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NWF×代官山蔦谷書店共催 「繋がり」を再考するー松本紹圭×渡辺真也 ―FutureDiversity 不確実な時代に多角的な視点を持つためにはー

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NWF×代官山蔦谷書店共催 「繋がり」を再考するー松本紹圭×渡辺真也(『NEXT WISDOM CONSTELLATIONS 2014-2018 叡智探求の軌跡』刊行記念)

SNSの発展により「繋がり」の質や方法はアナログ時代から大きく変化してきました。特にコロナ禍においては、物理的な繋がりを強制的に断たなければならなくなった結果、その変化は加速し、そもそも「繋がり」とはどういうものなのか? という問いも生まれるようになったのではないでしょうか。
今回は、「繋がり」の質や方法の変化が、人々の生活や人間の歩みにどのような影響をもたらすのか、現代仏教僧の松本紹圭さんとインディペンデントキュレーターの渡辺真也さんをゲストに招いて考えました。

<ゲストプロフィール>
松本紹圭さん
現代仏教僧(Contemporary Buddhist)
1979年北海道生まれ。現代仏教僧(Contemporary Buddhist)。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader、Global Future Council Member。武蔵野大学客員准教授。東京大学哲学科卒。2010年インド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講し、10年間で700名以上の宗派や地域を超えた卒業生を輩出。著書『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)は世界17ヶ国語以上で翻訳出版。翻訳書に『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』(あすなろ書房)。noteマガジン『松本紹圭の方丈庵』発行。ポッドキャスト『Temple Morning Radio』は平日毎朝6時に配信中。

渡辺真也さん
インディペンデント・キュレーター/映画監督
1980年静岡県沼津市生まれ。東京在住のインディペンデント・キュレーター/映画監督。ニューヨーク大学大学院修士課程修了後、国立ベルリン芸術大学造形学部社会経済コミュニケーション学科博士課程にて、博士論文『ユーラシアを探して-ヨーゼフ・ボイスとナムジュン・パイク』を執筆。2021年11月には最新刊「ポニョCODE 『崖の上のポニョ』に隠された宮崎駿の暗号」を出版。世界58カ国を単発的に放浪。テンプル大学ジャパン講師。http://www.shinyawatanabe.net

100年後の人類にとって、私たちはみな祖先である

Next Wisdom Foundation事務局(以下NWF):松本さんは、繋がりという言葉をどう考えていますか?

松本紹圭(以下松本):最近、『グッド・アンセスター(ローマン・クルツナリック著・松本紹圭訳、あすなろ書房)』という本を翻訳しました。ANCESTORは日本語にすると先祖または祖先に該当しますが、私は敢えて、血縁の要素が色濃い先祖ではなく、より開かれた概念の「祖先」という言葉を当てて翻訳しました。GOOD ANCESTORは直訳すると「よき祖先」という意味です。

私は、大学を卒業して20年近くお坊さんをやってきました。日本の仏教というと、マインドフルネスや坐禅修行のイメージがある一方で、多くの部分は先祖供養に関わっています。私は、「日本のお寺は二階建て論」というのを提唱していますが、これは、仏教という大きな看板を掲げた日本のお寺が、その内で担ってきた役割を二階建てにたとえて説明したものです。簡単にお伝えすると、一階部分に「過去を生きた人々」へ意識を向けていく、いわば先祖供養の空間がある一方で、二階部分には「今を生きる人々」が、自身や人生のあり方を問う仏道空間があるということ。坐禅や掃除といった心身を整えるプラクティスの実践や、生きる智慧を仲間と共に学ぶ場所は二階にあたります。それを求める人は増えているけれど、一階の先祖供養の部分、お葬式やお墓を求める声はどちらかというと下降気味です。

そこに何が起きているかというと、寺離れというよりも、家離れだと思うんです。カタカナで”イエ”と言うとはっきりするかもしれませんが、◯◯家先祖代々の繋がりがだんだん薄くなってきている。一方で自分がどう生きていくのか、いま抱えている苦しみはどうするか、ということが大きな問題になっているから、仏教の二階部分が求められている。でも実際は、お寺の経済は一階のお布施経済によって成り立っているのが現状です。一階の先祖供養無くして、仏道の二階は成り立たないという構造を、二階建て論は表しています。今までお坊さんが何をやってきたかというと、坐禅や掃除よりも、お葬式や法事でお経を読んでご先祖様との繋がりの部分で役割を発揮してきたということです。

