ARTICLES

Event report

進化論とAI〜サルとAIを置き換えて考えてみる(ゲスト:東京大学大学院情報学環教授・佐倉統さん)

今後、人類とAIはどこまで進化していくのでしょうか? 人間の進化の先にはAIとの協働が必要という視点、AIが人間を超えていくのではないかという視点、一方では共進化を唱える研究者もいます。そして、人間の進化の先に「どこまでが人類なのか?」という疑問も生まれてきそうです。東京大学大学院情報学環教授/理化学研究所革新知能統合研究センター チームリーダーの佐倉統さんをゲストにお招きして「進化論からみたAI」について考えます。

<ゲスト>
佐倉統さん
東京大学大学院情報学環教授/理化学研究所革新知能統合研究センター チームリーダー

1960年東京生れ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。三菱化成生命科学研究所、横浜国立大学経営学部、フライブルク大学情報社会研究所を経て、現在、東京大学大学院情報学環教授、理化学研究所 革新知能統合研究センター チームリーダー。2015年~2018年3月まで東京大学大学院情報学環長。もともとの専攻は進化生物学だが、その後、科学技術と社会の関係についての研究考察に専門を移し、人類進化の観点から人間の科学技術を定位する作業を模索継続中。
主な著書に、『おはようからおやすみまでの科学』(ちくまプリマー新書)、『進化論という考えかた』(講談社現代新書)、『わたしたちはどこから来てどこに行くのか?』(中公文庫)、『現代思想としての環境問題』『科学の横道』(ともに中公新書)、『進化論の挑戦』(角川書店)、『「便利」は人を不幸にする』(新潮選書)、『人と「機械」をつなぐデザイン』(東京大学出版会)など。

社会が技術を変える

私は元々サルの研究をして、今はAIを研究しています。人間の長い進化を見たときにAIやロボットをどう位置づけるのか、ということをいま研究しています。今日は最初に、そもそも技術と社会はどういう関係になっているのか基礎的な話をします。それから人と機械の関係、最後にサルと人の関係をお話ししたいと思います。

まず技術と社会の関係。キーワードは「技術の社会的形成(Social Shaping of Technology)」 というものです。新しい技術が出てくると、その技術によって人や社会はどう変わるか。例えばAIによって失業者は何人増えるのか、どういう法律が必要か、ということがよく話題になりますが、技術が社会に影響を与えるだけでなく、社会も技術を変えていく。技術と社会の関係は一方向ではなくて双方向で、さらにこの社会の背景には文化というものがあります。

ポケベルを女子高生が変えた

技術の社会的形成の例で分かりやすいのは電話です。グラハム・ベルは電話を発明しましたが、電話を開発した当初は一方向の情報伝達の道具として考えていたんですね。例えば事故があった、急病人が発生した、そういうときに医者が治療法を現場に伝えたり、あるいは軍隊が遠くにいるときに命令を伝えたり、一方向の伝達メディアとして技術開発者は想定していました。しかし今電話というのは双方向のコミュニケーションメディアとして使われています。

逆に、今は一方向でしか使われていないけど、当初は双方向で想定されていたのがラジオです。ラジオというのはリスナーと発信者が双方向で協力しながら番組をつくるものとして想定されていました。実際に東ヨーロッパのハンガリーやアメリカの一部の州ではそういう方法で番組が作られていました。しかしその後、日本でもそうですが電波法などの問題もありラジオは一方向の伝達メディアになります。

それからポケベル。ポケベルを見たことがない若者もいるかもしれませんが、ポケベルはかけてきた人の電話番号を表示させて、公衆電話を探してかけ直すための道具でした。でも公衆電話はたどりつくまでに時間もお金もかかる。そこで当時の女子高生が何をしたかというと、ポケベルに表示される番号自体を暗号メッセージにしたんですね。例えば「0833」は「おやすみ」と読みます。次第に確定した暗号表ができて、その暗号表に基づいたポケベルをNTTドコモが発売しました。このように技術は社会によって、時とともに変わってくるんですね。

