。そして現代では、安定した近代それ自体をさらに変えていく二つ目の近代「リキッド・モダニティ」の時代で、家族というものも変わっていく。これは現代社会の宿命です。

対談:家族社会学から見る「拡張家族」

NWF:もう一人のゲストを紹介させてください。今回モデレーターをお願いしました藤代健介さんです。Ciftという「拡張家族」というコンセプトを実験している場所が渋谷にあります。藤代さんをお招きして、家族とはなんだ? AI時代の人間らしさ、家族ってなんだ? と踏み込んでいきたいと思います。

藤代:僕が発起人としてやっている拡張家族「Cift」というのは、今60人くらいが所属している社会実験プロジェクトです。その内容は、ご縁で繋がった元々は知らなかった人たちが主体的に家族だと思い込むことで生活共同体は作れるのかというものです。Ciftは、コンセプトに共感するというプロセスを踏んだ人しか入れないシェアハウスがベースになって活動しています。

渋谷にあるSHIBUYA CAST.という、渋谷駅を出て1分くらいの高層ビルの上にワンフロアで貸し切っていたり、来年は京都にも拠点ができる予定で、メンバーが100人くらいになります。その100人が顔と名前が一致していなくても、お互いがお互いを家族だと思い込むという契りを交わされているからこそ、赤の他人に対しての「初めまして」ではなく、赤の他人ではあるけれども「初めまして、家族」みたいなコミュニケーションができるのか。できると思おうとしても、実際に現実的にできなかったりするので、そのあたりを社会実験的に自分たちがどんな気持ちになるのか、自分たち自身が体験して経験を共有する。そういうようなことをやっています。

もう一つ特筆すべき点は、僕も含めてフリーランス的に活動して時間と空間を自由に使える身だったりもするので、そんな場所に私はいて、家族というものについて色々考えたりしています。

池岡先生にあらためて質問したいのですが、「家族」とはなんでしょうか? 家族という言葉が飛び交う時に、正解がないかもしれないけれども、それを含めて「家族とは何ですか?」と問われたら、どうお答えになりますか?

池岡:普通は、科学的な研究をするとき一番最初にやることは、研究対象を定義することです。ところがこの「家族」の定義が大変難しい。私は大学の授業の初回では学生にアンケートをするんです。回収しないからあなたの家族を自由に書いてくださいと言うんです。そうすると、人によって、どこまで家族だと書くのが違うんですね。つまり我々ひとりひとりは家族について多様な定義を持っている。ですけれども、研究者はそれでは困るので、だいたいこれが家族だ、こういったものが家族の基本だと定義をしながら、研究をしています。

このように、家族の定義問題という大きなテーマにして、それ自体が研究の対象なんだけれども、つまり家族というものは客観的な研究対象であるわけではなくて、我々の誰もがその中に巻き込まれて、その生活を実践している対象であるから、その定義は難しいということになります。もう一つ言うと、実は我々が新聞などで「核家族が増えている」とか耳にしますが、どうやってカウントしているかわかりますか? 実は正確には「家族」ではなくて「世帯」なんです。

今言ったように、「家族」は人によって定義の仕方が違いますから、統計データが取れない。国勢調査でも「3ヶ月以上そこに一緒に暮らして生計を共にしている人を世帯という」と定義してデータをとって、それが家族とイコールだということで、核家族が増えているなという風に言うんです。

藤代:「家族」という言葉は使いつつ、統計上は「世帯」というものを使っているということですね。Ciftも「拡張家族」という言葉も使いますし、「意識家族」という言葉を同時に使っていたりするんですけれども、結局意識で家族だと思い込んでしまえば、家族だということをだれも否定できない、みたいなことを自分たちで言い切っているわけです。「自分たちが家族だと思ってしまえば家族だ」という定義は成り立ち得るのか。

池岡:国勢調査などでCiftを調べようとすると、その世帯概念がどうであるか違いがあります。世帯概念ってみなさんご存知ですか? 一般世帯と施設等の世帯というような区分になっています。ですからCiftが施設等の世帯として一括りされるのか、それとも一般世帯の中でそれぞれCiftに住んでいる人たちが、一人ずつ住んでいるとしてカウントするか。非常に微妙なところで面白いと思います。

藤代:池岡先生の前近代のお話を興味深くお聞きしました。自分も「家族」というものの背景、これからの社会課題やこれからの時代にどういう新しい型が必要なのかを、Ciftを作ることで提示しているんです。その背景として、僕の解釈が違ったら修正していただきたいんですけれども、「近代」を一言で言うと「分断」だったと僕は思っています。もう少し正確に言うと、生活の分断と仕事の巨大化、家族の縮小化と組織の巨大化ですね。

