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現在さまざまな企業や研究機関から「未来予測」が発表されているが、私たちはそれらをどのように受容し行動に変えていけばよいのか。しばしばそれらの未来予測はSNSやインフルエンサーによって拡散され共有されるが、その余りにも強烈過ぎる内容に私たちは「未来は既に定まったもの」と錯覚してしまってはいないか? 年表とは過去に起こった世の中の出来事を時系列に並べた表のことだが、そこを敢えて逆説的に、未来に起こると予測された出来事を並べた「未来年表」を編集し2005年から公開している「Future Lab MIRAIJIN」の岡部昌平さんに、未来年表の制作経緯やその背景にある考え方をお聞きした。
<プロフィール>
岡部昌平さん
1960(昭和35)年に山口市で生まれる。書籍、年鑑などの編集を経て、2005年よりフリーランスとして博報堂生活総合研究所の「未来年表」を制作している。2009年、データの蓄積をもとにFuture Lab MIRAIJINを開設。未来年表をビジュアライズしたFuture Pathと更新のポイントをまとめたFuture Report を公開している。
未来なんて分かってたまるか
Next Wisdom Foundation 事務局(以下NWF):MIRAIJINのレポート「月刊未来人」を拝見していますが、データの選別の仕方やカテゴリーの作り方がとても面白かったです。どのようなことを考えながら編集なさっているのでしょうか?
岡部:凡例のようなものを公開したかったのですが、やってみないと分からないことがとても多いんです。歴史年表とは根本的に違っていて、携帯電話がスマートフォンになって、電話が主ではなくなってきているように。確定していませんから、いろいろな予測が並び立っていきます。登場する語は時間とともに変化しますし、カテゴリーも変わっていきます。
ある新聞社の企画でベテラン記者が時事問題を年表化するお手伝いをしたことがありますが、そのやり方をそのまま適用できるかというと、できない。いま博報堂生活総合研究所と一緒に作っている未来年表の索引では、新聞の情報をベースにしながら独自に再構成しています。
データの選別に関しては「何年にこうなる」と一番確からしいと思われるものを一つ選ぶのはよくないと思っています。政府が発表したことも、NPOの指摘も同じように拾います。わざとぼかす。
最新のものだけ残して古い予測をすべて消すということもしません。ある程度経緯が分かるように意識して古い予測を残しています。未来には幅があってブレるものですから、一つに絞ることは危険すぎます。未来はとても動的なものなのです。
アメリカと中国が喧嘩をすれば、それまでの予測が吹き飛んでしまいますよね。大きな自然災害もそうです。動き続けて絡み合いのなかで未来が生まれていく、その動きを感じて「どうするか?」を考えてもらいたい。動きを感じながら考えることに意味があると思っています。そんな理由から紙に固定することをせず、データベースという形式を取っています。
未来年表にアクセスした人の関心で引っ張り出したもの、その刹那に心が動いて開けるもの、僕が見せたいのはそこなんです。正しいかどうかが問題ではないです。未来年表に答えを求めるべきではないと思うし、過度なフォーカスはしないように作っています。
未来予測に縛られてはいけない
NWF:未来予測が一つになってしまうと、可能性も無くなるし、つまらなくなりますよね。
岡部:未来には「牽引していく未来」と「追従していく未来」があります。例えば「2025年大阪・関西万博」が決まれば、それに合わせて鉄道はどうなるとか、再開発はどうなるとか、関連する様々な業界で計画が立っていきます。計画が大きいほど、それに寄っていく未来があり、未来も波及的に広がっていきます。旗を立てるようなことも、ある程度は意味があるし、政策だけでなくどの未来にも言えます。
NWF:例えば、SDGsでは「2030年に地球はこうなっていますよ」と統計データに基づいて未来から現在をバックキャスティングしますが、そのような設定の仕方はどう思われますか?
