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「未来を予測する最善の方法は、未来を創り出すことだ」というアラン・ケイの有名な言葉があるが、いま私たちが創りたいと思う「未来」は、既成の技術や考え方に囚われてはいないか? ひょっとしたら「小さな未来」しか描けなくなっているのではないか?
<プロフィール>
樋口恭介さん
SF作家、会社員(外資コンサル会社のマネージャー)。単著に長篇『構造素子』 (早川書房)、評論集『すべて名もなき未来』(晶文社)。その他文芸誌等で短編小説・批評・エッセイの執筆。ベンチャー企業Anon Inc.のCSFO(Chief Sci-Fi Officer)を務める。https://note.com/kyosukehiguchi
SFの世界を取り戻そう
Next Wisdom Foundation事務局(以下NWF):いま私たちは「未来」について考えているのですが「未来はどうなるのか?」の前に、まず「未来とは何か?」を考えているところです。この議論をしている中で樋口さんのSFプロトタイピングについての論考を拝見して感銘を受けました。
樋口:未来といっても、一人の人間の目線で直観される「未来」と、その人間を取り巻く地球や惑星規模で起り得る物理法則に則った「未来」は全然違うものです。量子力学や相対性理論にまで及ぶ話かもしれませんが、後者で起こりうる「未来」はあくまで物理法則に則って起きていく。そうした「未来」は人間目線で見たらリスクの話でしかなく、人間がそのリスクにどう対処するかという話になってしまうので、あまり明るい話になりません。僕がSFプロトタイピングという言葉を使ってテーマにしているのは、前者の直観される「未来」のことです。
「未来」と言った時に、人間というものは地球に住む生物としての受動的な立場と、一方で文明を切り拓いてきた能動的な立場を持った知的生物であるという側面があります。『銃・病原菌・鉄』で語られたように、地政学的な必然性や構造的な要因に基づいてそうせざるを得なかったという未来の切り拓き方がある一方で、「こうしたいからこうしたんだ」という、ニーチェやハイデガーが言ったような人間の強い意志、力への意志みたいなものによって未来が切り拓かれた時代もある。
でもこれは少しリスキーな話でもあり、例えばナチスは、もちろん曲解も含めてですが、ニーチェやハイデガーの「意志」に関する思想の影響を受けていて、ヒトラーがそれまでのドイツでは歴史的に起こり得なかったことを「意志」の力で実現していったからこそ、あれだけのカリスマ的な存在になれたという事実もあります。直観によって「未来を切り拓く」ということとファシズムは表裏一体の関係にあり、やはり直観だけで暴走するのもよくなく、バランスをとることが重要になります。ただ、僕の認識では今の日本は意志の力があまりにも弱く、もう少し自分の意志を前に出してもいいんじゃないの? と思っているんです。
NWF:暴走も含めて、人間の意志力がもたらした最たる前例がヒトラーなのかもしれませんが、まずは前例踏襲をやめて、人間が自分の意志や想像力のボタンを押すところから議論を始めようというのが樋口さんのスタンスなのかなと思います。とはいえ、思考が止まりがちな現代の私たちはどういう風にそのボタンを押していけるのでしょうか。
樋口:まずは制約事項などの前提をなくすということと、いきなり大きなものを想像しようとするのではなく、小さなものから少しずつ想像していくということです。人はすぐに「実装できるのか」とか「誰ができるんだ」とか「費用対効果はあるのか」とか考えたがりますが、そうした制約を取っ払って「ゼロから想像する」というのが一番大事です。だからSFが大事なのかなと思います。というのも、僕の認識では今は制約事項が多すぎて「現実路線」の思考ばかりが横行しており、技術進化というのは既に止まってしまっている。技術進化には本当に革新的なイノベーションみたいなものと、プロセスのイノベーションに分けられると思うのですが、前者の真の意味でのイノベーションは多分もう起きていない。いま起きていることはプロセスイノベーションばかりで、既にあるものの動きを速くするとか、自動化するとか、そういうものばかりなのかなと思います。まったく見たことのないものというのはイノベーションの対象になっていない。
誰もが当たり前に宇宙に行けるとか、どこでもドアを開発するとか、平行世界に行けるとか、タイムトラベルができるとか、そういうものが本当のイノベーションだと思うんです。例えば、1960年代にはタイムトラベルや宇宙旅行が真剣に考えられていたんです。世界的にもう一回そういう話をしようよ、と言いたい。アメリカにはそういう人がたまにいて、イーロン・マスクやピーター・ティールなどはそっち側の人です。ピーター・ティールは「twitterとかマジでクソだよね」のような発言をしていて、「イノベーションと言っても、出てきたものはただの140字じゃないか」と。そういう憤りを持っているわけです。イーロン・マスクやピーター・ティールは、宇宙に行こうとか、火星に住もうとか、空飛ぶ車を作ろうとか、古典的なSFの世界をもう一回取り戻そうと言っています。
なぜ本質的なイノベーションが生まれないのか?