生活と仕事というのは真逆だと思っています。それはなぜかというと、近代というものによって、人が自我を持って、自分が自分のために生きていいという哲学を与えられた時に、人は生活においての自由を求めるし、仕事においての合理性を求めるんです。そうすると、生活において自由を求めようとすると、煩わしいものをなるべく排除していく。その流れによって、まさに家族は三世代世帯から核家族世帯になり、より小さい世帯が現れ始めています。一方で仕事の組織というのは、どれだけレバレッジをかけてバリューを出せるかが勝負です。巨大なグローバル企業になればなるほど、R&Dやマーケティングが合理的で、結果的に大企業や中小企業は負けてしまうわけです。このような観点について、いかがでしょうか。

池岡:私も話の中で公私の分離と言いましたけれども、そのことと関連していますよね。分離が色々なところで起こるわけです。賃金労働と家事労働、男性と女性。こういったもので、様々な面で分断が起こるわけです。分断が起こったのが「近代1」のフェーズだとすると、私は次のフェーズは公私の再編だと思うんです。例えば、どういう局面で起こっているかと言うと、子育ての社会化、外部化です。近代社会の近代家族の中では、もっぱら家族が子育てするんだ、とりわけ母親が子育ての責任を負うんだということでしたが、それは公私を分離したからです。でもそれではやっていけなかった。

近代以前は、子供を虐待的なこともしていましたけれども、子供に関わる大人はたくさんいたわけですね。ですから、今度求められるべきものは公私の再編で、子育てに関して言うと、例えば学校だけでもなく、家族だけでもなく、色々な人が寄ってたかって子育てしていいじゃないか、ということです。つまり、古い伝統的なものとは違う形で、新しいバージョンを追い求めること。藤代さんがやっているシェアハウスも新しい家族の形だと私は思っています。

藤代:ありがとうございます。今の話をお聞きすると、核家族よりもさらに分断されて、家族という形態自体も再編のようなものが社会学的に起き始めていると。それはある種の必然だと思います。近代は分断だったと先ほど言いましたが、家事の外部化もやっぱり分断だと思うんです。一方でCiftのように今までとは違う文脈で家族自体を再編して再構成するというのは「分断」ではなく「結び」とでもいうような、今までとは違う「家族」が生まれつつあるように僕には見えるんです。

池岡:方向性はそれだと私も思っています。別の言葉で言うと「家族を開く」ということです。前近代は家族が筒抜けで開かれっぱなしだったわけですよ。家族以外の他の人々が家族の中に侵入してくるわけですよね。だけれども、近代社会になると公私が分離していく中で、近代家族は他からの侵入を許さないような独立した単位になったわけです。でも、家族の中だけで子育てをやってきたというのはこれまでの歴史でないわけで、「これではダメだ」と家族を開いて、新しい形で子育てをしていこうと。そういう展望、希望を私も考えております。

藤代:「開く」が一つのキーワードですね。もう一つ質問ですが、新しいケースは出てきているけど、そこまで多くはない。社会の大多数の人は、自分の自由のほうが大事だったり、愛よりもお金が欲しかったり、まだまだ「開く」ことができずに分断されたままです。開く人と開かない人の違いはどこから生まれるのでしょうか。家族の変遷を振り返ることでヒントは得られるんでしょうか。

池岡:残念ながら日本はそういう点で、状況は遅れていますよね。でも、欧米では日本よりもずっと進展していると思います。今欧米では平等主義的な核家族のようなものが主流です。男性も女性も働き、なおかつ家事をして、しかもその家事を嫌々するのではなくて、家事をすることの喜びもあるわけですよね。人生は一回しかない、子供を育てるということも人生に一回しかない経験です。働くことによる成功体験だけではなく、家族の中でしかできない経験をすることで得られる何か、そういうものが人生を豊かにすると多くの人が気付き始めています。日本はそこが遅れていると思います。

藤代:日本が欧米よりも遅れてしまっている、開けない理由は何があるんでしょうか。

池岡:それは伝統的な、戦前から繋がってきている家制度のような伝統です。欧米では核家族なるものが家族の単位として近代以前から主流であったわけです。でも日本の場合には、いわゆる三世代家族に代表されるような「直系家族」と言いますけれども、これが日本の家の伝統で、それが戦前までは法律でも保証されていたわけです。そこが難しい点で、今回説明できなかった、東アジアが抱える問題点ですね。韓国の張(チャン)先生という人が初めて言ったんですが、「圧縮された近代」がその原因だと。つまり、欧米では近代化を100年、200年かかる長いスパンの中で達成した。近代化に対応する社会制度ができた上で、現代のグローバル化やAI化の時代を迎えているんです。