岡部:今はやらざるを得ない状況ですよね。希望を与えるというよりは「こうしなかったら危ない」という、そういうものばかりが並んでいる感じがします。2030年に向かってがんばるのは結構なことですが、SDGsの場合は特に17のゴールに偏らない成果が求められます。そこは誰がコントロールするのか、ちょっと心配です。
僕はバックキャスティングはあまり好きではないんです。ほんとうに創造的なことが逆算できるでしょうか。逆算したところで、現実とのギャップがあらわになるのが通常では? SDGsのように国のトップが関わることは稀で、個人はもちろん、多くの企業が何らかの制約の中でしか行動できない現実もあります。非常に強いリーダーシップが必要になるのではないでしょうか。
ある未来を固定して、そこを目指す考え方にはあまり共感しません。だから「予測された事実」しか言わないんです。僕自身「未来はこうなる」と思ったりします、でもそれはあくまで主観的なもので、自分だけにしか意味を持たないと思っています。皆さんそれぞれに思ってほしい、それでいまのかたちがあるわけです。
未来年表を見て「こうあるべき」だとか「自分はこうしなきゃいけない」とか、頭で考えるんだったらやめておいたほうがいい。自分を縛るために未来年表を作っているのではなくて、むしろ縛っているものを疑って、そこから出ていくためにやっているんです。個々の未来を真に受けてほしくないです。
NWF:最近は多少落ち着いてきましたが「シンギュラリティ」もメディアがかなり煽っていた印象があります。未来予測が強すぎるとそれに縛られてしまうんですね。
岡部:あまりにも情報が共有されて、未来といえば「5G(次世代通信規格)」とか「AI(人工知能)」とか「モビリティ」とか「iPS」というように、10か20のキーワードを挙げたらそれで尽きてしまうんじゃないか。そこから未来の暮らしを想像してシナリオ化しても限界があります。そういうセミナーが多いですけど、数時間でインプットできる情報なんてしれています。だいたい頭で考えたことって失敗しますよ、現実はそんなに甘くないです。
今朝、沖縄で首里城が焼けたというニュースが流れましたが(*2019/10/31取材)、誰が想像できたのか。不可知な事件、事故だけでなく、知ってからの反応の鈍さもあります。地球温暖化はIPCCによる1990年代の指摘です。そこで考え方を変えていなかったわけです。河川の氾濫も局地的、集中的な豪雨ばかりに気を取られて、広範囲に降った雨で川が溢れることは想像できていなかった。いくらデータがあるから、合理的だからといっても、すべての人の目が同じ課題に向くことそのものが危険なのです。
あくまでも予測というのは答えではありません。未来がどうなるのか知りたいという好奇心であるとか、気持ちが動くことはとっても大切ですし、今やっている仕事のあり方や会社のあり方、事業のあり方を考えたり、新しい着想や刺激を得るためのきっかけになるのはいい。でも一つの予測を信じて何かを設計してしまうのは、あまりに危険だと思います。
引き寄せられた未来
岡部:「未来史」つまり「予測された事実」を観察していると、不連続な大きな事件が起こると、その先にあった未来が手前に近づくケースがあることに気がつきます。まるでしてないことに手をだせないですから、冷静に考えると当たり前なのですが、その当たり前が観察できます。
例えば、ディーゼルがダメになったら、それまでどこかでこっそり研究していた電気自動車とか、燃料電池車とか、もっと先に置かれていた開発が加速します。全く予想もしなかった方向には進まないんですね。その先にあると思っていたことを手前に引き寄せる、それは合理的な行動なんですよ。リーマンショックの時も、事業の中長期企画を見直している企業を見ると、だいたい遠くに置いていた計画を手前に引き寄せています。
NWF:要するに、不連続な未来に対する私たちの防衛策として、複数の未来を予測しておくこと、そのためのオプションを準備しておくというのが重要なんですね。
岡部:ただ、大企業がそれをできるのは準備をしていくつものオプションを持っているからです。「この道をいく」と言いながら、別の道も研究してますから。だからそれを手前に引き寄せられる。計画に予測を利用するのはよいのですが、その期間、投資の大きさなど、計画の規模に応じたバックアップする力も必要になりますから、そこを見落としてほしくない。
