ARTICLES

Event report

Next Wisdom Gathering “高野山に学ぶ叡智“

EVENT

Next Wisdom Gathering “高野山に学ぶ叡智“

今年2015年は弘法大師空海が高野山を開いて1200年目にあたります。様々なジャンルの第一人者が空海の教えに影響を受け、日本だけでなく世界のリーダー達を惹き付ける高野山にはどのような叡智があるのか? そして空海とはどのような人物なのか? 今回は高野山三宝院で副住職をなさっている飛鷹全法さんをゲストに、当財団評議員生駒芳子さんによるファシリテーションを通して、空海の思想と高野山の世界観に迫りました

ゲスト:飛鷹全法氏(高野山別格本山三宝院副住職)

東京大学法学部卒。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程中退。専門は比較日本文化論、南方熊楠研究。大学院在学中より、ITベンチャーの立ち上げに参画、ソフトウェアの開発に携わる。その後、株式会社ジャパンスタイルを設立し、国際交流基金の事業で、中央アジア・中東・カナダ等で津軽三味線や沖縄音楽を始めとする伝統芸能の舞台をプロデュース。2007年より経済産業省主催の海外富裕層誘客事業(ラグジュアリートラベル)の検討委員に就任。現在、高野山別格本山三宝院副住職、高野山大学総務課長。

評議員:生駒芳子(ファッション・ジャーナリスト)

VOGUE、ELLEでの副編集長を経て、2004年よりマリ・クレール日本版・編集長に就任。2008年11月独立後は、ファッション、アート、ライフスタイルを核として、社会貢献、エコロジー、社会企業、クール・ジャパン、女性の生き方まで、講演会出演、プロジェクト立ち上げ、雑誌や新聞への執筆に関わる。公益財団法人三宅一生デザイン文化財団理事、NPO「サービスグラント」理事、JFW(東京ファッションウィーク)コミッティ委員等。

31歳の若者が日本を変えた

生駒:全法さんは東京大学の法学部を卒業されて、大学院では比較日本文化論を学ばれて、その後ベンチャーの立ち上げと会社経営もなさって、そしていま高野山で副住職をなさっています。非常にユニークな経歴なのですが、一体なぜ高野山に入られたのでしょうか?

飛鷹:私が高野山に入ることになったのは20年前のある縁がきっかけです。大学時代に根津に下宿していたんですが、たまたま全生庵というお寺のそばを歩いていると「誰にでもわかる仏教講座」という看板が掛かっていたんですね。ちょっとのぞいてみようという気になって入ってみたんですが、その先生のお話がとても面白かったんです。それで定期的に通うようになったんですが、そしてある夏に、高野山で合宿をやるからと連れて行ってもらったのが最初でした。その時に合宿をしたお寺で、私はいま副住職やっているわけですから、縁というのは不思議だと思います。家がお寺だったわけではありませんし、自分自身もお坊さんになろうと思って生きてきたわけではありませんでしたが、紆余曲折を経て、高野山開創1200年というタイミングで、今こうしてみなさんの前でお話ししているのも、何か自分の意思を超えた力によるものだと、改めて感じております。

 

生駒:まさに運命的ですね。では空海さんや高野山のどのような点に惹かれたのでしょうか?

 

飛鷹:空海さんが何をした人なのかということを、残念ながら今の教科書ではほとんど勉強しないですよね。日本の仏教と言うと鎌倉時代からというイメージが強いと思いますが、鎌倉仏教の開祖である親鸞さんや日蓮さんが活躍した時代から約400年ほど前、8世紀から9世紀にかけて生きたのが空海さんです。仏教自体は6世紀の始め、聖徳太子の時代に入ってきましたが、その約250年後に密教というものを新しく日本に持ってきた方です。空海さんは当時のエリートで、奈良で勉強していたのですが、自分の求めているものが今の奈良では学べないと、いわゆるエリートコースからドロップアウトしてしまいます。

 

そして24歳の時に『聾瞽指帰(ろうこしいき)』という戯曲を著すのですが、いわばこれは自分が仏教を選んで出家するのだという宣言の書でした。それから7年間、空海さんは歴史の表舞台から姿を消します。実際、この7年間に何をしていたのか分からないんですが、おそらく山岳修行に明け暮れていたのだろうと思われます。そして延暦23(804)年、31歳で唐に渡ります。四隻の船で行くのですが、そのうち二隻が沈んでいるんです。残った二隻のうちのもう一方の船に乗っていたのが、後に天台宗の開祖となる最澄さんでした。つまり、日本の密教の両祖師を乗せた船だけがたどり着いたわけです。空海さん一行を乗せた船は南方に流れ着き、当初密輸船と間違えられて上陸を許されなかったのですが、その時に空海さんが書いた手紙があまりに格調高くて、役人は「これはただ者ではない」と都の長安に連絡をしたそうです。

