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質疑編「みんなが主体的であり、かつ他の人に対しても主体的でなければいけない」高知工科大学社会心理学教授 三船恒裕さんインタビュー

>>「講義編」の続き
先に講義編を読んでいただくと、理解が深まります。

<プロフィール>
三船恒裕
1982年生まれ。高知工科大学経済・マネジメント学群教授、博士(文学)。2004年、東洋大学社会学部社会心理学科卒業。北海道大学大学院文学研究科修士課程および博士後期課程修了。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、今に至る。
集団内への協力行動や集団間の攻撃行動の心理・行動メカニズムを社会心理学、進化心理学、行動経済学の観点から研究している。近年は国際政治学者との共同研究も展開している。社会心理学研究、Evolution and Human Behavior、Frontiers in Psychology、PLoS ONEなどの学術雑誌に論文を掲載している。
研究論文・受賞詳細 https://www.kochi-tech.ac.jp/profile/ja/mifune-nobuhiro.html

集団の中で協力し合うには、自分の集団かどうかが分かればいい

NWF:内集団で協力が起きるための条件はあるのですか?

三船:最小条件集団状況だと常に協力が生じるわけではありません。誤解を恐れずに言うと「なぜか知らないけれど、意味がありそうだ」という手続きを使うのは重要だと思っています。なぜなら、内集団協力が生じる条件として、相手も自分のことを内集団メンバーだと知っていることが必要条件として挙げられることが、様々な研究で示されています。私はあなたのことを内集団だと知っている。しかし、相手は自分のことを内集団だと思っていないという状況を作り出します。そうすると、贔屓をしないんです。「他の人にとっては意味がない状況だと思っている」という状況にすると、おそらく内集団バイアスは生じないと思います。

NWF:その際の内集団は、どのくらいの人数まで増やすことができるのですか? 

三船:単純に内集団の人数というわけではありませんが、人数が増えるほど協力の程度が減ると言えそうな実験結果もあります。ただ、どこまでが内集団だと言えるかは、カテゴリー判断で認識するので、人数そのものだけでは内集団の範囲は規定されません。

認知心理学的な立場からすると、例えば、犬というカテゴリーと猫というカテゴリーを認識するときに、それぞれの中にどれだけ犬というエージェントがいるか意識しないですよね。それと同じような形で、日本人かアメリカ人かを認識するときには、それぞれのエージェントの中にどれだけの要素が含まれるか、その数自体は気にしないで認識できるんです。そういう意味では、内集団であるかどうかの認識自体にキャパシティはないとも言えます。

ただ、ここはまだ議論の余地があると思います。社会的アイデンティティ理論の観点に基づけば、いわゆる、世界人・地球船といった地球という一つのカテゴリー認識を持つのは難しいという主張もあります。先ほどのカテゴリー判断の話と同じように、犬というものを認識するためには、犬じゃないものがなければいけない。それも内集団・外集団で一緒で、外集団という内集団ではない集団がなければ、何かであるという一つのカテゴリー認識は持ちにくいという主張もある。そうすると、宇宙人が来ないと地球人と認識できない、ということになってきます。

NWF:その考え方で言えば、さらに危害を加えるなど、自分たちの利害を脅かすことまで必要ですか?

三船:集団の中で協力し合うためには必要ないと思います。囚人のジレンマゲームを使う研究で見えているのは、外集団というものと見知らぬ他者というのは、基本的には変わらないということです。その状態であっても、集団の中では協力し合うことができる。

集団の中で協力し合うには、ある人が自分の集団かどうかだけ分かればよくて、自分の集団じゃないBさんが、◯◯グループに所属しているとか、どのグループに所属しているか分からないとかはどちらでも構わないんです。基礎的なレベルで集団の中で協力し合うには、集団外の人が集団に属しているかどうかは関係ないということです。

NWF:集団間で起きる最小条件とは、内集団と外集団の心理状況ということですか?