近年、その一階空間を求める声が弱まっている原因は何なのか考えると、先祖を大事にしなくなったというよりも、先祖との繋がりを感じられる家庭環境が少なくなったり、繋がりの縁の中にいる人が減っているということではないでしょうか。『グッド・アンセスター』は、私たち誰しもが、いずれは未来に連なる世代の先祖となっていく中で、100年後の世界を考えたとき、自分たちはいま何を為すことができるかと問いかけています。未来の人々の目に、私たちはどう映るだろうかと思いを巡らせると、私たちの意識は自ずと、今日の生き方に振り向けられます。

日本仏教はご先祖様との繋がりを強調してきましたが、血縁があろうとなかろうと、すべての人は、人類の祖先であることに変わりありません。お寺は血縁・血筋のことを推しすぎていたけれど、もう少し人類の祖先というかたちで過去の人への眼差しを広げて、広い繋がりを感じる時がきているのではないかと思います。long term(長期的)な思考ですね。人が生きている人生の100年間だけに閉じ込めるのではなく、過去にも未来にも引き伸ばした繋がりの中で、私の存在を捉え直していく必要があるのではないか……今はこんなことを考えています。

NWF:いま、祖先への繋がりを意識するタイミングがきているということですか?

松本:過去だけでなく、未来へのまなざしにも目を開いていかないと、結局人類が行き詰まってしまいます。地球規模の気候変動のような課題は、自分さえ良ければいいという視座で考えると人類としての未来が開けない。今の時代は政治も経済も時間軸が短くなっていますが、同時に例えば木を植えるといったような行動原理と、その背後にある世界観を大事にしていく必要があります。こういった様々なものが、いま共鳴しているタイミングだと感じています。

アイヌの長老が繋がりを思い出させてくれた

NWF:渡辺さんの最近の活動と「繋がり」という言葉で考えていることを教えてください。

渡辺真也(以下渡辺):私はニューヨーク大学の大学院で、国民国家というテーマを軸に、アートマネジメントの勉強をしました。国民国家とは、例えば日本人が日本国を、ドイツ人がドイツを作るといったように、一つのネーションが国家を作って、国家の内部で起こった問題に関しては「警察」が対処して、国家の外部と起こった問題に関しては「戦争」で解決する、という近代のシステムです。私はネーション、すなわち国民という単位や国家というものに対して強い違和感を抱いていて、大学院ではユーゴスラビアの国民国家問題と芸術の価値に関する修士論文を書きました。その後私はボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ出身でイスラム教徒のアーティストと、セルビアのベオグラード出身のセルビア系のアーティストを呼んで、中間地点の日本で作品を作って発表するといった、国民国家を超える展示をキュレーションしてきました。

私は当時25歳でニューヨークに住んでいて、人種差別に苦しんでいました。その時にドイツ緑の党の結党メンバーで環境芸術を提唱したドイツ人アーティスト 、ヨーゼフ・ボイスと韓国人の美術家でビデオアートの父と言われるナム・ジュン・パイクが、ヨーロッパとアジアは別ではなく”ユーロエイジア(ユーラシア)”という一つのものだと言っていることに感激しました。彼らのヨーロッパとアジアは一つだという発言に共鳴したんです。31歳でベルリン芸術大学に留学して、博士論文として『ユーラシアを探して: ヨーゼフ・ボイスとナムジュン・パイク』という本を書いたのですが、本のリサーチのためにもドイツから日本まで陸路で帰宅しました。実際にヨーロッパとアジアが一つだと証明したいと思ったんです。証明する旅路の表現をどうしようか考えて、『SOUL ODYSSEY – ユーラシアを探して』という映画を作りました。

いま私はテンプル大学の東京キャンパスで美術史を教えてます。留学で来たアメリカ人の学生に向けて課外授業をするのですが、コロナ前は美術館に連れていって戦後美術やアジア美術についてレクチャーをしていました。今期はコロナ禍で美術館が閉まっていたのもありますが、コロナ禍で美術館に学生を連れていくのは違う気がしてきたんです。なぜかというと、私は芸術というものはもっと根源的な生命を考えること「なぜ私たちは生きていて、なぜ表現するのか?」というところから生まれてくると思っています。それをアメリカ人の学生にどう伝えるか考えたときに、浦川治造さん(編註:アイヌの長老)のことを思い出しました。