樋口:では、なぜそのような流れが停滞してしまったのか? 日本においては世界的な共通事象と日本固有の事象の二つの別軸の流れがあると思っています。一つ目は冷戦の終わり。冷戦時代には、西側諸国と東側諸国で、相手陣営よりも国力をつける、あるいは単に相手陣営の度肝を抜くために本当のイノベーションをやってやるというインセンティブがありました。原子力の開発競争や宇宙開発競争など、相手を出し抜いてフロンティアを切り拓いていかに最先端を走り技術開発の主導権を握るか、という競争をずっとしていたと思うんです。やがて冷戦が終わって西側諸国が勝ったとなると、地球規模で繰り広げられていた大きな競争原理がなくなり、西側世界のイデオロギーだけで、経済市場を舞台にしたマーケティング主導の開発しか行われなくなり、そうして小さな想像力しかなくなってしまった。世界的にはこういう流れがあるのだと思います。
もう一つ、日本固有の流れとしては、オウム真理教の影響が大きいかなと思っています。麻原彰晃がSFオタクで宇宙戦艦ヤマトのようなSFを目指してオウムを運営していたのは有名ですが、そんなオウム真理教は日本で「IT革命」と言われる前から独自にOSの開発をしたり、そのOSを搭載したPCの販売をしていました。これからはUX基盤が世界を握るのだということをいち早く理解していた集団です。先ほどのナチスの話にも通じますが、オウムもまた、意志と暴力の表裏一体性を体現していた存在だったんですね。やがてオウムが解体して、教団内の技術開発者がどんどん逮捕されていくなかで、新興宗教やオカルトやスピリチュアル・ムーブメントが気味の悪いものと見なされていき、その流れのなかで同様に「ITも気味が悪い」という風潮が生まれていったのではないか、と僕は考えています。
オウムはサブカルチャー、アンダーグラウンドカルチャー、反体制精神みたいなものと技術開発が強く結びついていた組織でした。社会的にも精神的にもソフトウェア的にも、体制の転覆を本気で信じていた組織でしたからね。しかしオウムが一網打尽になったことによって、日本におけるITのある種の「ヤバさ」、テックカルチャーがそもそも持っていたカウンターカルチャー精神のようなものも根こそぎ失われていくことにつながっていったのではないか。その後、「IT革命」の時代がやってきて、起業家と体制的なITの時代が2000年代以降に訪れましたが、起業家にはカウンターカルチャーの精神がなく、市場に飼い慣らされているからつまらない想像力しかない。そこからは器の小さなプロダクトしか出てこない。今の社会では「いいね!」と万人に理解可能な範囲で、金持ちの老人向けのプレゼンがうまくいった人だけが資金調達できて、実際に開発にこぎつけられる。だから度肝を抜くようなものは出てこないし、結局プロセスイノベーションのようなしょぼいイノベーションしか起きない。
NWF:イノベーションの主体が今まで国家レベルだったものが企業レベルになってしまった、そんな感じがしますね。
樋口:主体の大きさとお金の大きさで、そこから生まれるイノベーションは変わってくるので、そのとおりだと思います。世界を見れば今でもまさにそうですよね。中国がすごくイノベーティブだと言われていますが、それはなぜかというと、国が主導でやっているから、国民がどれだけコキを使われようが、どれだけ未来に借金がかさもうが、とりあえず突っ込め! ということを国主導で、官民共同でやっているからですよね。
NWF:ひょっとして、民主主義だと小さくなってしまうんですかね?