三船:最小条件集団を使った実験とは、見方を変えて説明すると、人々がいつ意味のない集団を意味あるものだと扱いはじめるかという話です。クレー集団・カンディンスキー集団は現実にはない、ある種、意味のない集団です。それが、まず一つには誰に協力するかという協力の場面では、そもそも意味のない集団も意味があると思ってしまう。誰に攻撃するかという意味だと、意味のない集団は意味がない集団のままなので、意味がないよという話なのだと思います。

実験がやっていることは、人々にとって集団というものはどういう意味で重要になりうるのかということを調べている研究だと言ってもいいと思います。あなたと同じ集団に属しているということが、いついかなる時にどういう意味で重要になりうるのかという話で、人々が助け合ったり協力し合ったりするということであれば、意味のない集団であっても、意味があると思ってしまうようなバイアスを持っているという話です。

先制攻撃は、人々に受け入れられやすいロジック

NWF:先制攻撃ゲームについて、参加した二人が30秒間ボタンを押さなければ、二人とも1,500円がもらえます。二人ともボタンを押さないことを選ぶ時の心理は、平和を望んでいるのか、単に無気力なのでしょうか? 

三船:先制攻撃ゲームで働く心理を網羅的に検討しているわけではないので、データが少なく、解答が難しいです。なので、無気力感との相関は分からないです。ただ、スタンフォードのNir Halevyが先制攻撃ゲームを使った論文を書いていて、彼は論文中に「HOPE」(希望)という言葉を使っています。先の見通しに対する楽観的な「大丈夫だろう」という感情が、先制攻撃を抑制することを示しています。ボタンを押す方が、「他の人が押すかもしれない」という、恐れや脅威に基づいているのではないかと思っていますが、そう言い切れるほどダイレクトなエビデンスはまだありません。

実は、その後の研究として攻撃力というものを操作した実験があります。私とAさんで先制攻撃ゲームをするときに、私の攻撃が成功したらAさんが持っている1,000円のうちの500円減らせる。けれど、Aさんが攻撃に成功したときは私のお金は1,000円から0円になると。この条件だと、弱い方がボタンを押しやすいという結果が見られます。つまり、強い方は積極的にボタンを押そうとはしませんが、弱い方が「やられたらマズい」と思ってボタンを押しやすくなります。先制攻撃ゲームでは、やられたらマズいというタイプの防衛的な攻撃を測定できると思っています。

NWF:実際の戦争心理でも同じようなことが言えるかもしれません。

三船:そうですね。そもそも『先制攻撃ゲーム』と名付けたきっかけも、9.11(アメリカ同時多発テロ事件)ブッシュ・ドクトリンの話からきています。やられそうなら先にやるというのは、人々に受け入れられるロジックなのではないかという直感を持っています。

日本人が特に同調圧力が強いわけではない

NWF:いまの日本で語られるものとして、同調圧力や抑圧移譲という言葉があります。内集団というものに対して、自家中毒を起こしている気もします。内集団の協力性が害になっていく・さらに働いてしまう環境要因はあるのでしょうか?

三船:いろいろありますが、僕が関わった研究としては、囚人のジレンマゲームを使った研究を、日本とニュージーランドで比較した研究データがあります。この研究は、内集団バイアスの程度に関して文化の差は無いという結果を示しています。最小条件集団では内集団バイアスの程度にそれほど文化差はないのではないかという感触を持っています。

日本の同調圧力という話がありました。同調性そのものに関して様々な研究がありますが、同調するということ自体は文化普遍的に見られる現象で、実は日本人が特に同調圧力が強いという結果は見られていません。

ただ、日本と、例えば欧米との心理の違いはあります。どう違うのかというのは文化心理学の研究で検証されていますが、日本人は、他の人は自分のことをどう思っているのかということを気にしやすい傾向がかなり強いことが知られています。よく、日本人は集団主義と言われて、日本人は集団の中で協力し合うのが好きだから集団主義的なのだという形で解釈されることがありますが、実は日本人が他の人と協力する傾向が高いわけではなく、場合によっては欧米よりも低いときがあります。