なぜ急に思い出したかというと、私の曽祖父は北海道で隧道工事中にダイナマイト事故で亡くなっているんです。曽祖父のお葬式をあげてくれたのが、函館の近くに住んでるアイヌの酋長さんだったという話を祖父から聞いていました。お葬式で酋長さんは、「全ての命は繋がっている。命を粗末にする者の命は粗末に扱われる」と話していた、と子どもの頃から幾度となく聞いていて、留学生の課外授業を考えていた時に思い出したんです。それで、学生を連れて浦川さんに会いに行ったのですが、当日、浦川さんが突然、私の曽祖父の供養をすると言ってアイヌ式の供養祭を始めてくれたんです。浦川さんの言葉を使うと、アイヌの祈りはお寺と神社の両方をやる、とのことでした。

お寺は先祖供養、神社は自然を崇める行為で、人間は先祖に対して直接メッセージを伝えることができないから、自然の神様の中で最強の力を持つ「火」の力を使って、祖先にメッセージを届けるのがアイヌ式の供養だと教えてくれました。浦川さんはアメリカの学生に、神様も死者も人の心の中に存在しているから距離は関係ない、食事の時に小皿に分けた食事を死者に向かって一緒に食べようと話しかけながら食事をするだけで供養になる。だから、自分の心の中、そして身近にある死者との会話を大切にしなさい、とレクチャーしてくれました。私が初めて浦川さんに会ったのは3年前ですが、コロナ禍のタイミングで再会できて、学生と一緒にこんな体験ができたこと、これが最近もっとも「繋がり」を意識したエピソードです。

テンプル大学では授業を2コマ教えていて、1コマは20世紀、特に戦後美術史で、オノ・ヨーコ手塚治虫について教えています。もう1コマがユーラシアという授業で、これはヨーロッパとアジアの似たような事象について比較して学んで、それを繋いでいきます。最初の授業で古事記とギリシャ神話を読み比べ、要約を書かせて理解していることを確認した上で、次に西洋精神分析と仏教の唯識の話をしたり、フランス革命と明治維新の話をしたりします。最後にTranslate Your Own Cultureといって、あなた自身の文化を他者に分かるように英語で1,500 〜 2,000ワード書いて、クラスメイトたちに向けて15分のプレゼンテーションをする、という授業をします。ここで重要なのは、自分自身の文化を他者に話すということです。何かの文化に対する憧れではなく、自分自身の何かに根ざしたものを全面に出すことで、「ヒーローズジャーニー(英雄の旅)」、すなわち自分が主人公になる人生を歩むというトレーニングをしています。

アンディ・ウォーホルは若い人が好きで、若い人が来ると動画を撮らせてくれと言ってビデオ回していました。これは「スクリーン・テスト」と呼ばれる作品で、動画に写っている人たちが何もしていなくても、彼らの表情を見せるだけでウォーホルの作品になっています。私は学生たちに君たちの動画を「スクリーン・テスト」として撮りたいと提案したところ、生徒の一人が「私はイスラム教徒だから、大学の中にあるプレイヤーズ・ルーム(礼拝堂)で撮りたい」と言ったのです。イスラム教徒は礼拝をする時に神様への合図を指でするのですが、その指の合図から始まる「スクリーン・テスト」のビデオを撮り始めました。

彼女はサウジアラビア国籍ですが、祖先のルーツは新疆ウイグルにあり、そのために中国に帰れないという家系です。顔付きが東アジア人なので、サウジアラビアでは人種差別を受けたそうです。今は日本に留学に来ていて、私の授業を取ることで初めて自分のルーツに向き合うことができたと言って、それをテーマに作った作品を一緒に展示しました。

NWF:繋がりを考えることは自分のアイデンティティーを掘り下げることでもあるのですね。

渡辺本来的なものに繋がることだと思うんです。自分自身に向き合うことは結構大変なことで、なかなかそこに向き合えないけれど、実際にそこに「繋がる」という行為を通じて、自分が主人公になれる。とても重要なことだと思います。

固く縛ること・精神的空っぽさ

松本一方で、繋がりが強くなりすぎると淀みが生まれて、繋がりに苦しむようになります。これは宗教が抱えている構造的な問題でもあって、すごく分かりやすく言うとカルト問題はまさにそうです。私がお坊さんになった理由の一つが、青春時代にオウム真理教の地下鉄サリン事件なのです。宗教の狂信的なコミュニティは命を差し出すようなものすごい繋がりがあったりするわけですが、私はそこに違和感があって、カルトではない別の道があるのではないか? 伝統仏教の中にその道があるのではないか? と思って身を投じました。

