Next Wisdom Foundation事務局は、定期的にメールマガジンを配信しています。ここでは、反響の多かった回を公開していきます。
今回は2022年4月4日に配信したメールマガジンを紹介します。
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今回は、能楽師・安田登さんのインタビューレポートを紹介します。
今期のNWFのテーマは【A piece of PEACE】。紛争・戦争だけでなく、微生物・家族・宇宙工学など古今東西多方面から「平和とはどういうことなのか?」を深く問うことで平和の解像度を上げていく試みです。
安田登さんのインタビューは2022年1月末にオンラインで行いました。その後ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、現在も戦闘が続いています。【A piece of PEACE】はウクライナ侵攻の状況を鑑みながら、NWFで取材方針を再議論をして進めています。
文末には、NWF研究員・花村えみによる考察を入れています。最後までお楽しみください。
平和という言葉は、本来は”おだやかなこと、静かでのどかであること”などを意味する言葉
「平和という言葉は、本来は”おだやかなこと、静かでのどかであること”などを意味する言葉で、”戦争がない状態”を意味するようになるのは新しいことです。戦いの能(修羅能)の主人公(シテ)の多くは、負けた人です。負けた思いをいかに鎮魂するか、それが能では大事になります。しかし、勝った人も死後は安穏というわけではありません。勝った人も負けた人も、死後はみな修羅道に堕ちます。修羅道に堕ちた人をこの世に呼び出して、戦いの様子をもう一度語ってもらうことで、この世に残した念”残念”を昇華させる。それによって”こころ”の平安を得る。能における平和・和平というのは、世界の平和・日本の平和というよりも”こころの平安”です」
「こころの平安を保つということはおそらく不可能なんじゃないかと思います。だって、変わるものですから。一時的な平安ならば得られるかもしれない。永続的なこころの平安を得ようとしたら、こころが動かない状態、すなわち死ぬしかなくなってしまいます。一時的なこころの平安を得る方法というのが、文句を言うことであり、そしてそれを聞いてもらうことではないかと思います。
喜びがあれば当然悲しみもある。この振れ幅の中で、人は生きています。ぐちゃぐちゃになっている時にCalmnessが欲しくて誰かに話をする。すると、こころがちょっと静かになる。でもまた喜びがあったり、落ち込むことがあったりして、また何かを話したくなる。その繰り返しだと思います」
江戸というのは戦争が無かった時代です。すごいでしょう。
「江戸というのは戦争が無かった時代です。すごいでしょう。極端に言えば、鎌倉時代も室町時代も江戸時代のためにあったと言っていい。どういうことかというと、日本には古代から天皇を中心とした貴族のいる宮廷社会があります。これが平安時代の最後にぐちゃぐちゃになって、武士たちは頭にきて何とかしようと思ったわけです。これが『平家物語』の時代ですが、ヨーロッパなどでは王や宮廷がめちゃくちゃなことをすると、王や貴族を殺しちゃう。宮廷を倒す、革命という考えです。ところが日本人は、そうしなかった。どうしたかというと、”もう一つ政権をつくっちゃえばいい”と思って”幕府”なんてものを作ってしまった。天皇と貴族は宮廷のほうでやっといてくれ、武士と庶民は幕府でやるからといって、二つの政権構造をつくったんです。これはすごいことだと思うんです。今の僕たちは、西洋の影響を受けていますから、邪魔なものがあったら打倒しようとするし、二つできた場合はどちらが正しいか考えがちです。しかし、当時の日本は”両方ありじゃん”と言って幕府をつくっちゃった」
「バーチャル幕府を作っちゃえばいいと思うんです。政権に近い人は、いまの政府でどうぞ。俺たちは俺たちで勝手にやるからと。そして、バーチャル幕府を作るときに何が大事かというと、今の政権が大事にしているものを大事にしないことだと思います。具体的に言うと、一つは土地。日本では不動産はすごく大事なものと思われていますが、6畳のアパートでいいし、土地なんて所有しようとは思わない。その代わりにメタバース上に無限の空間があるから、みたいな感じで……。地位や名誉はもちろんいらない、お金もいらない、その代わりにビットコインをもらえればいいと。仮想の世界である意味のバーチャル幕府をつくると、バーチャル幕府は日本にとどまらず世界に広がると思うんです。地政学的な国家が崩壊する。こんなふうに、対立構造ではなく、違う次元での共立を目指せばよいと思います」
平和な音楽というのは、自分が平安になれる・気持ちが安らげる音楽
「平和な音楽というのは、いわゆる世界が平和な状態ではなく、自分が平安になれる・気持ちが安らげる音楽を平和の音楽と言っています。世界の話はあまりできませんが、旧約聖書のヘブライ語では、平和は”シャーローム”ですね。旧約聖書の中でシャーロームがどんな使われ方をしているかというと”自分の平安”という意味ももちろんありますが”他者の平安を気遣う”、”他者の安否を気遣う”というような使われ方をしています。”利他”という言葉がいまよく言われていますが、シャーロームの第一義は他者の平安を気遣うことです」