ペンを選択する実験がよく知られています。アンケートに回答してもらったお礼として、5本のペンの中から1本をあげるので取ってくださいという実験です。ペンは4本が赤で、1本を緑にしておいて、どれでもいいから1本を取ってくださいと言うんです。空港で行った実験だと、欧米の人たちはどちらも構わずに取るか、緑のペンを多く選ぶのですが、東アジアの人だと赤のペンを選びます。おそらく皆さんがいま直感的に考えた通り、日本人だったら4本ある方から1本を選ぶんです。この結果で、日本人は他の人と一緒のものが好きだから同調性が高いのだと言う人もいます。

では、少し違う実験をしてみます。「あなたは、5本のペンの中から1本を最初に選ぶ人です。ただし、あなたの後に他の人が選んでいきます」と伝えると、アメリカ人も4本ある赤ペンから選ぶようになります。そして、「他の人は選び終わった。後はあなたが選ぶだけです」という状況だと、日本人も緑の1本を選ぶようになります。

このように、他の人のことを気にするべき状況なのか、気にしなくてもいい状況なのかを確定させると、実はアメリカ人と日本人の心の反応差は消えます。

上記の実験は、何も説明がないときに、こういう状況だから気にしておこうと思うのが日本人であり、何も言わなければ気にしなくていいと思うのがアメリカ人だということを示しています。そうすると、単純に日本人だから同調しやすいというのではなく、同調の本質を詳しく考えなければいけないということになります。もしかしたら、日本人は同調圧力が強いというのは、みんなが共同で持っている幻想である可能性もあると思います。

上記のペン選択実験を行った大阪市立大学にいる橋本博文さんは他の研究も行っています。日本人に「あなたはどれだけ個人主義的だと思いますか? 集団主義的だと思いますか?」、「あなた自身はどう思いますか? 理想とするあなたはどう思いますか?」、「あなたではない他の人たちはどう回答すると思いますか?」と聞くと、理想は集団主義的ではなく個人主義的でありたいと思うんです。

でも現実の私は、個人主義的というよりは少し集団主義的だと回答し、さらに他の人たちは私よりも集団主義的だと回答します。つまり、平均値の話として簡単に言うと、みんな理想は個人主義的でありたいと思っているけれど、みんな他の人は自分よりももっと集団主義的だと思っているんです。でも、他の人たちも、心の中の理想は個人主義的でありたいと思っている。 

人間は心の中を直接読めないので、行動から推測するしかないですよね。他の人のことを気にして行動すると、その行動は集団主義的に合わせる行動に見えるんです。これも社会心理学の知見で根本的帰属のバイアスというものが知られているのですが、他の人がやっている行動を見ると、その人は本心からそういう行動をしたいと思っているのだと誤解しちゃうんです。自分はそうじゃないのに。そうすると、「他の人が他の人に対して合わせてるということは、他の人はみんな集団主義的でありたいと思ってるんだ。私はそんな中で1人だけ空気読めないことするとマズい。では合わせるか」という行動をする。でも、その自分の行動が、他の人にとってみたら、「あいつは集団主義的なことが好きなんだな。私もそうしなきゃいけない」という形になっていくんです。

「人の心はどんな条件で変わるのか?」を問い続ける

NWF:紛争もそういった誤解の積み重ねなのでしょうか?

三船:紛争の話と繋がるかどうかは分かりません。この話は基本的に集団の中で秩序を維持するための自生的なストラテジーだと思っています。つまり、いわゆるフリーライダーと呼ばれる人で、ズルや手抜きをして、他の人が努力したことに対して自分はその恩恵だけ受けて何もしないというエージェントが出てくるんです。別に攻撃するわけではないけれど、協力もしないというエージェントです。

でも、協力しないという人たちを放置していけば、全体としての協力関係は崩れてしまう。どのように人々が協力し合う関係を作り上げるかということが、秩序形成の問題です。これを、人間関係を集団の中に閉じさせて、この集団の中では協力し合いましょうという形で問題を解決してきたのが、人間なのではないかと思ってます。 