 

それから空海さんは唐の長安で密教を徹底的に学び、8代目の正統な継承者となってわずか2年で帰国します。本来、遣唐使の留学期間は20年ですので、2年で帰って来てしまっては、「闕期(けつご)」と言って罪になる。そのため空海さんは「本来は死んでお詫びをしなければならない罪であるかもしれないが、自分が持って帰ってきた密教は、得難いこの上なく価値あるもので、こうして生きてお届けできたことを喜んでいる」という趣旨の報告書を朝廷に提出しています。

 

空海さんはその想いを「虚往実帰」(きょおうじっき)、「虚しく往きて、実ちて帰る」という言葉で表現されています。空っぽで行った自分が、密教という新しい教義に満たされて帰ってきたという充実感を感じさせる言葉ですが、先ほどの報告書は『御請来目録』(ごしょうらいもくろく)と言って、持ち帰った全ての経典のリストなんですね。それを見ると、いかに空海さんが体系的に物事を考えて準備し、実行してきたかという事が分かります。

 

密教という1つの包括的な思想のシステム、世界観というものをわずか2年間で習得し、日本に移植したということ、そしてそれがその後の日本文化に与えた図りしえない影響を考えると、司馬遼太郎さんの言葉にもありましたように、確かにそれは超人の仕事と言えるでしょう。ただそれを「空海」という歴史的な評価の定まった偉人としてではなく、31歳の若者が成し遂げたのだ、と考えてみると、私たちにとってもその凄さがよりリアルに感じられるのではないでしょうか。31歳の空海という若者がたった2年間で日本の歴史を塗り替えるくらいの仕事をした、と考えると、何か感じるものが違ってくると思うんですね。人は2年間でこんなことができるんだという人間の可能性を感じますし、すごく勇気づけられることだと思います。

*空海についてさらに知りたいかたはこちらへ

エンサイクロメディア空海

瞑想の場として開かれた高野山

生駒:私も全法さんにお誘い頂いて初めて行った高野山で、深夜に真っ暗な山道を歩いて奥の院で参拝させていただいた体験が、自分の中ではすごく特別なものでした。二回目は昼間に参拝したのですが、やはり一度目の体験が忘れられませんでした。

飛鷹:真夜中から明け方までの間、時間で言うと午前三時から五時くらいにかけてを「後夜」(ごや)といって、夜が最も深く、清浄で、瞑想に適した時間帶とされています。空海さんが「後夜に佛法僧鳥を聞く」という詩を詠んでらっしゃることを、私も知識としては知っていたんです。ただそれを知識として知っていることと、体験として解っていることとは、やっぱり大きな違いなんですね。高野山のお坊さんになるためには、「四度加行(しどけぎょう)」という修行を終えないとならないのですが、町中からさらに山間に入った道場で、一切外界から遮断され、100日間という時間を過ごします。

日々の行は、朝3時から始まるのですが、ひとりで本堂で拝んでいると、突然ものすごい雨が叩きつけて来て、おそろしいほどの雷鳴が轟く。このまま自然の猛威に呑みこまれてしまうのではないか、とおののきながらも必死に拝んでいると、いつのまにか雨は止んで、森に光が静かに満ちてくるんです。かすかに一声、鳥の鳴き声が響いたと思うと、次第に鳴き声が重なり合って、夜明けを導いて来るんですね。道場から外に出て空を見上げると、雨に洗われた青空は限りなく澄んでいて、木々の合間から射し込む木漏れ日は、まるで透明な音楽のようでした。本当に体が震えるような感動を覚えました。その時、ああ、だから空海さんは後夜っておっしゃってたのかって、思ったんです。都会だとその時間帯に、まだお酒を飲んで遊んでいたりするわけで、仮にそんな時間に起きても、残念ながら自然の営みは見えてこない。鳥もそれほど鳴かないですし、光が満ちる前に電気がついてしまう。でも修行道場という、文明と自然とが出会うぎりぎりの最前線のような場所に居て、夜から朝への遷移の時間に、大自然のこんな壮大なドラマが毎日行われているんだってことを、初めて気づいたんです。

 

