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新型コロナウイルスが引き起こしたパンデミックにより、少し先の未来も予測がつかなくなっています。この状況下でNext Wisdom Foundationは、『FUTURE DIVERSITY 不確実な時代に多角的な視点を持つためには』というテーマを掲げて様々な分野の方にインタビューを行っています。
今回は大きなシステムとの付き合い方を中心に、規制・ルールとの距離感、デジタル空間におけるプライバシーの考え方等について最先端のメディア論を展開するメディア美学者の武邑光裕さんにインタビューしました。
<プロフィール>
武邑光裕さん
メディア美学者・「武邑塾」塾長。千葉工大「変革」センター研究員、Center for the Study of Digital Lifeフェロー。日本大学芸術学部、京都造形芸術大学、東京大学大学院、札幌市立大学で教授職を歴任。インターネットの黎明期から現代のソーシャルメディア、AIにいたるまで、デジタル社会環境を研究。2013年より武邑塾を主宰。著書『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』(東京大学出版会)で、第19回電気通信普及財団テレコム社会科学賞を受賞。このほか『さよならインターネット GDPRはネットとデータをどう変えるのか』(ダイヤモンド社)、『ベルリン・都市・未来』(太田出版)などがある。新著は『プライバシー・パラドックス データ監視社会と「わたし」の再発明』(黒鳥社)。2015年よりベルリンに移住。2021年に帰国。
『分散ドロップアウト』が加速している
Next Wisdom Foundation事務局(以下NWF):コロナ禍の時代を武邑さんはどう見ていますか?
武邑光裕さん(以下武邑):COVID-19が僕たちに突きつけた明白な事実は、システムそのものの脆弱性、あるいは今までシステム自体が覆い隠してきた様々な問題を如実に世界に露わにしたことだと思います。露わになったことで、今後我々は社会やシステムをどのように理解していくのかを迫られています。
現象としては何年も前から続いてきたいくつかのトレンドが、どういう共通点を持ってどういう方向に向かおうとしているかが非常に明らかになってきた。そのトレンドは例えばブロックチェーンや仮想通貨、メタバースなどです。リモートワークの有用性やマイクロスクールというアメリカで始まって今は世界的な流れになっている教育方法もそうですね。ホームスクーリングだけでなく、子どもたちを寺子屋のように小さな場所に集めて教育するものです。数年後には10億人になると言われているデジタルノマドの動きもそうです。結局、従来のシステムからいかに脱却していくかというトレンドがあります。僕はその動きを”分散ドロップアウト”と呼んでいるのですが、中央集権のシステムから分散型の自律組織へどんどん移行しはじめている。この動きは、コロナ禍で非常に明らかになってきたことだと思います。
NWF:ドロップアウトという響きからは、自分で意図的に野心を持ちながら転げ出るようなイメージを持ちます。
武邑:1960〜70年代にヒッピーが都会を離れて山に逃げ込んだようなドロップアウトとは明らかに大きな違いがあります。今は非常に多様な分散ドロップアウトが起きていると思います。今までは一つひとつのドロップアウトの繋がりが見えなかったけれど、今は一気に連携してる。結果的に大きなシステムからの脱出、エクソダスと言いますが、エクソダスが展開されていると思います。
NWF:今のドロップアウトは連携している。これは繋がりが重要になってきたということですか?
武邑:繋がりを意識しているコミュニティもいますが、それよりは結果的に人々が大きなシステムから脱出しているということです。その先に何があるのかはまだ明確には見えないのですが、例えば国民国家・都市国家が完全に終焉していずれインターネット国家・サイバー国家ができるだろうということも含めて、いくつかのExitが予想されるということです。
デジタル空間の国家が誕生する可能性
NWF:分散ドロップアウトで起きていることの中で、武邑さんはどこに興味を持っていますか?
武邑:ブロックチェーンの派生技術で、DAOという分散型自律組織というものがあります。私はDAOによる国家の変容に興味があります。実際に、一つのインターネット国家のプロジェクトにエントリーしました。国連が認めれば、将来的にはインターネット国家のパスポートが出ます。国家が成立するには土地や財産を所有するなど様々な要件がありますが、少なくとも10億人のデジタルノマドが新しい国家への帰属を求めていると考えると、国連も国家として認めざるを得なくなる要件が揃う可能性があります。5年先なのか10年・20年先か分かりませんが、そんな時間軸で現実的になってきているということです。
NWF:インターネット国家というのは、武邑さんがエントリーした一つだけなのですか?