「和という漢字は昔は”龢”と書かれていました。これは3本の竹の笛をまとめたものが元の意味です。この”和(龢)”と似ていて違うのが、”同”という漢字です。和(龢)というのは、違う音の楽器を一緒に吹いてそこに調和を見出すことをいいます。それに対して同というのは、同じ音を出すことです。和するというのは、価値観の違う人・意見の違う人が一緒になりながら調和を見出すことなのです。ですから、平和というのは、いくつかの国をまとめて一つの大きな国にするとか、あるいは同じイデオロギーや何かでまとまることではなく、違いをお互いに認めあって、違いのままに和することです」
最大の軍隊を率いていたのは、婦好という女性将軍
「古代中国でもシュメールでも、女性も戦いをしていました。全ての戦いを女性がしていたかどうかはともかく、甲骨文字を読むと、最大の軍隊を率いていたのは婦好という女性将軍です。彼女は祭祀を執り行ったり、出産に関する占卜も行うなど、様々なものに関わっています。古代中国には、婦好だけでなく多くの女性将軍がいましたが、あるときから女性将軍がいなくなり、男性将軍に代わっていきます。女性将軍から男性将軍に代わるのが、ちょうど文字の発生と時を同じくしています。世界的にそうですが、文字が出てきた後はほとんどが男性社会になる」
「文字の誕生以降になぜ男が強くなったかというと、文字によって抽象が起きたからです。文字というのは3Dのものを紙という2Dにすることです。僕たちは紙に置いて見ることで、ものの実態ではなく抽象を見ることになるんです。そして抽象は無限の広がりを持ってしまう。例えば、お金は抽象的なもので、いくらあっても満足ができない。抽象になるとタガが外れるんです。今はわかりませんが、古代は女性の方が抽象度が弱くて、男性の方が抽象度が強かったのではないか。女性は具体性が強かった。だから戦争に行っても多くを殺さなくてすむ。どちらが勝ったのか分かれば殺さなくてもいい。けれども、男性の場合は抽象度が強いから、いくら殺しても満足ができない。大量殺戮が起こりうるわけです」
聖徳太子は和だけで大丈夫だと言った
「和は、ひとりひとりが自由に発言したり、行動したりするので、めちゃくちゃな状況になりがちです。その状況をまとめるためには礼が必要だと(孔子の弟子)有子は言っています。礼とは何かというと順序、規律、オーダーです。順番を決めたり、収束させたりするのが礼。めちゃくちゃにになりがちな和も、礼を使うとうまくいくというのが有子の考え方です。それに対して聖徳太子は和だけで大丈夫だと言いました。おそらく聖徳太子は、日本人は和でうまくいく民族だという自信があったのです。本来日本人は、みんな勝手にやっていて、なんとなく成り立っていた。”同”にしようとしない人たちだった。日本人の同の力がこんなに強くなったのは江戸時代以降だし、さらに強くなったのは明治以降です」
「和の議論は、いわゆる”三人寄れば文殊の知恵”です。すなわち三人いれば一人では考えつかなかった、まるで文殊菩薩のような知恵が出てくるというものです。そのために最初にすべきことは、自分の意見を捨てることです。そうして、みんなの意見がぐるぐると螺旋のように回っていって、ある時に誰もが考えなかったような素晴らしい考えがポッと出る。それが文殊の知恵です。そして、その意見は誰が出したかなんてどうでもよくなる。誰かの手柄にならない。それも大事です。”三人寄れば文殊の知恵”という言葉が重視されているのは、かつての日本人はそのような議論=和の議論をしていたということだと思います」
▷全文はこちら https://nextwisdom.org/article/4850/
足の引っ張り合い・閉塞感を解消する方法はあるだろうか?
Next Wisdom Foundation研究員 花村えみ
日本には異なるものを並立させる「和」の文化的基盤がありながら、なぜ「同」の価値観に向かっていってしまうのだろう。
明治維新以降、国策として複雑さを排除し、最短で近代化を目指すために、あるべき姿をトップダウンで強要していったというのは確かだと思う。しかし私はもっと人間のサガ、内側の闇から来ているように思えてならない。
下方比較という心理学の言葉がある。「もっと不幸な人に比べたら自分の不幸はなんでもない、だから我慢すべき」という思考だ。下方比較は誰もが持ちえるものだが、行き着く先は妙な平等倫理、そこから生じる「自分がこんなに我慢しているのに、なぜあの人だけが許されるのか」という不平等感が、他者を引きずり落としバッシングに向かわせる力となってしまう。私はこれこそ皆一緒がいいという「同」の力の正体ではないかと思う。
この足の引っ張り合い、そこから生じる閉塞感を少しでも解消する方法はあるだろうか。
下方比較は自尊心を強く侵害された時に起きるのだという。彼らもまたどこかで被害を受け鬱憤を抱えた人たちなのだ。
自己憐憫に走り他者をも引きずり落とすのではなく、恨みつらみを放出し、少し気が晴れることで経験として受け止める(とはいえ消化はせず、恨みつらみは言い続ける)、そんな方法が今回能の世界から提示されたように感じる。