集団の中で「他の人が自分のことを内集団だと思っている。そこで協力しないと『あいつはなんてヤツだ』と思われかねないから協力しよう」これがおそらく最小条件集団の中で起きている現象です。これによって集団の中の秩序を維持して、集団の中で協力しない人は協力関係から排除する。しかし、これはおそらく協力関係の維持という意味の排除であって、紛争で起きている攻撃とは違うと思っています。個人を排除するだけであって、外集団を攻撃するという話ではない。つまり、外集団を攻撃する話と、内集団の中で協力し合う話は、一度分けて考えなければいけないと思っています。

もちろん現実の中では、あえて集団の中の協力という文脈を作ることで、人々に対して外集団を攻撃させるということが見られます。それは、あえてそうしないと人々は外集団に対して攻撃しないからだと思っています。

例えば、昔の日本でも見られた通り、従軍して戦争に行って敵兵をやっつけないと非国民だと呼ばれる、といったことです。いわゆる戦争に加担するということが、今の集団の中での協力なのだという幻想をある種、トップダウンで植え付けたわけです。そうしないと、集団から排除されるかもしれないし、排除されたら村八分で生きていけない。集団の中での協力というものが、人々が生きていく上で重要な要素になり、それを使って外集団に対して攻撃させたのだと思います。このように、現実には外集団に対して攻撃させるという、トップダウンの制度を作って攻撃させることはあります。

逆に言うと、そうしないと人々は進んで外集団に対して攻撃しようとはしない。デーヴ・グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』(筑摩書房)で分析している通り、第二次世界大戦で敵兵と相対する状況になったときに、実際に重火器を使って発砲した兵士の割合いは15%程度だったという話もあります。やはり、人は人を殺したいと思わないのではないか。相手を殺さなければいけない状況にするために様々な工夫をしているのではないか。

アメリカ軍が第二次世界大戦以降に作ったのは、相手を人間と見ずに機械的に見て、この状況だったら銃の引き金を引くというふうに学習の条件づけをして、とにかく引き金を引かせる運動パターンを身につけさせてようやく打てるようになったという話もあります。おそらく、そういう工夫をしないと、外集団に対する攻撃性も出てこないんじゃないかなっていうふうに思ってます。

NWF:最後の質問です。NWFは「A piece of PEACE」をテーマに取材を進めています。三船さんにとっての平和とは何か? 三船さんにとっては、平和の条件・環境設定の話なのかもしれませんが、ご意見をいただけますか。

三船:難しいですね。平和の問題というのは、僕にとっては秩序の問題だと思っています。秩序を乱すものというのは、集団の中と集団の外で秩序が乱される原因というものがそれぞれ違う形で生じるんだと思います。面倒なのは、集団内のロジックを集団間のロジックに適応しにくいということがあるのではないか。国際政治学の話も基本的には同じだと思うのですが、集団の中での秩序維持を自生させる方法というのが、集団の間での秩序維持に適用しにくいんです。

例えば、集団の中での秩序維持の一つは、排除です。「みんなが協力し合って一緒にやっている時に協力しない人は集団の関係性から排除する」というストラテジーを集団内の個々人が実行していると仮定すると、外からやってくる人は利己的な人だという意味を持つので、それまで帰属していた集団とは別の集団にも入れない、ということになる。集団から追い出されたら終わりです、だから集団の中で協力し合わなければいけない、という話で協力が達成しやすくなるんです。でも、これを集団の間でのやりとりに適用しようとすると、なかなかうまくいかないと思うんです。どこにどうやって排除の脅しをかけたらいいのか、どういうふうに「あいつは悪いヤツだ」という情報を維持したらいいのかという話になってくる。