こんな風に世界は目覚めるのだってことにあまりに感動したので、ぜひこの後夜という時間帯を体験してもらいたいと思って、親しい仲間が高野山に来てくれたときには案内したりしているわけなんです。仲間うちでは「宇宙に一番近い、後夜の旅」って呼んでるんですが。

飛鷹:空海さんが高野山を嵯峨天皇から下賜されたのが、今から1200年前、弘仁七(816)年のことです。空海さんは若い時から山の中で修行していて、高野(たかの)という「平原の幽地」に目をつけていました。「修禅ノ一院ヲ建立セン」と書いてらっしゃいますが、修禅とは瞑想のこと。瞑想するための場所をここに作りたいからください、と天皇にお願いしたのです。空海さんは当時の京都で大活躍した、今でいう最先端のビジネスパーソンのような存在でもありました。その空海さんが天皇に認められて、何を求めたかというと瞑想の場だったんです。空海さんの思い描く修禅の道場、深い瞑想に入るために一番良い場所が高野山だった、という事なんですね。

こういうところに現代に通じる高野山の意味があると思うのです。多くの都市生活者が分刻みで仕事をしていると、なかなか創造的なアウトプットをし続けることも難しくなりますし、メンタルな病気を抱えたり、身体に変調を来したりしますよね。その一方で、最近では欧米やビジネスの現場などで「マインドフルネス」ということが言われて、TIME誌でも特集が組まれるなど、瞑想が非常に着目されています。とすると、空海さんが1200年前に京都に対して高野山という場所を配置したことは、アクティビティーとメディテーションのカップリングという構図で、きわめて現代的な意義を持ち得るんではないかと思うんですね。ですから、今日お越しのみなさんもそうだと思うのですが、第一線のビジネスの現場やクリエイティブな領域で活躍する方々こそ、高野山に来ていただき、自身と向き合う静かな時間を過ごしてもらって、また日々の仕事にもどっていただく、というように、高野山を活用していただければと思っています。

生駒:少し話は飛んでしまうのですが、高野山に行った後、熊野古道をさらに南のほうへ巡っていました。「花窟神社(はなのいわやじんじゃ)」など、あの辺りの神社のご神体が全部岩で、皆さん山に籠って瞑想していたんです。それを見たときに、山に籠る意味というのを考えました。現代では家に籠ったり、ひきこもりという言葉もありますが、それはネガティブなことだけではないなと。すると空海のことを思い出したんです。昔の人々は自然の叡智を求めたり、真理を追求したり、自分自身を深く見つめたり、あるいは宇宙とつながったり、何かを求めようとする時に籠る場所が山であり、山は一つの情報源だったのかもしれないと感じました。

飛鷹:おっしゃるとおりだと思います。空海さんが若い時になさった虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)という修行がありますが、これは虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えるんですね。1日1万回だと100日間、1日2万回だと50日間かかるわけですが、成満するとお経の文言がすべて頭に入ってしまうと言われています。ただこれは単なる記憶術ではなくて、「虚空」、すなわち大宇宙に遍満する情報にアクセスするための技術なのではないか、と思います。私自身は、まだ求聞持をやっておりませんので、実際に成満された方の言葉から推測するよりないのですが、空海さんご自身が求聞持を成満されたときの様子を「谷、響を惜しまず、明星来影す」と書かれています。これを神秘体験ととらえる向きもあるかもしれませんが、精神の持続的な緊張と集中状態が、ある段階で違う位相にジャンプして、大自然の持つ情報にアクセスできるようになった瞬間の表現なんじゃないか、と思ったりするんですね。

 

高野山に住んでいて思うのは、これだけ文明が発達した今日でも冬を越すのは大変で、気温は-10℃を下回ることもあります。空海さんがいらっしゃった当時は、もっと寒かっただろうし、いったいどうやって暖を取ったり、食べものを調達したのだろう、と不思議に思うのです。そうした中で命をつなぐためには、自然の些細な変化にも敏感に反応しなくてはならなかったでしょうし。おそらく、私たちが想像するよりもはるかに大地の情報を読み解くことができたはずで、山岳修業とはそうした情報の解読力を開発するためのものだったのかもしれません。

世界から評価される高野山

生駒:高野山にはどのような方々がいらっしゃるのでしょうか? いままでは大阪近辺のお年を召した方々がいらっしゃる印象がありましたが。

飛鷹:女性や外国人の方が増えていますね。女性おひとりでお越しになって、指定のいつもの静かなお部屋でゆっくりと過ごす、という方もいらっしゃいますよ。気持ちの上でのデトックスというか、日常生活でたまった疲れをリセットしにお越しになるようです。