技術は想定通りには使われないもの

アメリカの経営学者のエベレット・ロジャーズは、イノベーター理論を提唱しています。技術との関わり方によって人々を5つに分類しています。新しい技術を開発するのがイノベーター。それからアーリーアダプター、新しい商品が出たら1週間徹夜して並ぶような人たちです。その次がアーリーマジョリティ、大多数の人。私はこの辺だと思いますが、初期モデルはバグがあるかもしれないから一巡してから買おう、そういう人ですね。あとふたつ、遅れてやってくる人たち(レイトマジョリティ)と、技術に関心を持たない人たち(ラガード)がいます。

ロジャーズが言っているのは、新しい技術の使われ方というのは、だいたいこのアーリーアダプターが決める、イノベーターではないということです。イノベーターが想定した技術の使い方はありますが、その技術が社会に普及したときに、当初の想定通りに使われることは少ないということです。

さて、今、AIやロボットの登場で倫理や新しい法整備の必要性が言われていますが、だいたいアメリカやヨーロッパ主導なんですね。アメリカでできた法律や規制をそのまま日本で取り入れればいいかというとそうではなくて、やはり私たちは日本の社会や文化の特性に合ったAIやロボットへの対応を考えなければならないと思います。

AIは希望か?脅威か?

次に人と機械の関係を考えます。数年前にビッグローブが行った調査によると、「あなたは人工知能に対して期待しますか、それとも脅威に感じますか?」とういう質問に対し、17%が「期待する」、37%が「どちらかといえば期待」、20%は「どちらかといえば脅威に感じる」、8%が「脅威に感じる」という結果が出ました。半分以上の人が期待する一方で、30%くらいの人が脅威に感じています。

何を期待して何を脅威に感じるかですが、期待の方はかなり具体的で、例えば「医療分野の進歩」、「乗り物の自動運転」、「新たなコミュニケーションアイテム」などに期待している人が多い。それに対して脅威の方はかなり漠然としています。「システムエラーによる事故や社会的混乱」、「知能が人類を超え制御不能になる」、など。知能が人類を超えることと制御不能になることがなぜ結びついているのか、そこが私には分からないんですね。知能が人類を超えても制御可能なことはあるだろうし、超えなくても制御不能な機械は既にたくさんある。他にも自分の仕事を奪われるなど、漠然とした脅威を感じているのが分かります。

AIは暴走しないのか?

人工知能学会の山田さんを始め、日本のAI研究者の多くはシンギュラリティなんてありえないと言うんですね。アメリカやヨーロッパでも懐疑的な研究者はいますが、危ないという人も多いですね。これもAIやロボットに対する見方の文化的な違いだと思います。

シンギュラリティという言葉を流行らせたレイ・カーツワイルが著書の中で、「人間は頭蓋骨の大きさや脳のシナプス伝達の速度に制約があるが機械は生物学的限界の制約を受けない」と言っています。私が工学出身ではないからかもしれませんが、そこにどうしても納得がいかないんです。機械にも材質による制約や機械的な制限などがあるわけで、どうして生物だけに制約があって機械には制約が無いと言い切れるのか?

さらに、「AIはパフォーマンスが一定している」と言っていますが、実際はどうでしょうか。パソコンでもたまにハングしたり暴走したりします。おそらく人工知能はパソコンよりもはるかに複雑で微妙なシステムになるでしょう。パソコンですらパフォーマンスが一定しないのに人工知能なら大丈夫で言えるのでしょうか。生物にはできなくて機械ならできるというのは、あまりにも単純な見方だと思います。

人間はヒョウよりも強い?

ニック・ボストロムというオックスフォード大学の哲学者は『スーパーインテリジェンス』というAIに関する本を書いていますが、こちらもかなり知能の対する見方が偏っています。

「我々は爪の鋭さや筋肉の力強さによって他の生物種に劣る、しかし人間は頭脳によって彼等に勝る」。人類は肉体的には弱いが知能で勝ることによって種として繁栄できたという典型的な見方ですが、これは特にヨーロッパの知識階級の中で一貫して流れているように思います。しかし最近の研究が明らかにしたことによると、人間はもちろんゾウと取っ組み合ったら負けますが、アフリカにいる動物の中では決して弱い方ではない。例えば、チンパンジーの糞の中からヒョウの毛などが出てくることも実際に観察されています。複数のチンパンジーが棒や石を持って穴の中にヒョウを追詰めて仕留めて食べたという観察例もあります。