樋口:ここで結論を出すのは拙速かもしれませんが、実際にそういう議論は起きていますね。「民主主義って意外にショボいんじゃないか?」と。僕は最近迷走していて、なぜかファシズムの勉強をしているのですが、ファシズム世界では国が右と言えば全部右になる。だからナチスでは大きなイノベーションが起きたのだとも言えます。社会の常識や前提を取っ払う「妄想ドリブン型」の技術開発は、民主主義的な組織にあっては人が増えれば増えるほど難しくなっていく。だから、実現するならファシズム方式でいくか、あるいは、頭のおかしい小さな組織をたくさん作ることのどちらかでいくしかないと思います。つまり、民主主義社会において国が大きく変わらないなら、いかにカルトみたいなものをいっぱい作れるかということですね。
例えば、いろんなところに頭のおかしなカリスマがいて、明らかに変なことを言っていて、明らかに変なことをやっているとします。そういう人たちは実際にいるんですが、その人たちが一人ぼっちではなくて、3人でも5人でもいいから仲間を作って、小さなオウムみたいなカルト集団になることがまず大事だと思うんですよね。多分100人や1000人となると無理だと思うんですが、5人くらいならいけると思う。ナチスの時代には100人や1000人の規模が必要だったことが、今ではパソコン一台あればある程度できるという世界になっているから、おそらくたった5人でも、社会に訴求可能なプロトタイプは作れます。
まずお金を度外視して「作りたいものを作りたい」という人間が小規模のカルトみたいなサークルを作ること。そして、それが一瞬で終わらないことが大事。カルトみたいな人たちが当たり前に持続可能なあり方でやっていける、一つのカルトが死んでも次のカルトが生まれる、そういうことが当たり前にできる社会がいいのかなと思っています。そして行政も、彼らが失敗しても死なない社会をちゃんと作ってあげること。投資してあげるでもいいですし、融資の制度を作ってあげるでもいいですし、失敗した後の面倒として失業保険よりちょっと上乗せするような形の資金的な援助をしてあげるのが大事だと思います。それはおそらく30年とか50年とかかかる制度変更の話だと思います。
芸術の世界もイノベーションと似たようなところがあって、50年後、100年後、下手すると500年くらい経過して初めて、あの時こういう人がいて、その人が残した絵画はすごいよね、と評価される。だから芸術に対して寛容な社会でなければそのような価値は生まれないのかなという気がします。多分現世紀では無理だと思いますが、アートみたいなものとイノベーションみたいなものを同一視するような文化や、そういう政治の在り方が大事なんでしょうね。
なんかファシズムの話ばかりしていて申し訳ないんですが、20世紀初頭のイタリアには「未来派」という芸術集団がいたのですが、この未来派とニーチェの思想みたいなものと政治体制が結びついてファシスト党が生まれました。未来派というのは、その名のごとく「これが未来だ!」という思想を作り、その思想の実践として、未来の表象を音楽や絵画、デザインなどの分野で展開していったのですが、そのような未来志向のアートとテクノロジーの在り方が体制とどんどん結びついて、ファシズムに流れていったという歴史があります。だから……ということでもないのですが、ファシズムに流れるのはよくないことだとは歴史に学んだうえで、イノベーションはテクノロジーに閉じているだけでは起きないことだとも理解する必要があると思うんです。アートとテクノロジーを切り分けるのではなく同じような軸で評価し、テクノロジーはアートのように、もっと思想的に、もっと批評的に、もっと前衛的に、つまり、もっと頭がおかしくなるべきだと思うんです。
Gino Severini, 1912, Dynamic Hieroglyphic of the Bal Tabarin, oil on canvas with sequins, 161.6 x 156.2 cm (63.6 x 61.5 in.)
SFを資産として捉える
NWF:樋口さんは、SF小説などの創作活動と、普段のコンサルタントとしてのお仕事の間にはどのような関係がありますか?