お坊さんになってみて思うのは、宗教は多かれ少なかれ繋がりがあるもので、カルト宗教は純度が高く、それが伝統仏教は薄まっているということです。繋がりが薄まりすぎると薬にも毒にもならなくて難しいものだと思うのですが、宗教の構造的には必ず存在するものでした。では、宗教だけが問題かというとそんなことはなくて、企業で社長が作った歌を毎朝歌わせる企業とか、似たような構造は人間社会の中にたくさんあります。繋がりが極端に出てくるものがカルトだとすれば、カルト性というものから完全に離れるのは無理です。お釈迦様であれば、あらゆる執着を断ち切って、真の自由自立の存在としてそこに在ることができるかもしれませんが、みんながそうなれるわけではない。そう考えると、人は多かれ少なかれカルトにハマるし、それを必要ともしています。そんな私たちが、それでも健康的に生きるにはどういう生き方があるのか?

熊谷晋一郎先生がよく仰っている「自立とはたくさんの依存先を持つことである」というところにヒントがあると思っています。様々な依存先、頼れる人や居場所をつくりながら、仏教には中道という言葉がありますが、真ん中の道をゆくことです。結局、”これさえあれば”というものを見つけようとするとカルトにハマるので、バランスをとりながら、自分にとってちょうど良いところを探っていく。しかも私たちは、全てがダイナミックに動く世界に生きています。ここにいれば大丈夫という、固定した場所はどこにもないわけです。自分自身のありようも、日々歳を取って、考え方も、体の機能も変わっていく。そうした中で、真ん中を探り続けるという、本当にモヤっとしてスッキリしない営みの繰り返しだと思います。

渡辺:松本さんがオウム真理教事件の話をしている記事(『NEXTWISDOM CONSTELLATIONS 2014-2018叡智探究の軌跡』第4章「AIで人は生きやすくなるのか?」収録)を読んで、聞きたかったことがあります。記事の中でreligion(宗教)の語源は固く縛ることだ。仏教も本来の仏道として、神道とともに”宗教じゃないよキャンペーン”をしていくべきじゃないかと仰っています。これは面白い意見だと思ったのですが、一方で私は色々な意味で屈折があって、例えば私はドイツにいる期間が長かったのですが、ドイツで日本仏教の話をした時点で、日本の仏教はそもそも仏教ですらない(つまり鎌倉仏教という日本のカルトに過ぎない)という話から始まるんです。先ほど松本さんが仰ったたくさんの依存先を持つという話も、私は非常に浄土真宗的、親鸞的な考え方だと思いました。でも、ブッダはそんなことは言ってないわけです。

religionの語源であるラテン語のreligiohは孤立したものや疎外されたものを再度繋ぐという意味です。つまり、自己と外部を再接続するために必要なものが宗教だと私は考えています。もう一つ宗教じゃないよキャンペーンで厄介なのが、私はフンボルト大学にいたのですが、創設期にはヘーゲルが学長を務め、教授陣にはショーペンハウアーがいました。ショーペンハウアーはヘーゲルに呼ばれて『意志と表象としての世界』という表象論と仏教の輸入の両方をやっていきます。これは当時、ほとんど評価されなかったのですが、30年後になってから面白がられるということが起きました。また、仏教におけるセルフのあり方、無の考え方や自分は存在しないということをショーペンハウアーが解釈していくわけですが、ドイツ人は物事を主体的に考えるので、自殺の肯定といった特大ホームラン級ファールの解釈をしてしまいます。

私はこういうドイツで、大いなる屈折を抱えながら歩んできたわけですが、オウム事件が何故あの形で起こったかというと、一言でいえば孤立や疎外が社会の中で起きたから起きた。さらには、経済発展と表裏一体の精神的なものの空っぽさというのが非常に大きくあっただろうと思うんです。今すごく気になっているのは、未だにオウム事件を総括できている人がいないということです。おそらく私たちの世代がやっていかないと、どうにもならないのではないかという強い危惧があります。

松本:オウム事件がそのまま再生産されてしまうという危惧はあります。例えばインターネットテクノロジーなどの新しい背景を持ちながら、根っこの部分は同じところから生まれてくる何かというものが現れてくる予感はあります。私はここに問題意識を持っていて、宗教というフィールドに留まっている大きな一つの理由です。何とかしなければいけないという使命感もありますが、同時に分かりたい・メカニズムを知りたいという気持ちも大きいです。

たくさんの依存先を持つことは甘えか?