ですけれども、遅れて近代化した東アジアの国々は、近代化が十分に進まないうちに、社会的な制度が十分に確立しないうちに、経済がグローバル化し情報システムが著しく変化する社会に投げ込まれてしまった。頼るべきは社会制度ではなくて、家族になってしまったんです。昔から頼ってきたのは家族ですから。ところが、頼るべき家族は第2の近代「リキッド・モダニティ」の家族ですから、安定性や安全性を保証する家族ではもはやないわけです。そのような理由で、日本もおそらく韓国も、混迷をしているということです。

藤代:今の話は社会制度、日本だと明治維新以降から近代が始まって、特に終戦以降から80年くらいの間で一気にシステムを作っていったけれども、その変化に追いついていないという状況はとてもよくわかります。でも、おそらくこれからの時代の流れを見れば、社会システムも含めて、時代はより速くなっていく。そういう時に、社会システムが実装されてから人が乗るというより、人が乗りながら社会システムも実装されるという、イタチごっこになっていく時代になると思うんです。

時代の変化が速くなるという延長に、今回のテーマの「AI時代」もあると思っています。AIは1つの象徴ですが、例えば、大家族時代は洗濯だけをずっと一日やっていたところに洗濯機が登場し、一家に一台なり、一人暮らし用なども生まれて、恩恵をもたらした部分はすごくあると思いますが、逆にテクノロジーの発展が家族を核家族化していった。今は白物家電ではなく、人々をより繋げるためのインターネットであり、ブロックチェーンやAIという新しいテクノロジーを使うことでより分断していく家族も作れるだろうし、逆にそれを使うことで家族を再編できるような文脈もあると思います。このAI時代の「家族」というものについて、希望的や展望、ヒントをいただけたら。

池岡:私は家族の専門でAIは専門ではないので、AI時代になったらいったいどんな家族が生まれるのかということは、実はフロアの皆さんにも教えてほしいと思うくらいです。ただ、若干私が考えていることを言うと、例えば単身世帯が増えて、これからどうなるのかと心配されました。確かに核家族よりも小さな世帯がこれからの主流です。将来は単身世帯の人が、全世帯の中の30パーセントを超えます。次に夫婦のみの世帯も増えていきます。純粋な核家族、つまり夫婦と未婚の子供からなる核家族世帯は少数派になっていくかもしれません。

そこから皆さんどんな風に考えますか? 一人暮らしだとか夫婦二人だけの高齢者は、孤独で寂しい、なんとなくそう考えますよね。確かにそう考える人もいるかもしれないけれども、でもそうでない人もいるかもしれないですよね。一人暮らしが気軽だとか、夫婦だけで生活して気楽だとか。そういう風に思っている人もいるかもしれない。単なる世帯の外見からだけでどうであるかと判断できないんです。そういう中でやっぱり私が有効だと思うのは、AI時代の新しい情報システムによって、一人暮らしや二人だけで暮らしている人たちが、実際に一緒に住んでいないけれども、何かで繋がっていく感覚。あるいは実際に繋がっていく活動。そういったものを新しいAIのシステムを通じてやっていくのが、ひょっとしたら未来の家族のあり方なのではないかと思っています。つまり、家族がたくさんいるから幸せだということではなくて、一人で暮らしても二人で暮らしていても、十分に幸せであるようなサポートをAI時代の情報ネットワークがしてくれるような方向になるかもしれない。希望的に言ってみました。

藤代:前近代では子供を労働に使うことを含めて、生き延びるために家族という単位を大きくしていかないといけなかった。けれども、そこに産業革命も含めて、テクノロジーの発達も含めて、一人でも生きていけるインフラないしはテクノロジーシステムが生まれてきた。そこで、家族というものは必要条件ではなくなって、一人でも生きられるというところまで今人類は来ています。逆に、本当の意味で家族に求めるものは、生きるために繋がるのではなくて、繋がりたいために繋がること。これからは本当の純粋な愛の文脈というものが求められてくる。先ほど先生が仰っていたように「家族を開く」という概念において、生活としては一人でも成り立つんだけれども、繋がるためにテクノロジーを使っていくことで、一人なんだけど全体であり、全体であるけど一人でもある、良いこと尽くめなのではいかと感じます。

近代2のリキッド・モダニティの中で、家族の再編、循環、エコシステムの中に入るためには、まずは自分で開いて、お父さんという自分を開くとか、長男という自分を開くのか、自分の子供を開かせるとか、自分を開くことによって、自分もその輪に加われるし、その運動がこれから大きくなっていくこと。そこに対してAIやテクノロジーが、そのような活動を現実的にサポートしていくことで、より多くの人が入っていける。「AI時代における家族」としては少し楽観的かもしれませんが、良いビジョンだなと思います。

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