樋口:共通するのは考え続けることです。作家もコンサルタントも、考えることや感じることが仕事だと思うんです。そもそも生きること自体が考えて感じることだと思うので、作家として生きることはコンサルタントとしての仕事への影響もすごくあるし、その逆ももちろんあります。両者ともに想像することが必要です。これからは想像力が必要だ、とは繰り返し言われていることだし、僕も言っていることではありますが、想像するという点では、単純に今まで想像できなかったことが想像できればいいので、手段はなんでもいいと思います。それは必ずしもSFである必要はないかもしれません。ただSFには100年以上の歴史があります。今までSFで描かれてきた解釈を使って、二次創作のように今の時代に自分の中でどういうことなら書けるのか、それを試しにやってみるときには、SFを利用するのが一番簡単だと思うんです。
自分でゼロから考えるより、先達がいるということがアセットとして重要なのかなということですね。SFは娯楽でもありますが、アセットとして使うことをもっとやってもいい気がするんです。アメリカでは1950年代から国家的な軍事戦力を検討している時や未来研究をする時には、基本的にSFを参考にしています。SFというものが知的なアセットとして使われることが西側諸国だと当たり前になっている。その一方で、日本ではSF小説は娯楽小説でしかありません。
普段僕はコンサルタントの仕事をしていて、例えばミーティングやワークショップなどで、クライアントと資料をベースに話をしていても、最初はみなさん教科書通りの話しかしないんです。そういうときは一回資料から離れて、「先週見た映画の中で面白かったの何ですか?」とか「最近面白い漫画はありましたか?」とか、そういう雑談を挟むと会話が盛り上がる。みんな自分が楽しいと思っていることについて話すから盛り上がるんです。その時にすかさず「そういうことなんですよ、この空気のままさっきの話に戻りましょうか」とか言うと、参加者から違う視点が出てくる。みんな、仕事モードと娯楽モードを分けすぎなんじゃないかなという疑問を持っています。
アメリカだとSF作家を会社に雇うということがあります。日本もそういうことをやるといい気がしますね。あとは、いまは会社のエンジンの中に「デザインシンキング」をバンドルするということが流行っていますが、日本だとあまりうまくいっていないように感じます。それをちゃんと機能させるには組織の根本的な思想、組織の構造自体をもっと変えないといけない。
ティール組織という言葉が流行っていますが、縦割り社会や役職を前提とした上意下達の意思決定モデルを見直して、もうちょっとアメーバ状にしてあげるのが大事なんだと思います。それがないままデザイナーだけを雇って、デザイン部門を作って終わり、みたいなことだとうまくいかないですよね。たとえデザインシンキングで面白いプロトタイピングがされたとしても「それは利益を生むの?」とか「マーケティングとしてどういうターゲット層に訴求するの?」という費用対効果の話になってしまって、芽が潰されてしまいます。
エゴが足りない?
NWF:私たちは仕事とそれ以外を分けてしまいがちですが、それはなぜかを考えると、お客さんや相手の顔をうかがいすぎているのかもしれませんね。ひょっとして「エゴ」が足りないのかも?
樋口:その通りだと思いますね。「自分がこうしたいからこれなんだ!」みたいに、もっと自己中心的で主観的なモノづくりをした方がいいと思います。プロセスイノベーションの世界では、既に運用されているものを効率化させていかに加速化させるかを問われるので、みんなで協力しながら進めていく必要がある。でも、全く新しいモノやサービスを作るとき、最大公約数的なものから新しいものは絶対に生まれません。だから人の目は絶対気にしてはいけないし、頭のおかしいカルト的な組織的な方向性でやるしかない。そうなると、今後はアーティストが組織にいるベンチャー企業などから面白いものが出てくるかもしれない。会社の会議にアーティストを一人雇って入れるとか、敢えて空気を壊すような発言を奨励するとか、そういう仕組みが大事になると思いますね。それで、そういう変なところから面白いものが出てきたら、変だからと言って潰すのではなくちゃんと評価してあげないといけない。
NWF:そこにSF小説家としての能力が活きてくるんですね。
樋口:そうかもしれません。いまでも僕はコンサルタントとしての仕事中に、ときどきSF作家としての側面が出ることがあります。例えば、ワークショップを設定してファシリテートするとき、別にそういう文脈じゃなかったとしても、敢えて「デザインシンキング」などの流行り言葉を使うことがあります。流行り言葉は参加者の興味を引く上でも重要だと思うのですが、その中に「ヤバいもの」をいかに混ぜこんでいくかが大事だと思っているんですね。流行り言葉を作るところまではコンサルティングの仕事、「ヤバいもの」を混ぜこむのはSF作家としての仕事。自分の中ではそういう分け方をしています。