渡辺:もう一つ、松本さんのたくさんの依存先と仏教の話で気になったことがあります。精神分析家の土居健郎さんが書いた『甘えの構造』という本の中で、土居さんが強く批判しているのが鈴木大拙です。鈴木大拙が言う自己と他者の垣根が無くなった状態というのは、土居健郎さんに言わせると究極的な「甘え」の状態だと言うんです。土居健郎という特に西洋精神分析を通過した人が、垣根が無いという究極的な形になると、主体的なものがなくなり全てが無に帰してしまうとして強く批判している。

私がドイツにいて思ったのは、ドイツは全く依存的な甘えが許されない社会なんです。ドイツは自己と他者の垣根を取るという発想が希薄で、自我が強いところなので、自己と他者という主体がなくなっていくという議論がない。例えば、日本人の子育てでは、赤ちゃんが泣いたらあやすけれど、ドイツでは赤ちゃんが泣き止むまで隔離するんです。つまり、泣くという「甘え」の行為が許されないことを幼児教育から徹底する。その結果どうなるかというと、他者の気持ちが理解できない子どもになってしまう。そういう人たちを統治するために何が生まれるかというと、ルールです。

すごく厄介なことを言うと、ナチスドイツが生まれるような社会は、ルール遵守の社会で潤滑油が無い中に起こりがちです。そういう状況があり、彼らは論理思考でルールを作るのが非常に上手です。私はそれを幸せだとは思わなかったけれど、ズブズブと甘えの中にある社会よりもきちんと経済が回っていました。「甘え」というのは、母子関係やラテン文化のようなベタベタな繋がりが前提になっている。お互いが好意を持っているということが前提に甘えが成立し依存が成立するわけですが、ドイツは甘えや依存が無く、全てが制度化されていくわけです。私はその社会に住んでいて、ドイツ人が幸せだとは思わなかったから、幸せを求めたいと思い母的なものを追求していくのですが、それはそれで機能不全になってしまう。この繰り返しで、すごく悩んでるところです。

松本:渡辺さんが、たくさんの依存先を持つという私の考えを浄土真宗的と言ったのは、確かにそうだと思うところもあります。私自身は浄土真宗の僧侶ではありますが、だからといって浄土真宗的哲学を持とうというスタンスは全く無く、敢えて浄土真宗的なところから離れた部分も持つということで”現代仏教僧”と名乗っています。立場主義に立たないということです。土居健郎さんの批判はすごくよく分かる部分があります。

鈴木大拙は禅と念仏の両方深めて欧米に仏教を紹介していった人として有名ですが、そこに甘えの構造は確かにある。禅も念仏も、人に寄せて言えば道元親鸞もアプローチは一見反対から入ってきたようで、行き着く胸中はすごく重なっています。実際に禅のマスターと念仏のマスターが対話をすると、結局のところ意気投合するというのは確かにあります。そこは語り方の違いで、マスターまでいけばいいのかもしれませんが、生半可なところにいる人の悩みを深くしてしまう側面もある。

例えば甘えの構造で言うと、仏教に限らずいろんな宗教の議論を全てすっ飛ばして、結局全ては一つという言い方があると思います。全ては繋がっているのだから、そうなっているらしいから、それでいいよねと。別に自分が実感として持てていなかったとしても、全ては一つであると答えだけを与えられて、それを良しとしてしまうところに生まれてくる甘えの構造は、敢えて傾向性で言うと、浄土真宗は陥りがちなところです。一方で禅は禅で、最終的には自他の境界が脱落していくというところにいくものであっても、それを自分の身をもって坐禅などを通じて証していくことを大事にしているので、力みが入り過ぎたりして却って自我を増強してしまう”禅の魔境”と呼ばれるパターンもよく聞きます。

渡辺:いま自我の話が出ましたが、「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」というのが釈迦の最後の言葉の一つです。ブッダは縁起の思想を説きながらも、最終的に「自らの」ということを強調するわけです。これは土井さんが言っていることと同じではないかと思ったんです。ただ単に自他の境界線を無くして、みんなハッピーだよねと言うのは危険ということなのではないかと解釈しています。

松本:みんなが一つになって、自他の境界線は無く全てが溶け合っていくような世界観は甘美でもあるし、心地よさそうで耳触りも良い。そこに救いを見出す感覚も分かるのですが、敢えて仏陀釈尊が強調されたところは、そういう世界観を与えられて「ああ、そんなものなのかな」と憧れるのではなく、やはり我が身の上で厳然としていく、ということかなと思います。それは「島」ともいうし「灯火」と訳すこともありますが、自分の身の上に表していくこと。

NWF:やっぱり繋がりの中には甘えが必要なのではないか? 甘えが無くなってしまったら、本当にギスギスした社会になってしまう気がします。甘えはセーフティネットの1つだと思うのですが、それが無くなった世界で私たちは幸せを感じられるでしょうか?

