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CC BY 2.0, Zengame, watercolored
日本には四季がある、そして梅雨がある。
農業を営む人々にとっては恵みの雨だが、都市の住民にとっては時にインフラを麻痺させる危険な雨にもなる。
地上に降った雨は土壌にしみ込み、あるいは川に注ぎ込み、高いところから低いところへと流れ出す。しかし、山から海までの距離が短い日本の国土では、降った雨はすぐに海へと流れ出てしまう。地形的な理由で、日本の川は年間を通した水量の変化が激しく、渇水と増水を繰り返してきた。そして河口の平野部に人が集まり都市が形成されると、都市を治める人々にとって、生活用水をどのように確保するか、洪水から住民をいかに守るか、「治水」が生命線になった。
東京という都市も例外ではない。東京の発展の歴史はまさに治水の歴史だった。約400年前に徳川家康が江戸城に入城してから最初に行った大事業は、それまで江戸の中心で暴れていた荒川を鎮めるために、上流の利根川を東京湾から銚子に付け替える工事だった。そして湿地帯だった関東平野を大稲作地帯に変えることで、江戸の街を水害から守ると同時に、当時世界一だった100万人以上の人口を支えるための食糧を確保することで都市が発展していった。さらに昭和に入ってから川はコンクリートの堤防で固められ、現在の荒川である「荒川放水路」が完成し、首都は洪水から守られた。
現在の東京。中央右側の太い川が「荒川放水路」、その左側が隅田川。隅田川の西には皇居の緑が見える。地表のほとんどが灰色でビルとアスファルトに覆われていることが分かる。
東京は完全に水を治めたかにみえたが、1980年代になってから繁華街が水浸しになりマンホールから水が溢れだす「都市型洪水」という新たな問題が発生する。
特にその被害が深刻だった墨田区で、都市型洪水に立ち向かう若者がいた。
なぜ「都市型洪水」が都市で頻発するようになったのか? その原因を究明し画期的な解決策を導き出したのが、元墨田区の職員で現在は天水研究所の代表として雨水利用を世界に拡げる、村瀬誠さんだ。1980年代の前半、村瀬さんは保健所に勤務していた。その時に彼のもとに飛び込んできたのが、大雨で何度も浸水被害を受けていた錦糸町の人々からの苦情だった。
「1980年に入ってから大雨のたびに下水道が逆流する浸水被害が区内で頻発するようになりました。東京の下水は合流式といって、雨水も汚水も同じ管を通ります。ひとたび逆流するともう臭くてかなわない。しかも当時のビルは飲み水のタンクが地下にありましたから、水まで飲めなくなって非常に不衛生でした。私は薬剤師なので、水を消毒することはできますが、それだけでは根本的な解決にならない。ちょうど同じ時期に墨田区だけでなく、洪水とは無縁だった千代田区や新宿や練馬、神田川や目黒川も氾濫しはじめた。なぜこのような浸水が起こるのか? その原因を徹底的に調べると、下水道のデザインに問題があったのです。地表が雨水の50%を吸収することが前提で、始めて50mmという大雨に耐えられる設計になっていたわけです。
東京の下水道の仕組み(東京都下水道局ホームページより引用)
ところが、東京の墨田区は地表の不浸透域率(地面がコンクリートやアスファルトで覆われた割合)が70%を超えようとしていました。当然、下水道では処理しきれない。ちょうど1980年は東京23区全体で不浸透域率が50%を超えた年だった、だから都市型洪水が頻発するようになったのです。いま東京全体で70%、銀座周辺は100%近くアスファルトで覆われているからほとんど雨水はしみ込みません。いまさらアスファルトを剥がすわけにもいかない。当時のシステムで問題を解決するには、地下に埋まっている下水管のパイプを太くするか、処理場の容量を上げるしかない。しかし下水道局もすぐに対応できるわけではありません。私たちにできることないのか、考えた末にあるアイデアが浮かんできました。」
都市型洪水がおこる仕組み