武邑:私が知る限り、いま明確に表明してるのは二つあります。シリコンバレーも関わっていますが、スペインとノルウェーにある非営利のコミュニティです。二つです。
NWF:二つの違いは何ですか?
武邑:一つはグローバルインシュアランス(保険)を提供している会社です。ノマドの人たちがどこへ行っても保険が適用されて、既存の保険会社の保険よりもカバーしている範囲が圧倒的に広くて金額もそこまで高くない。これさえ持っていればどこでも働けるしどこでも住んでいけるという保険を提供しているSafetyWingという会社があります。国境を超える保険というセーフティーネットをベースにしたインターネット国家を作り出そうということです。もう一つはスペインから始まったDAO・分散型自律組織というテクノロジーの集合的なもので、あらゆる領域に分散型DAOをいくつも作り出しています。いま2000ぐらいのDAOが存在していますが、こういったものを組み合わせることで国家を形成していこうという動きがあります。
NWF:二つの国家は、基盤にしているテクノロジーが違うということですか?
武邑:両方ともブロックチェーンです。デジタルノマドの人は収入も支払いもデジタル通貨、仮想通貨でやり取りをしています。こういう経済原理の中にも、すでに私たちのような旧システムの生活とは違う生き方をしているということが分かります。
NWF:法定通貨から解放される一方で、どうやっても解放されない大きなものの一つとして体というのは大きいと思います。
武邑:確かにそうです。身体というリアリティ、現実。どれだけマーク・ザッカーバーグがFacebookはメタバースの企業になるといっても、私たちはすぐに参入することは無いと思います。何故かというと、僕らは現実が大好きだからです。分散ドロップアウトはリアルというものを否定してはいません。むしろリアルに生きるために分散ドロップアウトが必要で、例えばデジタルノマドも僕もそうですが、様々な場所に行き、短期でもいろんな国に住んで移動していくということがどれだけ自分自身の生産性を上げていくか肌で分かっています。ノマドの生き方というのは、現実の場所、国・土地に行くということなんです。
それが何故インターネット国家と関係があるのかと言うと、インターネット国家のパスポートを持って、デジタルノマドに優しい国に行くことができるからです。つまり、現実のノマドを受け入れている国へある意味でインターネット国家がサポートするということです。その連携・提携関係が生まれることでノマドは移動がしやすくなる。ノマドが国や地域に入ることで地元の人たちとのインタラクションが生まれて、創発的な地域起こしが始まって地域の活性化に繋がっているという成功事例は非常にたくさんあります。いま、既存の国家もデジタルノマドを受け入れるという選択肢が現実になってきています。ヨーロッパではエストニアが初めてデジタルノマドビザを発行して以来、ジョージア・クロアチアなどいくつもの国がデジタルノマドを受け入れようとしています。僕たちは現実から簡単に逃避できないし、現実を捨て去ろうなんてことは考えていないのです。
NWF:イメージとしては、中世の吟遊詩人のようなものでしょうか。
武邑:そんなにカッコいいものかどうかは分かりませんが、少なくとも僕たちが移動する力というものを獲得するということには寄与する。この惑星はインターネットによって時間と空間の衡を大きく無効化したわけで、それはリアルでしか取り戻すことができません。人間自体が、時間と空間をあらたに獲得するということだと思います。
NWF:デジタルノマド=移動できる人と捉えると、今とは違った分断が起こるのではないか。移動できる人と移動できない人の二極化が進む流れになるのではないでしょうか?
武邑:移動することを良しとする人もれば、移動はしたくないと思う人もいます。そこは精神の自由です。ノマドがベストな選択だとは言いませんが、現状のノマドのトレンドは数年……遅くても2030年までに10億人に達するかなり大きな動きになると思っています。
国家の考え方を変化させるDAO
NWF:コロナが出現して、改めて国や企業がある意味セーフティネットになっているのではないかと気づいた人もいると思います。武邑さんはどう考えていますか?
武邑:その議論もあります。”やはりガバナンスの再構築に焦点を当てていこう”というムーブメントは確かにあると思います。ただ、疲弊して劣化したシステムに留まりたくないと思ってる人たちも多数いるということです。今後10〜20年くらいのうちに、どちらかを選択する流れが起きてくると思います。
NWF:サイバー国家の中で、最も議論すべきトピックとしてどのようなものが挙がっているのでしょうか?