仕事柄いろんなデザインシンキングのワークショップに参加したことがありますが、そこで行われる内容は企画者によって違っていて個性が出ます。人によって、重きを置いている事柄がそれぞれ違うんですね。だから、流行り言葉をとりあえず作ってあげて、その流行り言葉の中で考えてみると、おもしろいものが出てきたりする。フレームの定義が曖昧だからこそ、自分がやりたいことを混ぜ込む余地があるんですね。デザインシンキングに限らず、そういう事例が増えるのがいいのかなという気がしています。
NWF:まず枠組みを作ってあげるというのは日本人に合っていると思いますね。その中身にそれぞれの意図や工夫がある。枠組みがあるということが安心材料ですね。
樋口:そうですね。いきなり「新しいことを考えましょう」というのは難しく感じるかもしれませんが、フレームがあるとやりやすいですよね。流行り言葉で「みんな今やっているから」と軽い気持ちで参加してもらって、個性的なプログラムを用意してあげて、段取りに沿って進めていくと最後に面白いアイディアが生まれる、みたいなことが色々なところで起きているので、そういう既成事実をたくさん作っていって、なんとなく面白いことが当たり前にできるような雰囲気を作っていくのがいいのかな、と思います。「SFプロトタイピング」も同じだと思っていて、まだ全然流行っていないんですが、今後流行る可能性はあるかなと感じています。
樋口さんのnote「The Prototyping of Science Fiction Prototyping:SFプロトタイピングのためのプロトタイピング(随時更新中)」より引用
SFプロトタイピングの可能性
NWF:「SFプロトタイピング」の可能性は、具体的にはどのようなものでしょうか?
樋口:三つの可能性があると思います。一つはプロトタイピングしたものがちゃんと実装できるというケース、目指したものに近い形のものが普通に作れる可能性があるということ。二つ目は、実装できなくともアイディアとして留保されて、何年後に実現される可能性が生まれるということ。最後の一つは妄想を話し合うことそのもので、それ自体が文化を変えていく可能性があるということです。そして僕は、この中でも三つ目が重要なのかなという気がします。前提を取っ払って、自由に想像していいんだ、むしろ自由に想像しないといけないんだと。それ自体は直接的に何かを生み出さなかったかもしれないけど、その文化が根付くことによって、全然別なところでそれ以前には絶対に生まれなかったものが生まれるかもしれない。そういうところにSFプロトタイピングの可能性を感じています。
そういう意味で、SFプロトタイピングにニーズがあるとすれば、デザインシンキングやアート思考というものと同じだと思います。「哲学シンキング」という言葉も最近流行ってきていますが、要するにみんな不安で、このままではダメだと思っていて、でも何ができるかわからなくて、何か新しい思考方法があれば試したいということですよね。思考方法の選択肢が多くなるというのは素朴にいいことだと思いますし、そのとき思考方法の一つの選択肢としてSFを利用することで、今まで思いつかなかったことも思いつけて、それでさらにアウトプットのイメージまで持っていけたら最高ですよね。SFプロトタイピングでは、直接的には目の前でプロダクトは生まれないかもしれませんが、違うところで生まれたり、何年後かに生まれたりといった未来への芽が蒔けるのは、一つの希望と言っていいと思います。
NWF:SFプロトタイピングは発想の仕方だったり、頭の構造だったりをちょっと変えるものなのかもしれないですね。樋口さんのおっしゃる「本当のイノベーション」もそこから生まれるのかもしれません。
樋口:でも僕も普段、会社員としてワークショップや企画のアイディア出しをするときは、テレワークをどうやってもっと上手いことやるかとか、大体そういうプロセスイノベーションの話しかしないですよ。そんな時に「空飛ぶ車」とか言い出すと、「お前バカか?」みたいな扱いを受けるわけです。でも、そういう発言がバカにされないことが大事だと思っていて、「空飛ぶ車」を持ち出すことで失笑を受けるかもしれないけど、その場の空気は確実に変わる。半分冗談で言ったとしても「そういうことを言ってもいいんだ」という空気を作ることが大事だと僕は思うんですよ。なんとかしてそういう空気を変えていきたいなと、僕は日々思っています。
NWF:思考のタガを外すようなイメージですよね。今までSFは小説や映画などのエンターテイメントの形をして広がって、それが多くの人のマインドを変えて、現実世界がそっちの方向に動いたということが実際にあったのかなと思います。エンターテイメントやコンテンツとしてのSFの可能性は今後どうなっていくとお考えでしょうか?