渡辺:「甘え」のない無い繋がりとは、契約社会ということです。すごく男性的でマッチョな世界に近付きがちで、逆に「甘え」が許されると、みんなが遅刻してくるみたいな世界です(笑)。
子どもの頃にやった鬼ごっこで”おみそ”という役割を作りませんでしたか? 例えば5人で鬼ごっこをするときに、10歳の中に一人だけ4歳の子がいても競争ができないから、4歳の子をハブにしないために”おみそ”として鬼ごっこに入れてあげる。”おみそ”は捕まえちゃいけないルールで、言わばセーフティーネットです。鬼ごっこのコミュニティの中で”おみそ”を好意的に捉えるから成立しているルールですね。すごく重要なルールですが、明文化してしまうと変なことになりかねない。”おみそ”や「甘え」はテイストの話です。

松本:この話は贈与論と関連してくると思います。贈与や契約を考える時に、その主体は誰なのか、それをどう位置付けるのかという疑問が出てくる。何らかのやりとりを行うときに、ギブアンドテイクの関係で同じ立場に立っている人同士であれば、ものの見方が一緒なので取った・取られた、勝った・負けたということになります。しかし、別のレイヤーにいる存在であれば、そのやりとり自体を循環するエコシステムとして結果的に成立させながら、どちらが上位などというマウンティングが起こり得ないような形で循環していくことができる。これが、おそらく今求められていることだと思います。

ネーションステート(国民国家)的な今の世界はパワーゲームになりがちですが、もっと違ったレイヤーが多層的に入り組むような形になれば、全体にエコシステムが出来ていくでしょう。その中で自分はどこで生きるかを選択しつつ、どこで生きようとも上も下も無いという世界に近づいていくと良い、そういう話なのかなと思っています。

死生観・U理論と繋がり

松本:最近、問題提起をするとたくさんの反応をいただくのが、ヒューマンコンポスティングの話です。そのまま訳すと人間の堆肥化ですが、新しい葬送方法の話です。今の日本は99.9%火葬ですが、ヒューマンコンポスティングは土葬ではなく、バクテリアの力を使って1〜2ヶ月という短い期間で土に還すという方法です。私の中では結構いいなという感覚があって、これは実は「繋がり」ということにもすごく関連しています。私は火葬がダメで土葬が良いということを言いたいのではなく、お坊さんとして様々な人の死に立ち会い、数百回と火葬場に行く機会があった中で感じるのは、現代の火葬はすごく分断的だということです。

日本の火葬場はなるべくピカピカにして焼却炉とは思われないように作ってありますが、仕組みは焼却炉なので、言ってしまえば厳かな焼却炉でしかないんです。死んだら人は、燃料をもって焼かれて骨になる。しかも高速高温で焼かれるので骨はセラミック化し土には還りません。海洋散骨をしても無機物だから魚も食べない。いま繋がりを考えるときに、自分たちの死生観がオーガニック(有機的)かどうかというのは結構大きな問題提起としてあるなと感じています。生まれてから死ぬまでの「自分の人生」と、死後を含むそのその外側の世界が分断されていて、他者との繋がりのうえにある生命観を持つ妨げになっているような感じがしています。

渡辺:キュレーターとして美術展を作っていく中で、宗教家に近づいていったような経験をしたことがあります。その話をさせてください。

東日本大震災で日本がパニックになったとき、私は東京に住んでいました。震災直後は郵便の配達が止まっていて、3月15日に受けとった郵便物がドイツ留学の奨学金の合格通知で3月11日付でした。留学の目的が、原子力発電所の反対運動をして緑の党を結党したヨーゼフ・ボイスの研究だったのですが、その合格通知が3月11日付け、東日本大震災の当日だったことに衝撃を受けて、何かをしなければいけないと思いました。

私は畠山直哉さんという写真家と親交が深く、彼が「写真は人の記憶への奉仕だ。記憶は過去ではなく未来に属していると考える。そう考えなければ、シャッターを切る指先にいつも希望が込められてしまうことの理由が分からなくなる」と言っていたのを思い出したんです。そこで、畠山直哉さんと一緒に東北でチャリティの展示ができないか考えました。その時、畠山さんの母親が亡くなって意気消沈していると伝え聞いて、そんな時に畠山さんに会いに行くべきか非常に迷いました。結局会いに行くべきだという結論に至って話をして、最終的には一緒にチャリティの展示をやろうと言ってくださいました。参加アーティストは、ヨーゼフ・ボイス、インゴ・ギュンター、畠山直哉、大巻伸嗣、オノ・ヨーコです。