武邑:私は日本生まれ日本育ちなので、それほど日本という国から脱出しようとは思っていません。ただ、少なくとも今の日本のシステムや政治を見る限り、この国の一員として政治も含めて将来的に参加型直接民主主義というものの実現は難しいと思うのです。
直接参加型民主主義を実現できるガバナンスという意味では、インターネット国家に帰属しながら実際に住む場所はデジタルノマドビザを発行している国で働く、というのが一つの選択肢だと思います。デジタルノマドビザを発行している国はかなり増えてきているので、そういった場所で働きながら3ヶ月くらいの単位で移動しながら進んでいくという暮らし方です。
インターネット国家の非常に大きなトレンドとして議論されているのは、ガバナンスの意思決定に関わる分散型のDAOシステムを様々な形で組み合わせて国家を形成していくという考え方です。例えばNFT アートの世界で資産価値を形成するような動きがありますが、あれはデジタルアートに資産を付与して収益をあげるものです。そうではなく、NFTの仕組みを使えば様々な従来の中央集権的なシステムというものから離れた新しい仕組みや会社を作るといった考え方が出てくる。
DAOという仕組みを使うと、国家の考え方が大きく変化していくわけですね。そうすると、いま世界的なトレンドになっているクリエイターエコノミーという経済的個人主義の展開も開けてきます。多くの人たちが企業に属さなくても、一つのタイムゾーンに属さなくても、世界中に点在しながら自分の好きなことを含めて様々な仕事をすることができる。今回のパンデミックでそういった流れが減退したのではないかと言われていましたが、逆にすごく増えているんです。総合的にこのような流れを見ていくと、これからの社会の大きな変動がかなりリアルになってきたという気がしています。
実はこの流れは、1997年にジェームズ・デビットソンとウィリアム・モッグが書いた『The Sovereign Individual: Mastering the Transition to the Information Age(主権を持つ個人・情報化時代への移行をマスターする)』という本が源流の一つになっています。僕はこの本が日本語に翻訳されていないのが日本の不幸だと思うのですが、現在の分散ドロップアウトの中心になる書物です。つまり、デジタルノマドやビットコイン、クリプトアナーキストのサークルに極めて大きな影響を与え続けてきた本で、1997年の段階で2000年以降の10・20年のことをかなり高い確度で予測しています。一部分は外れていますが、ほとんどが実現可能と予見されてきたことで、その中にあるインターネットの中に国家が生まれるという予測がまさに個人主権という考え方の大きな柱になっています。
NWF:経済的個人主義のクリエイターエコノミーなどが展開していくと、そこに属する人材は特定化されていきませんか? 弱者・強者と言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、エコノミーの中に入る人材について武邑さんのご意見を聞きたいです。
武邑:テック系の人材バンクを日本の企業に紹介するサービスをやっている友人がいて、先日オンラインの会合に出ました。びっくりしたのは、多くの優秀な日本のテック系の人たちがすでに海外に住んでノマドになっていたことです。日本の企業は言語の壁があるから海外の技術者を雇う余裕がないというのはよく聞きますが、実際には海外で活躍しているテック系の日本人はたくさんいる。すでにテック系人材の流動化は始まっていて、語弊があるといけませんが、日本に残っている人はそれほどエッジではない可能性があります。明らかに海外に出ている日本人のほうがビジネスも含めて、経済的個人主義を達成しています。
FacebookやGoogleは世界中の大学の人材を求めて大きな投資をしてシリコンバレーを作り上げましたが、もはや国や地域というレベルで人材を発掘する時代は終わっていると思います。グローバルネイティブと言いますが、グローバルネイティブの人材に焦点を当てないと日本のグローバル企業はますます難しいことになっていくのではないかと思います。
NWF:今後特に必要なのはテクノロジーなのでしょうか?
武邑:テクノロジーだけではなく、マインドセットも必要でしょう。2年前、日本に帰ってタクシーに乗った時に驚愕したことがあります。タクシーに乗ったお客さんの顔を認証して中国のサーバーに送り、男性・女性、年齢を識別して広告を振り分けるというサービスをタブレット広告で見たんです。ドイツに帰ってGDPR(EU一般データ保護規則)の専門家に話したら、彼らもたまげたわけです。日本はEUとプライバシー保護に関して一定の協定を結んでいるはずなのに、そのサービスは何なんだと。結局、日本の個人情報保護委員会からクレームがあってそのシステムは廃止になりましたが、本当は最初にサービスを作り上げる計画段階でプライバシーデザインを取り入れるというマインドセットがなされていないといけないんです。それを怠ってサービスインして、クレームがきたら全て回収して新しいシステムに作り替える……日本は今こんなことの繰り返しをやっているように思います。新しいテクノロジーを収益目的で使うことに邁進してしまうと、世界共通の文化やこれまでの考えのマインドセットから離反してしまい、結局は大きなリスクを背負ってしまいます。
自由・平等・友愛の混線が起きている
NWF:今後の分散ドロップアウトのキーになる考え方は「主権を持つ個人」になるのでしょうか?