生駒:私はまだ2回しか行ってないですが、それぞれで外国人の方に会いました。1人は朝の勤行で、隣に白人の女性がいらっしゃいました。どこから来たのか聞いたらアメリカからで、なぜ来たのか聞いてみると「ビコーズアイラブ空海」。マーシャルアーツという武道をなさっていて、その背景や歴史を調べていくと空海にたどり着いたとおっしゃっていました。奥の院では、ロシア人のカップルに出会いました。理由を聞くと、ネットで調べてみて面白そうだったからと。

飛鷹:最近そうしたケースは増えていますね。日本に来る外国人の方々は、日本では最先端のものと伝統的なものが共存しているところに面白さを感じるようです。テクノロジーに代表される最先端のものは東京で体験したけど、古い歴史や文化を体験するにはどこがいいだろうと思って検索したら、高野山の奥の院の写真が出てきた、それで来ましたなんて方もいらっしゃいます。最近では、旅行口コミサイトの「トリップアドバイザー」での評価も非常に高く、「ナショナルジオグラフィックトラベラー」では『2015 年に訪れるべき世界20選』に選ばれました。日本では高野山だけでした。

 

空海さんが訪れた時の唐の長安も、当時最先端の国際都市でしたから、相当国際感覚を磨かれたのではないでしょうか。その空海さんが開いた高野山だからでしょうか、日本という枠を超えて、ダイレクトに世界へとつながってしまう可能性があると思いますし、実際のインバウンドの動きを見ているとその感を強くしますね。

 

生駒:フランスの哲学者サルトルも、高野山に訪れていますよね。

 

飛鷹:フランスの方は非常に多いですね。フランスでは密教研究も盛んですし、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンでは高野山は3つ星の評価を得ているんですね。その影響は結構大きくて、直島を見てから高野山に来て、次に佐渡へなんていう、3つ星スポットをたどる旅をされる方もいらっしゃいます。高野山はどこかのついでに立ち寄る場所ではないので、来られる方々は目的意識がはっきりしていて、知的な方が多い印象を受けます。密教と神道の関係についてとか、結構突っ込んだ質問もされるので、こちらも勉強しておかないとなかなか答えられません。

共存と調和の象徴としての高野山

飛鷹:日本人は大晦日にはお寺で除夜の鐘を撞き、その足で神社に初詣に行きますよね。その前にはクリスマスもありますし。それは今の私たちにとっては普通のことであって、特におかしいと思っていません。ただキリスト教のような一神教を信仰する方々にとっては、容易には理解し難いことなんです。日本人の信仰にはディシプリンがないのではないか、なんて言われる。しかも、あなたの宗教はなんですか、と問われると大抵の日本人は「無宗教」と答えてしまう。でも、あれだけ除夜の鐘や初詣に大挙して押しかけていて無宗教というのも、どうも落ち着きが悪いですよね。要は私たちは宗教というものを、どう語っていいのか分からなくなっているのではないでしょうか。

そこで、まず考えなくてはならないのは、「宗教」という言葉自体が明治にできた言葉で、religionという語の翻訳語だということです。私たち日本人は、仏教の長い歴史と伝統を持っていますが、そのすべてに「宗教」という明治以降に出来た近代的な概念をあてはめてしまうと、そこからこぼれ落ちてしまうものがたくさんあるような気がします。ですから、まず私たちがすべきことは、「宗教」という近代的な言説をいったんカッコに入れて、私たちの長い歴史に直接立ち返ってみることなのではないかと思うのです。

飛鷹:高野山の麓には丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)という神社が、1700年前からありますが、空海さんは、その丹生都比売さんの土地を天皇からいただいて、密教の道場を開いたんですね。一神教的な考えからすると、もとからいらっしゃる神々と密教の仏さまとがバッティングしてしまうと思うのですが、空海さんは高野山を開くにあたって従来の神々を、地主神、鎮守神としてお招きしたんです。そのため高野山の壇場伽藍という一番の中心地には鳥居があって、その奥に御社(みやしろ)という神社があるんですね。これが神と仏が共存共栄する神仏習合の原点になっています。