私はニューヨークでギャラリーのマネージャーを2年間やった経験があり、アートバーゼルでサテライトブースを出せば売れると分かっていました。日本のために何ができるかということを日本で考えるのではなく、海外の人に協力してもらおうと思いアートバーゼルでチャリティ展をやることにしました。その展示の個人的なミッションは、震災に芸術の立場から応答して希望の光を灯そう、つまり、芸術の扱うべき規模や未来というテーマをどう被災と結びつけることができるのかということを考えました。

展示のタイトルがなかなか思い浮かばなかった時に、NHKで放送された『カズオ・イシグロを探して』というドキュメンタリーを見ました。カズオ・イシグロは「記憶は死に対する部分的な勝利なのです。我々はとても大切な人を死によって失います。それでも彼らの記憶を持ち続けることはできる。それは記憶の持つ強力な要素だと思うのです。それは死に対する慰めなのです。それは誰にも奪うことができないものなのです」と言ってました。流石だなと思いました。カズオ・イシグロの言葉から着想を得て付けた展示タイトルが『Remembrance of the Future to Come・来るべき未来への追憶』です。

「現在を来たるべき未来という視点から眺め、未来に思いを馳せる。それはすなわち希望を持つことに他ならない。現実がどんなに厳しいものになろうとも理想を語るというアートの使命は不変です。未来への想像力を喚起することで、私たちの現在は過去のものとなり、希望される記憶へと変容する。そしてその光を灯すものこそがアートであり、アートの力ではないでしょうか」という説明文を添えました。その時、私はRemembrance of things pastというのがマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の最初の英語の翻訳だということを知らなかったんです。私は芸術に何ができるかを考えていたときに、プルーストと同じところに辿り着きました。これはバックキャスティングといって、未来を予測する際に目標となるような状態を想定し、そこを起点に全体を振り返って、今なら何をするのかを考える未来からの発想方法ですが、私は芸術をやってる時に、ここに到達してしまったんです。

展示会後の報告会で、「このチャリティーを誰のためにやったのか?」と聞かれました。真っ先に大巻伸嗣さんが「僕は自分の為にやりました」と言ったんです。そうしたら畠山さんが「違うでしょう。我々の中にある何者かのためにやったのではないですか」と言ったんです。私は、優れた表現者とは私の中にあなたがいて、あなたの中に私がいることに気づき、それを他者に伝えることに成功した人だと考えていました。そこで最近出会ったのがU理論という、ドイツの経営学者オットー・シャーマンが考えたものです。自我の中にあるものから他者との干渉に移り、最終的には自分と離れたところで開かれた意思を持ってもう一度社会を作っていくという考え方です。U理論を知って、私は「あなたの中の私」で止まっていたことに気が付きました。

私は、あなたという他者を肯定して全体を見るのが芸術の力だと思ったのですが、オットー・シャーマーが凄いのは、「今」の中に「私」を放り込んだことです。これが第4の意識の領域構造だというんですね。これがもしかしたら、私も松本さんもうまく言葉にできていないけれど、宗教や芸術というものが目指すもの、単純に自己と他者の垣根を取り除くというよりも、もう少し言語化するとU理論のこの部分のことなのではないかと思いました。

CC BY-SA 3.0 ,Theory U.png ,Presencing Institute, Otto Scharmer

松本:U理論にはとてもインスピレーションを受けていて、特に好きなのは、ゴールだけを言わないこと、ジャーニーとして成立している部分です。粗雑な言い方ですが、最後に答えが出ているのだからそれで良いということではなく、それ自体が私、身の上に体現していくということをすごく大事にしています。言語化が難しいものをU理論は本当に上手に言語化していると思います。

渡辺:分かりやすく説明しようとすればするほど、私たちが社会を捉えるときに、どうしても私と他者との関係と二項対立で捉えてしまいがちです。その点、U理論が優れているのは、自己と他者の関係についての説明の方法です。私の肉体の中に自我があり、それを少し離れたところから見てみて、今度は自分自身を離れた場所から見てみる、というのは、ここまでは感覚として分かると思います。U理論はその先に、完全に幽体離脱のように自分とは関係ないところに自分を置いてみて、そこから社会にとって何が最も大切かというところまでいってみようと言っています。般若心経の羯諦羯諦などが目指しているのは、こういうことなのではないかと思ったんです。