ここに関しては少し指摘しておきたくて、遠くの未来を手前に引き寄せると「未来が近づいた、よかった」と思うかもしれませんが、必ずしもそうとは言えないところがあります。
例えば自動車を考えた時、遠い未来では創造的な「未知のモビリティ」になり得たものが、引き寄せたことで「新しい車」くらいのものになって、現在の車のかたちに近づいてしまう。今の時代に合うように変えられて、未来の姿のままでは来ないのです。未来史を見ていると、だいたい世の中はそうなっています。
もっと先の未来にあった電気自動車の発売が早まったことで、僕たちはもっと面白い車を見損ねたのかもしれない。だから気をつけないといけないんですよ。単に早ければいいと言うものでもない。
問題は私たちの心の持ち方
NWF:完全に客観的な未来予測というものは存在し得ないのかもしれないですね。
岡部:私たち一人ひとりの仕事や生活や経験から発想した「未来」を、気心の知れた友達や信頼できる人たちと話し合ったり交換したりすることで刺激が生まれて、そこから新しい未来が開けるものです。そういう未来予測はとてもいいことだと思います。でも、それを集めて大きな計画にしたり、政策化したりするのはどうでしょうか。
国や自治体で政策を考えないといけない人は、ある程度それでいいんです。でも、個々の事業者がそういう結果を引き込んではダメですよ。みんなが同じ予測に流れ込んでしまうと、競争が激しくなって、早いもの勝ちになったり、強いものが勝つだけになってしまいます。
NWF:私たちが未来を想像しようするとき、既存の技術や統計や法規制に基づいた上で未来に対する解像度を上げていった方が面白いのか、それともそのようなデータは見ないで「私はこうしたい」という欲望をベースに未来像を作っていったほうがよいのか。欲が強まれば強まるほど、外的要因が変わる可能性もあります。
岡部:動いていく力というのは、ギャップの中から生まれると思うんです。未来像を描くときに実現可能性をどこまで設定するのか。実現性を求めるほど政策に寄っていきますよね。それはタイミングや目的によって変わるのだと思います。一様ではないですね。
僕は「未来はこうあるべきだ」という風には考えてないし、予測を集めて「こうなる」とも思わない。むしろ問いとして未来年表を投げかけています。未来を知りたい、分かりたいと思ってやっているわけではないんですよ。「これでいいんですか? こんなこと言われてますよ」という問いとして未来年表があるんです。そこが他の方たちと決定的に違うと思っています。「こうなるよ」ではなく「これでいいの?」ということですね。どうするかは自分の立場で考えてもらうしかないです。
NWF:いま世の中で語られる未来予測やデータというものはネガティブなものが多い気がします。気候変動や環境破壊に人口減少… …気が滅入ってきます。
岡部:みなさんそうおっしゃるんですが、手もとの記録では明るい未来の方が多いんです。着実に進んでいるのは医療ですね、分野でいえば。医療の世界は成果を共有する仕組みが世界規模で整っていて、しっかり進んでいきます。今は再生医療に関する予測が多いですが、治療から健康、美容に応用されていくことも予想されます。老化そのものを遅らせたり、止める研究もあるようです。
でも、その前に私たちの心のほうが問題なんじゃないかと思います。何歳まで生きたいのか? 永遠の命が欲しいのか。そういうことに対して答えを求められています。技術が進めば進むほど、手触り感や人間らしさを反対に求められたり、「人間ってなんだ」ということは未来であっても問われ続けるでしょうね。
地球環境に関しては予測が現実になってきています。暗いかと言われたら暗いのかも知れませんが、だからといって逃げ出すことはできません。子ども達に「お前たちの将来は暗いよ」と言うわけにもいかない、頑張るしかないですよね。
部屋の中が新聞で埋まった
NWF:MIRAIJINでは未来予測に関するデータ登録件数が5万件を超えています。AIを使ってネット上のデータを全検索して、ある種のアルゴリズムで抽出した上で編集されているのかなと思っていたのですが、人力で岡部さんが取捨選択して編集なさっていると伺って驚きました。
岡部:人工知能を一番使いたいのは僕だと思います(笑)。自動化するプログラムを作っている方もいました。いい線いってるのですが自動化しても校正が大変で、だったら自分でやったほうが早いと、まだその段階ですね。
NWF:毎日のように一つ一つのソースに当たって、年表に入れ込んでいく作業をなさっているんですか?