樋口:難しいですね。SFで描かれている根本的な技術は昔と今もそんなに変わっていない気がするんです。ただ、技術が精緻化してリアルに描けるものが変わってきていることと、過去100年で身分制度や女性差別などの社会状況が変わってきているので、テクノロジーの描き方がそれによって引きずられて変わるということはあります。つまり、テクノロジーの内容はそんなに変わってなくても描かれ方が変わってきて、もう少しリベラルな社会を前提にしたテクノロジーの使われ方がSF全体の方向性として増えていると思います。昔のSF小説を読むと女性差別が顕著で「男は戦ってそれを支えるのが女」という構図が多いです。今はそういうことがだんだん無くなっていますね。
三つの「SF」
NWF:いま私たちが未来を考えようとすると、実現可能なテクノロジーを前提にした未来を想像しがちなのですが、その対極にあるようなスピリチュアル系、神様や救世主が降臨して世の中を修復するみたいな一派もいるような気がします。ガンダムの世界のような、ニュータイプの人間が出てくるとか。科学の範疇を越えた未来をどのように扱ってよいのでしょうか?
樋口:全部大事だと思います。SFの「S」でよく言われるのは「Science(サイエンス・科学的)」と「Speculative(スペキュラティブ・思索的)」ですが、僕は「Social(ソーシャル・社会的)」もあると思っています。Science、Speculative、Socailのどれかがちゃんと意図的に描かれていればSFなのかなと思います。ScienceではないSFがいっぱいあるんですよ。スペキュラティブ フィクションでは、自分の感覚をある部分は極大化したり、ある部分は極小化したり、という物語もありますし、ソーシャル フィクションでは未来の監視社会をテクノロジー無しに描いた物語もあります。
例えば、ジョージオーウェルの小説『1984』にはいわゆる理系的なテクノロジーが全然出てきませんが、それでも非常にSF的で、ソーシャルデザインを変えることで人間も変わってしまう、そういうことを描いた小説です。物語というものは、SFに限らず純文学にしてもホラーにしてもそうだと思うのですが、そこに描かれたフィクションの内容を読者が勝手に比喩として捉えて自分の中のリアリティと結びつける。だからSFという分野にこだわらず、小説の可能性として人間が想像できるものはどんどん書いていいと僕は思います。ガンダムのニュータイプの話にしても、僕のリアリティで捉えると、戦闘に特化した能力を持つようゲノム編集されたデザイナーベイビーのような設定に見えるので、すごくリアルな話だと思うんです。
もう少し身近な例で言うと、例えば、今の僕らにとっては当たり前の携帯電話やスマホを、SFで長らく描かれてきたテレパシーのメタファーとして捉えることもできます。昔のSFはテレパシーを脳波によってコミュニケーションする方向性で描きましたが、それをガジェットとして描き直したらスマホになったと考えることもできる。リモートでコミュニケーションをするということがテレパシーの本質で、それをテレパシーとして記述するかスマホとして実装するかの違いでしかありません。アナロジーを考えるのがエンジニアやコンサルタントのすごく重要な能力の一つだと思いますが、アナロジーを考えるきっかけになるのがフィクションの力だと思います。
NWF:「リモートで意思疎通を図りたい」という人間の欲望が、その核心にあるのですね。
樋口:その欲望が大事なんです。例えば「幸せになりたい」という欲望があるとき、「幸せとはなんだろう?」と考え始める。もし幸せを「全ての可能性を同時に感じること」だと定義したならば、量子力学の平行世界みたいなものを一つのガジェットに封じ込めて、平行世界の自分の感情を取り出させて今の自分にインサートできたら面白いな、と想像することもできる。「今この瞬間が幸せだ」と思う自分の可能性を全部可視化して取り出せることが幸せの定義なんだと考えれば、それはSFになるのではないでしょうか。
グレッグ・イーガンという作家がいて、まさに『しあわせの理由』という小説があるのですが、彼は幸せというものを「脳内の神経伝導物質のバランスが安定的に保たれている状態」と定義するわけです。そうなると、脳内の「幸せ回路」みたいなものを技術的に補填してあげて、その神経伝達物質が安定的な状態になるよう人為的に操作することで「幸せ」が可能になる。だから主人公は客観的にはどんなにひどい状態であっても、脳内の感覚としては幸せである、そういう小説があるんです。だから「幸せになりたい」という欲望を掘り下げることでSFを描くことが可能で、それを現実に落とし込んだらどうなるかも思考することができるわけです。
人間以外の目線を持つこと
NWF:あらためて、これから私たちに必要になってくる考え方やあるべき姿についてどうお考えでしょうか?