松本:見るものと見られるもの、与えるものと与えられるもの、そういう二項対立的なものがある中で、私たちは自己と他者を規定して私というものはここに間違いなくある、という世界観で生きてしまうのですが、先ほど話したヒューマンコンポスティングは結構面白くて、「そうか、私はやがて森に撒かれて木の肥料になるのか。であれば、今から食べるものをオーガニックにしよう」などと考えたりする。死んで焼かれるなら何を食べても全てがリセットされる感じがしますが、生と死が地続きになっていると、死んだ後へ思考を伸ばして自分が土になるイメージを持つ。U理論で言うと、底のほうに潜っていく感じです。私が見るものでも見られるものでもなく、世界全部に投げ込まれたようなものとして見る視座を引っ張り出すトリガーとして、自分が土になるイメージはあるのではないかと思っています。葬送のあり方が死生観を変え、生き方を変え、視座を変えていくということにも繋がり得るのだなと、最近はそんなことを考えています。

今の時代の視野の広げ方、多角的な視点を持つには?

NWF:視聴者からの質問です。「相互依存と繋がりの違いは何ですか?」

松本:日本語で日常的に依存という言葉を使う時、英語でいうAddictionの依存症的な意味も含むのでネガティブに使われることが多いですが、仏教のものの見方においては、依存するもしないも、存在とは相互依存的であって、そこに縁起をみています。敢えて「相互依存」と「繋がり」の違いを言うならば、原理的に依存的に存在していながら、そこで繋がりを感じられるか感じられないかということ、つまり「繋がり」とは、自分の感じ方や感情的なところに根ざしたものです。そういう感覚をもって意味を生み出していく繋がりは、時間を共にするとか、空間を共にするとか、そういったところで育っていくものだと思います。

渡辺:繋がりと幸せを引き寄せて話すと、ジル・ドゥルーズは幸せについて、好きな人と長い時間を過ごすことだと言っています。非常に同意できるし、理想的な繋がりですね。

松本:そうですね。依存というわけでもなく長い時間を一緒に過ごすというのはpractice(練習)なんです。そこに何かを求めるわけではなく、ある意味では絶対的に分かり合えない他者としてありながらも、それでもなお一緒に過ごすことで繋がりは持てるところに希望がある。

渡辺:ちょっと天邪鬼に言うと、ドゥルーズが「好きな人」と長い時間を過ごすと言ったのがポイントだと思います。仮に”嫌いな人”と言いましょう。嫌いな人といてそれを繋がりと言うのもいいと思いますが、個人の幸福を考えたときに、やっぱり好きな人といたいと思うんです。もしかしたら、嫌いな人との繋がりを切断するかもしれないけど、嫌いな人と一緒にいるって結構なストレスではないか。ドゥルーズはそういう意味で”好きな人”と言ったのではないかと思うんです。

松本:仏教でも愛別離苦・怨憎会苦というのがあります。愛する人と別れる苦しみと、憎い人と一緒にいなければいけない苦しみを、8つの苦(四苦八苦)の中に入れているぐらいですから、嫌いな人との繋がりの苦は大きいのだと思います。

NWF:最後の質問です。今の時代の視野の広げ方、多角的な視点を持つにはどうしたらいいですか?

渡辺:想像力を持つということだと思います。想像力を持つというのは、一定の肉体感覚や経験の中からしか生まれないのではないかと考えると、自然に触れるなど幼少期の体験も大きいと思います。今は、想像力を大切にするような教育について考えています。

松本:私自身、視野を広く多角的な視点を持っていたいと思います。そうあるために何を大事にしているかと言うと、巡礼的に生きるということです。必ずしも宗教的な背景のある巡礼道を歩きましょう、お遍路をしましょうということではなく、日々の暮らしというものをどこか巡礼的にする。巡礼というのはいろいろな意味があって、明日歩く場所を何かの聖地として捉え直すしてみても巡礼的だと思うし、先人たちとの繋がりを感じながら、そしてまた歩いている道が未来の人も歩いていくのかな……なんてことに思いを向けながら、目に見えないものとの繋がりを感じながら日々の生活を過ごしていく。本来はフレッシュな気持ちで毎日を見られれば良いのでしょうが、日々の生活に没入しているとそうもいかないので、敢えて少し違う視点で違う世界を生きている人との出会いを持てるような”巡礼モーメントを取り入れていくと、自分の生活に戻ってきた時に改めて新鮮に見られると思います。毎日は、その行ったり来たりなのかなと考えています。

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私たちは、そんな未来を創るために、
様々な分野の叡智を編纂し
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