岡部:紙が中心だった時は大変でした、廊下まで新聞で埋まっていましたから。エビデンスを残さないといけないので、とりあえず新聞を真ん中でバンバンと割いて、一面まるごと取っておいて残りは捨てるということをやっていました。それでもすごい量になって、部屋の中が新聞で埋まっていました。
エビデンスを見たい人がいるわけではないんですが、問い合わせがあった時は見直しますから。嘘を書いているのではないかと思って、見直すことがどうしても出てくるんです。取材しているわけじゃないので事実の有無まで責任は持てませんが、自分が読み間違えてないか、書いたものに誤読の余地がないかを確認します。
NWF:最初からアウトプットはウェブだったんですか?
岡部:そうです。未来年表を「これです」と印刷して壁に貼った瞬間、コンセプトと逆さまなことをやっていることになる。僕は「答えはこれです」と言うことができないんです。何の専門家でもありませんから。
NWF:各分野の研究者の方々も、自分達が研究しているファクト以上のことを絶対に言いたがらない。未来予測をするのが仕事ではないからとおっしゃいます。
岡部:研究者の立場なら、なおさらだと思います。数多く集めていると、その範囲の中ですが「こういうことが言えるかな」ということがポツポツ出てきます。でも、それをすぐにメソッド化したり手順化したりしてしまうことがいいとは思えないんですよ。もちろんニーズは分かります。メソッド化しないといけない立場や業界の方たちもいらっしゃいますから、それぞれの仕事であっていいと思います。ただ僕自身はむしろ「え? これでいいの?」という疑問や好奇心を動力にして欲しいと思っているんです。それぞれの読者が、それぞれの方向に頑張っていくような。
未来予測に「正解」はない
NWF:初めから未来年表をビジネスありきではなくて、純粋な好奇心から始められたんですね。
岡部:ビジネスを作るとか、仕立てるということが得意ではないし、自分で手を動かしたり何かをしていることで発想が出てくるタイプですね。他人にやらせて上がったものを見てというようなことをやっていると、自分で分からなくなるんじゃないかと思います。メディアも変わっていきますからそれを見ておかないといけないし、感じていないとアイデアが出ないです。変化に対応するのではなく、変化より先に変わっていたいですね。自分も未来の一部ですから、未来は自分の内にあると思っています。
NWF:人文系はもういらないという議論も大学で起こりました。
岡部:根源的なことを考える人文系の人材って大事だと思います、アイデアはそういうところから湧いてくる気がするので。不要論の底の浅さは恐ろしいですよ。何種類の未来年表が作られているか分かりませんが、将来に答えを求めて、キャリアパスを設定して、そんな生き方を誰もがしはじめるとしたら「よしなさいよ」と言いたくなりませんか? いま学校がそんな風になっているところがあって、すごく危機感があります。
NWF:新聞を割いていた経験が、未来年表に熱量と重みを与えているように感じます。
岡部:記者を志望したことは一度もないのですが、新聞メディアをすごく尊敬しています、今でも。校正に大変な労力がかかっていますし、記事の分量にも配置にも、洗練された判断があって、あんなテキストは他にないですよ。ウェブ上では他のテキストと同じに扱われてしまいますが、圧倒的に贅沢なテキストだと思います。
NWF:いま多くの人は未来に「正解」を求めがちですが、そのような「答え合わせのための未来」は未来の本質ではない気がしますね。
岡部:ここで集めているのは「未来」ではないんです。未来そのものではなく「未来だと思うこと」。「愛している」じゃなくて「愛している思うこと」を取り扱っています。だから決して「未来がこうなります」という答えじゃないんです。それぞれの人がそれぞれの立場でそう思った事実、それが新聞などのメディアを通じて社会に共有されたという事実、そこ重きを置いています。
NWF:例えば昔のSFが描いた未来のイメージって、今よりもっと無責任というか、もっとおおらかだったかもしれないですよね。そういった未来の描き方が最近減っているのかもしれないですね。だからみんな答え合わせの方向にいっているのかなとも思います。
岡部:勢いがないですよね。当時は景気が良かったこともあるかもしれないですが、欲望というか、夢想というか、そういったものが身近にあって、未来はそこに直結していたように思います。未来のキーワードを列挙しても、そこには体温が感じられない。5Gとは何か、その先の6Gが実現するのはどんな世界か、そんなことを心配するまえに自分の火がよく熾っていないのでは? 今の人たちは考え過ぎるし、頭が良すぎるんです。