武邑:そうですね。大きなシステムということで言えば、ドイツの政治哲学者ユルゲン・ハーバーマスが1962年に『公共性の構造転換』という本を書いています。彼は本の中でシステムによる生活世界の植民地化ということを指摘しています。生活世界というのは市民の価値観や信念、夢や神話といったものを包含している世界で、システムというのは政治や経済といった社会制度のこと、特にガバナンス・官僚主義・経済をシステムと呼んでいます。生活世界とシステムは近世の社会の中では一定程度公共圏というものが機能していた時代がありました。しかし、生活世界とシステムの均衡が崩れてシステムが全域的に浸透ていくのが現代社会だとハーバーマスは指摘したんです。
生活世界のコミュニケーション基盤、特にメディアがシステムによって植民地化された時に、極めて大きな社会的病理が生じる。過去には、ナチスの政権獲得がありました。その後を決定付けてしまったのは、新聞とラジオがナチスによって私有され、植民地化で汚染されたということです。現代においてはインターネットとソーシャルメディアが一定の公共圏を作り出すのではないかという期待もありました。しかし、結局はデータ駆動型の追跡広告のインフラが政治プロパガンダを始めて大衆を情報操作し、行動変容までを引き起こすシステムによって現在においても生活世界を大規模に植民地化していることが大きな問題です。
ある意味では、分散ドロップアウトは対システムのすさまじい抵抗勢力になります。1997年の段階でジェームズ・デビットソンはあらゆる手段を使って植民地化に抵抗し、総攻撃が始まると予見しています。つまり、ビットコインの成立やブロックチェーンの広まり、暗号世界の文化も含めて極めて水面下で着々と築き上げてきた。国家も含めたシステムからの植民地化を逃れるためにアンダーグラウンドに潜伏しているということです。国家の喪失を含め、完全なシステムからの独立を考えていく一つの理念のようなものが、暗号コミュニティの通底にはある。今後は、システム側にとって暗号技術の明らかな有用性が認知されてくると同時に、一方で非常に大きな反対勢力になるだろうという意味も含めて、国民国家の逆襲が始まるということです。
NWF:システムや企業も中身を動かしてるのは人です。それが結果的に人の敵になるものを作ってしまう、自らの首も絞めることになるにも関わらず、なぜ制御できないのしょうか? 生活世界を植民地化するものを淘汰していくような”見えざる手”は働かないのですか?
武邑:ヨーロッパの歴史的な視点・展望で見ていくと、やはり自由というものの歴史と変容が大きな問題だと思います。日本で使われている「自由」という言葉は、福沢諭吉が仏教からとった「自由」という言葉を「liberty」に当てたのですが、もともと自由というのは「自らによる」という意味です。元来日本は中国と同じように自由の概念を「自由気まま」とか「自由狼藉」「自由出家」など、どちらかというと気ままに生きる人……悪玉のように考えてきました。ところが西洋からlibertyという概念が入ってきて、そこに自由という言葉を当てたんです。この訳語を当てたのは非常にすごいことでしたが、日本人の意識には自由というものの中に制御不能の意味合いが含まれているんです。”非常に自由”というのは、自由が随伴する悪というものを抱え込んでいるのです。
Z世代に対する大規模な調査によると、与えられた自由でおなかがいっぱいで逃げたいという現象が起きています。1941年にナチスに追われてアメリカに亡命したエーリヒ・フロムの『自由からの逃走』で書いた現象と全く同じことが今起きています。生まれた時から与えられていた自由に服従することによって非常に大きな息苦しさや義務を感じるよりも、一定の制度システムの中に身を置くことによって安定を得たいという考え方が出てきているんです。これはヨーロッパにとっては非常に危機的状況です。何故こういうことが起きたかと言うと、新自由主義というものが経済の中に自由を持ち込んでしまったんです。