樋口:「人新世(アントロポセン)」という言葉がいろんな場所で使われるようになりましたが、いま人間に降りかかっている様々な厄災は人間の技術文明が長年堆積したことによって起きているということです。地球温暖化もそうですし、環境変化によって起きる地震や新興感染症、新型コロナウィルスもその一つですが、新興感染症が過去30年ぐらいで増えていると言われています。資本主義がその変化を加速させて、過去200年ぐらいで技術文明は人類の生活を飛躍的に便利にしてきたわけですが、そろそろ見直しのタイミングに来ているのかなと思っています。
ご質問に直接お答えすると「人類以外の視点を持つこと」が大事だと思います。地球の視点や宇宙の視点、宇宙人の視点が大事な気がします。文明を拡張するのではなく、人類の宇宙規模での役割を構築すること、自分たちの存在意義を再定義することが大事な気がします。
NWF:それはSF的な考え方でもありますね。
樋口:そうかもしれません。SFでは宇宙人が出て来て「おい人類、調子乗ってんじゃないぞ!」みたいな話になることが多いです。いま新型コロナウィルスが流行っているのでそこに結びつけてお話すると、小川一水さんというSF作家が書いた『天冥の標』という全10巻の小説があって、その2巻目で新興感染症が流行って人類の存続が危機的な状況になるというエピソードがあります。最終的にそのウィルスの媒介となった動物が山奥で発見されて、その動物は明らかにそれまで地球に存在していなかったであろう動物だった。
これは宇宙人の仕業だと推論されるんですが、宇宙人はなぜそんな山奥に数少ない動物を置いたのか? 正確にはわからないが、おそらくこれは宇宙人のいたずらだと。なぜかというと、宇宙人が人類を完全に滅ぼしたかったら、ウィルスを直接散布したり、宿主となる動物を市街地に放ったりするはずなのに、そうではなく、山奥に動物を数匹だけ置かれているからだと言うんです。 おそらく人類は自然破壊をして山を切り切り拓いていくだろうと予測して、それならいつかこのトラップに引っかかるかもしれない。宇宙人は遊びでそういう賭けをしていたのかもしれない、と物語の中で語られるんです。
自然を開拓し続けるという文明の方向性が変わらない以上、人類は今まで出会わなかった他者と出会うだろうと宇宙人は予測するんですが、それは宇宙人の目線を持つことができれば僕らも考えられること。そういう宇宙人目線をそろそろ持ってもいいんじゃないかなと思いますね。
NWF:そこからどうやって行動を起こしていくかは読んだ人次第なんですね。
樋口:読んだ人次第ですね。その先の答えを出してしまうのはフィクションの仕事ではないと思いますね。
NWF:でも、その人の思考に対して確実に影響を与えると。
樋口:はい。そうだと思います。例えば僕は、今日は偉そうなことをたくさん話してしまいましたが、別に特定のイデオロギーを支持する政治家や活動家でもないし、一般市民として普通に暮らしているだけの普通の人です。でもこういう風にインタビューしていただいて、僕の思考の一端がウェブの片隅に記事としてアップされること自体、一つの影響の拡大なわけです。その思考の結論として具体的な行動に繋がらなくても、思考自体はいろんな経路で広まっていくものなので、それがフィクションのヤバさでもあり、面白さでもあるのかなと思います。だから、急に僕がここで「この国はやばい! だからみんなでデモをしよう!」なんて言い出すと、逆におかしな話になる。思考による行動の変化というものは、普通に日々過ごす中で滲み出てくるものだし、それがSFであり、想像することの力だと思うんです。