ですから、高野山のお坊さんは仏様と同等かそれ以上に、神様も拝むんです。高野山では鎮守神のことを明神さんと呼んでいますが、地主毎日のお勤めの際にも「南無大師遍照金剛」「南無大明神」とお唱えして、空海さんとともに明神さんへの帰依を表します。また山内の寺院が一年交代で明神さんをお迎えする「明神奉送迎(みょうじんほうそうげい)」という儀式があり、明神さんをお迎えした住職は1年間山を降りず、精進潔斎して仕えるんですね。そうして1000年以上の長きに渡って仏様と神様を拝んでいると、それが儀礼や景観にも反映し、高野山を中心とするエリアの独特の文化様式になってくるわけですね。ユネスコが「紀伊山地の霊場と参詣道」としてこのエリアを世界遺産にした認定理由の1つに、この神道と仏教の共存共栄ということがはっきりと謳われています。

 

高野山には、このように本来なら異質でぶつかり合ったり排除し合ったりするものでも共存させてきた伝統があります。奥の院には、真言宗以外の様々な宗派の祖師たちのお墓や、生前に対立した大名同士のお墓も同じ場所にあって、高野山を焼こうとした信長の墓まであるわけです。現実世界では対立しているものも、曼陀羅という大宇宙の中では調和して存在する。それが密教や高野山の一番大事な考え方だったんですね。今まさに世界では宗教や思想の違いが新たな争いを生んでいます。その意味でも、1000年以上に渡ってあらゆる思想の共存と調和を保ってきた高野山の存在は、世界的に見ても普遍的な可能性を持っていると思うのです。

未来につながる1200年の叡智

生駒:いま私が個人的に注目しているのが、宗教というもの以上に「祈り」や「瞑想」の力です。自分自身を探るということ、自分だけではなくて世界に向けて祈りを捧げること。物理的な移動を伴わずとも、誰もがその場でできることとして、自分の持っているエネルギーを何かに向ける。情報の海の中で人はどこに行けばいいのか迷っているときに、自分自身の中に深く潜ったり、あるいは宇宙の中に生かされている自分に気づく、というようなことに注目しています。

飛鷹:そうですね、先ほど高野山がそもそも瞑想の場として開かれたということに触れましたが、情報化社会においては、内なる声に耳を澄ますということは、ますます重要になってくると思います。ビル・ゲイツは年に何日間か籠って読書をする時間をとっているそうですし、スティーブ・ジョブズには日本人の禅の師匠がいたと聞いています。彼らは自分たちが抱えている問題に対する答えを、東洋的な思想のエッセンスのうちに直感的に求めているのではないでしょうか。もしこれからの社会が抱える課題の解決のヒントが、私たちの文化の中にこそ見出されるのだとしたら、私たちには文化的なアドバンテージがあることになります。ではそのことにいかに気付き、競争力の源泉として戦略的に活用していくのか。そうした学びの場として高野山の役割は今後大きくなってくるのではないでしょうか。

 

生駒:高野山開創1200年を期に、全法さんが考える今後の高野山のビジョンとはどのようなものでしょうか?

 

飛鷹:私一人の力で高野山をどうこうするなどということはもちろんできませんが、今日お話させていただいたように、まずは高野山と皆さんがつながるきっかけを作れたらありがたいと思っております。高野山が開かれて1200年、ようやく私たちは空海さんの成し遂げたことの意味や高野山の意義を感じることができるようになってきたのではないかと思います。ということは、空海さんは、私たちの前を歩いている存在なのであって、空海さんを知ることは、未来へ前進することなのです。

 

だからこそ、少しでも多くの人たちに高野山を訪れていただき、それぞれの視点で、空海さんという存在を新たに発見していただきたい。またそこからさまざまな対話が生まれ、次の世代の高野山のビジョンが出てくるのではないかと思っています。伝統というものは各時代ごとに、そこに新たな意味が付与され、日々更新されてきたからこそ伝統なのです。この1200年の間に、その時代その時代の人々が新たな可能性や意味を高野山に見出し、今日まで継承されてきました。その意味で、高野山とは日本人の1200年分の智慧と経験と汗との結晶とも言えるでしょう。温故知新と言いますが、きっとそこから次代を考える叡智が立ち上がってくるのだと信じています。

Next Wisdom Foundation

地球を思い、自然を尊び、歴史に学ぼう。

知的で、文化的で、持続的で、
誰もが尊敬され、
誰もが相手を慈しむ世界を生もう。

全ての人にチャンスを生み、
共に喜び、共に発展しよう。

私たちは、そんな未来を創るために、
様々な分野の叡智を編纂し
これからの人々のために
残していこうと思う。

より良い未来を創造するために、
世界中の叡智を編纂する
NEXT WISDOM FOUNDATION

記事を検索