フランス革命の3つのスローガン「自由・平等・友愛」は非常に大きな革命によって勝ち取られた覚悟があったのですが、いまは自由・平等・友愛の後に何があったのか忘れています。それは「死」という言葉です。つまり、自由・平等・友愛を勝ち取るのは死を覚悟した革命なんです。ヨーロッパの様々な哲学者が指摘しているのは、今の社会問題の多くは自由・平等・友愛と本来三分節であるべきものが混成してしまったことで大きな問題が起きてきたということです。自由というのは、精神と文化領域にのみ存在している。平等というのは、政治の領域の中にのみある。友愛というのは経済の中にのみ存在している。この3つは明確に分節化されていましたが、次第に混生してしまい収拾がつかなくなってしまった。自由が悪を随伴し呼び起こしてしまっているのが、とりわけ20世紀以降の大きな問題だと考えています。
自由が経済を支配すると、競争を良しとするわけです。自由が示す平等というのは結果として不自由を生み出します。自由の友愛を逆説的に言うと、差別と全体主義へ至っていくんです。どういうことかというと、自由競争の結果、強者と弱者が生まれて弱者は不自由になります。自由は結果として支配を生み出し、平等は監視社会の中でのみ機能するということです。
自由という概念は、支配者が大衆に対して自分を自由と思い込ませるために作った価値観として機能します。そして、経済的自由というのは生きるためにお金の奴隷になるということで、友愛は人種差別、全体主義的価値観、ポリティカルコレクトネスを生み出しているわけです。例えば環境問題一つ挙げても、環境問題における正義というのは悪への正当な差別から始まるわけです。やがて異質な意見を排除し、あらゆる領域にハラスメントの恐怖を浸透させる全体主義へ至っていく。
結局、政治法的領域には平等の原則、経済領域には友愛の原則、精神文化領域には自由の原則というものを、それぞれ区別した上で徹底しないと、私たちの自由の未来というのは非常に厳しいままだと思います。
NWF:テクノロジーやアイデアは、自由・平等・友愛の混線を解くきっかけになりますか?
武邑:なると思います。今後、システムや制度の側から分散型自立組織への圧力が高まってくればくるだけ、テクノロジーの役割は非常に大きくなってくると思います。例えば、いかに圧力をすり抜けていくかとか、どうやって上手く融和していくかという部分で役割が大きくなる。ではガバナンスに未来はないのかというと、ヨーロッパの中でも大きく2分しています。ガバナンスや政府の力を重視していく流れは非常に強く出てきています。
マリアナ・マッツカートが書いた『ミッション・エコノミー』という本があります。彼女は人類が月に行ったのは政府だけの力ではなく、あらゆる企業・あらゆる社会的市民、そういったものの全体の強力なミッションによって達成されたと言っています。今コロナで壊滅的な状態になった経済を救ったのは新自由主義によって覆われた企業の力ではなく、政府の力だったと。彼女はもう一度政府のミッションを明確にして、難題を抱えた今の社会に立ち向かっていく術の一つは、政府のガバナンスの再構築だということをかなり強力に主張しています。
つまり、ガバナンスをミッションとして捉える。ミッションは日本語で言うと使命ですが、命を使うと書きます。そのくらいの覚悟を持ってガバナンスの再構築に向かっていくべきだというのがマッツカートの意見です。それが本当に可能なのか、あるいは本当に分散ドロップアウトの行末にシステムからの完全脱却が可能なのかということは今後の歴史を見ていかないと何とも言えません。この意見に耳を傾ける動きも当然あります。分散ドロップアウトというのは、システムに反旗を翻す人だけの動きだけではなく、システムが劣化しているから必然的にドロップアウトするという流れも非常に大きいのです。
ヒッピー資本主義が経済をつくっている
NWF:分散ドロップアウトなどの新しい取り組みが、既存の仕組みに良い影響を及ぼしたり補完し合う関係は作れるのですか?