僕がまず頭に思い浮かぶのは、中世のマグリブとジェノワの商人の取引の話で、平和というのはおそらく秩序を維持しないと達成できないのですが、秩序維持の方策が集団内でやるときと集団間でやろうとするときで、なかなか法則がうまくハマらなくて難しいのだと思います。だから、なかなか平和の達成が、特にグローバルな意味での平和というものが難しくなるのかなと思っています。 

誤解を恐れずにいうと、僕自身は理想的な社会状態や理想的な人間の状態というものを、研究の目的に据えていないんです。人々が集団間で争うことをみんなが望むのなら、別にそれはそれでいいと思っているんです。どういう社会状態が良いかというのはみんなで決めるのが民主主義の根本だと思っているので、そこに僕がこうしなきゃいけないという意見を研究を基にして口を挟むことはしないようにしています。

僕としては、おそらくこうやったらこうなるよとか、こういうのはおそらく人間の心としてやりやすいよ・やりにくいよとか、そういった情報を提供するぐらいしかできないのかなと思っています。だから、ご質問のような「平和とは何か?」という問いに解答するのは、正直にいって難しいです。

 個人的には、平和で、みんなが楽に心穏やかに暮らすのが理想だし、すごく良いのは分かります。ただ、攻撃というもの自体はそんなに頻繁に生じるものではないし、平和な時に出てくるもう一つの問題が楽をする人間・利己的な人間の登場だと思うんです。そこも排除しないと平和の達成にはならないはずで、そこを見ずに平和を語ると、あとで足元をすくわれるのではないかという気はしています。 

NWF:誰かが達成してくれるだろうという傍観者ではなくて、主体的な構成員が必要になるということですね。

三船:そうですね、みんながみんな主体的であり、かつ他の人に対しても主体的でなければいけないのだと思います。どこかに秩序維持を任せるということもあり得ると思いますが、それが今の警察組織や政府がやっていることです。一般的に言えば、三船とAさんの間で起きた葛藤を、三船とAさんの間で解決せずに他の人に任せるって話ですよね。そういうのはいいんですが、それがうまくいかないのが国際社会だと思うので、そこで個々人が平和な心を持って他の人に対して寛容になって、罰も与えずに、とにかくみんなが協力してっていうのが理想ではあると思います。でも、「みんなが協力するから、私はちょっと楽をするね」という利己的な人は生じえるし、その時にその人たちをどうするかということを、今まで楽観的に私が協力していればいいやと思う人たちが、また考えなければいけない問題に返ってくる。あまりいい意見ではないかもしれませんが、平和の裏には、常に秩序維持の問題が隠れているということを自覚しなきゃいけないのではないかと思っています。 

NWF:いま、地球環境が危ないという危機感を元に、世界を一つにしていこうという流れを感じます。それは地球全体を内集団化しようとしているのだとも捉えられますが、うまくいくのでしょうか?

三船:現状はうまくいってない感じがありますよね。現実的にいろんな問題があって、単純に地球全体を一つの内集団だと認識しにくいという話なのか。もしくは、そこでなされている話が、地球の中に日本・アメリカなど国単位の集団が様々にあったときに、それらを一気に一つの集団とすること自体が難しいという話もあると思います。

おそらく、コーディネーションの問題があると思っています。いろんな国があったときに、一つの国だけが「私は国単位で考えるのを止める」ということをしないんです。「せーの」でみんなが一気にやめますといったらやれそうだと思うんですが、その時でさえ、どこかで「私は自分の集団本意でやります」というものが出てきてしまって、そちらのほうが自分の利益になると優先しやすくなってしまう。複数の集団があるときに全体を統合する、これを社会心理学で上位集団と言うのですが、その形成がやはり難しいという問題もあるのではないかという気はしています。

NWF:簡単ではないですね。 

三船:社会心理学者の基本的な立場というか、いろんな研究で見られているのが、基本的に人々は状況に応じて心の働きを変えるので、逆に言うと、状況を変えずに心だけ変えようというふうに働きかけても、あまり効果を持たないという研究が多いんです。では、「どういう状況に持っていけば心が変わるのか?」というのは、重要な問いだなと思います。

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