武邑:それはもう始まっていると思います。分散ドロップアウトの動きが現実の社会やシステムに対抗していくだけではなく、システムを変革していきながら融和的な関係性を築き上げることもできるのではないかと思います。
70年代にアメリカを中心に世界で起きたカウンターカルチャーがあります。カウンターカルチャーは日本では”対抗文化”と訳して、大きなシステムと真っ向から対峙しても勝てないから文化の領域からじわじわと体制・システムを変えてしまえというものです。それから50年経って世界がどうなったかというと、パーソナルコンピュータのスティーブ・ジョブズを筆頭に、世界は当時のカウンターカルチャーやヒッピーカルチャーが生み出したアイデアやアセットで埋め尽くされていくわけです。私は”ヒッピー資本主義”と呼んでいますが、今はヒッピー資本主義が経済を作っている。
1970年代当時にヒッピーのライフスタイルを揶揄していたような時代からは考えられないくらいに、ナチュラルコスメや有機・自然食品など当時のヒッピーカルチャーやカウンターカルチャーの世界観で経済が成り立っています。ここに今、新しいカウンターカルチャーが生まれようとしているんです。これが分散ドロップアウトとも関係していて、巨大化・肥大化してしまったかつてのヒッピーカルチャーやカウンターカルチャーの一種の経済原理のようなものを、新自由主義を含めた経済原理そのものであると理解して、そこに対して更にカウンターを展開しようという流れが現代のネオ・カウンターカルチャーです。
NWF:カウンターカルチャーを生み出す原動力は、私たちが持つ違和感や怒りですか?
武邑:それが大きいと思います。今で言うとGreedと言いますが、経済至上主義で世界の数十人の大金持ちの資産と4億5000万人の総資産が同じであるという事実。そういう巨大な不平等のある時代を生きている若者たちを含めて、強欲な経済原理に対する対抗性があると思います。テクノロジーも、メインストリームにどんどん回収されていくテクノロジーではなく、ブロックチェーンのようなカウンターテクノロジーというものを創出していくような新しい価値観を作り出していく。未だにビットコインの生みの親であるサトシナカモトが誰なのか分からないこと自体がこの動きを象徴しています。
現代のメディアには美意識が必要
NWF:武邑さんはメディア美学者と名乗ってらっしゃいますが、その意図はどこにあるのでしょうか?
武邑:僕が勝手に名乗っているだけなのですが。一言でいうと、僕は現代のメディア・テクノロジーには美学が必要だと思うんです。美というのは羊が大きいと書きます。羊は中国の故事で善の象徴です。それが大きくなったものが美だという考えです。美学というのは美と醜などと言いますが、ある意味で倫理的で善なる学問だと思っています。メディアが肥大化して、そのメディアを通して僕たちはいろんな真実と疎遠になってしまい、メディアの支配力というものが僕たちの精神をコントロールするような時代になってくると、結局メディアの中には美学が必要になってくるのではないか。そういう意味で、メディア美学というのを主張しています。
NWF:カウンターカルチャーの源流にも「美」が作用してきたのでしょうか?
武邑:例えばカウンターカルチャーの源流は、ベルリンとスイスです。20世紀初頭に工業社会が大規模に到来して、人間が自然の生活とは逆行するような形でシステムに回収されようとしていた時に、ドイツのベルリンとスイスのアスコナを中心に「生活改革」という大きな運動が起こりました。当時、ヨーロッパ中のアーティストや政治家・文学者がアスコナに集結して自然回帰運動を展開するのですが、その中心になっていたのは入浴剤で知られる『クナイプ』や、ドイツのナチュラルコスメ『WELEDA』を作ったルドルフ・シュタイナー、ヘルマンヘッセなどの錚々たるメンバーです。これがだんだん大きな運動になっていってナチスに排除され、アメリカの南カルフォルニアに移住したメンバーたちが後のサンフランシスコのヒッピームーブメントの第一祖先にあたる人たちです。いま、この運動が巡り巡って再びヨーロッパに帰ってきているということです。
NWF:最後に、今期Next Wisdom Foundationが掲げているテーマの一つである”多面的に物事を見るためには?”、武邑さんのご意見を聞かせてください。
武邑:ドイツの現代美術家で昨年に生誕100年を迎えたヨーゼフ・ボイスの言葉で「社会彫刻」というものがあります。ボイスは誰もが芸術家になるべきだと言っています。ボイスの言う芸術家は絵を描いたり、彫刻を作ったりするアーティストの概念とは違って、社会を立体的に彫刻する力であるというものです。彫刻は3次元でどこから見ても一定の物質であることが確認できる立体物です。ただ、ボイスは晩年になって社会彫刻social sculptureという言葉をsocial plasticという言葉に代えて使っています。彫刻よりも造形という言葉に置き換えていったんです。彫刻というのは石を削って一つの形にしていくもの、造形というのは積み重ねてボトムアップで一つの形を作り上げていくものです。ボイスは彫刻を積層、つまり積み重ねていくという概念に変えていくんですね。僕は立体的・多面的な思想というのは、まさにボトムアップの積層造形のような発想を持つ必要があるのではないかと思います。