人間は直立二足歩行をして体毛がほとんど無くなったことによって環境に適応しました。人間が森林からサバンナに出たとき、既にヒョウやライオンなどの肉食獣がウヨウヨいた。人間が短距離で彼らに対抗するのは難しい。ではどうしたかというと、長距離移動したんです。直立二足歩行というのは長距離移動するときに最もエネルギー効率が良くなることが分かっています。しかも、体毛が薄くなって汗腺が身体中にある。チンパンジーとゴリラの汗腺は、手のひらと顔とワキの下くらいにしかありません。人間は身体中に汗腺があるので、汗をかくことで体温調節できます。人間はサバンナで長距離移動に耐えられるになることで、ライオンやヒョウに勝ってきたわけですね。

ボストロムさらにこんなことも言っています。「進化における自然選択の過程で知能の進化に関わりがあったのは、それらすべての過程のほんの一部に過ぎない」と。これは生物学者としては納得がいかないです。言語を扱ったり論理的な推論をしたりするような能力はもちろん人間にしかないと思いますが、知能はそれだけではないはずです。環境と関わっていくためにはもっと幅広い認知や行動の制御が必要で、脳だけではなく身体全部で人間の知能を形成しているはずです。彼等の見方はそのうちの論理的、言語的なことに偏っていて、そこだけが知能だという風に言っているんですね。

アメリカやヨーロッパの言説にはバイアスがあって、人間とAIが対峙しているんですね。でも今そういう時代ではないと私は思うんです。周りの環境にAIが埋め込まれていて、そういう環境の中でどのように人間とAIが共生環境を作って行くかを考えるべきだと私は思います。1対1でどっちが勝つか、ではなく多対多で共生していく。

自然観の違いがAI観の違いを生む

ヨーロッパやアメリカの文明の基層はキリスト教です。キリスト教の自然観というのは、一人の神様(造物主)がいてその管理下に自然がありますが、東アジアの自然観というのはご存知のように人間と自然は一体であるという考え方ですね。人間も自然の一部、人も自然と連続している。これはキリスト教における人間対自然の関係とは決定的に違います。そのベースになっているのは生息環境です。東アジアは森林がベースになっていて、ユダヤ教やキリスト教が出て来たイスラエルのあたりは砂漠、乾いた環境で非常に厳しい。森林というのは穏やかで、人に対して平和的な調和的です。

このように、人と自然が一体になっているという自然観には科学的なメリットもありました。まず その一つがダーウィンの進化論を抵抗なく受け入れた、ということです。日本にダーウィンの進化論を導入したのはエドワード・モースという大森貝塚を発見した人ですが、明治時代に東京帝国大学のお雇い外国人教師として動物学の教授としてアメリカから来ました。

モースは熱烈なダーウィン主義者で、アメリカのハーバード大学の自然史博物館に勤めていたんですが、そこでの上司がルイ・アガシーという反ダーウィン主義者でした。彼と喧嘩してハーバードにいられなくなって、ダーウィン主義を広めようと1877年に日本に来ました。ダーウィンの進化論が出てから20年くらいです。

モースは大学で学生に授業をするだけじゃなく一般の人にも講演をしました。ダーウィンという偉大な先生がいて、人間も動物から繋がっている、人は自然の一部だということを言うのですが、日本人はみんな「そうですよね、私たちそう思っていますよ」となんの抵抗もないわけです。モースは肩透かしを食らうのですが、一方でものすごく感動してダーウィンに手紙を書くんですね。「ダーウィン先生、モースと申します。日本という国では進化論は何の抵抗もなく、学者や学生だけでなく一般の市民隅々にまで何の抵抗もなく受け入れられています!」と。当時西洋ではダーウィンの進化論は大変な反対にあっていましたから。

ダーウィンの進化論をすんなりと受け入れることができたのは、東アジアの自然観があったからじゃないかと思います。

もうひとつ、東アジアの自然観が新しい科学的発見をうながした例として、霊長類学、サル学の発展があります。ニホンザルの複雑な社会を解明したり、「イモ洗い行動」として有名な、サツマイモを海水で洗って食べるという新しい行動が群れに広まって、文化的な現象がサルにもあることを発見したり、サルが非常に人間に近く、本質的な部分ではほぼ同じような特徴を持っていることを日本人が発見できたのは、人間は動物の一部であるという自然観が根底にあったからだと思います。

この「自然」を「機械」や「人工物」に置き換えて人との関係を見ても、キリスト教的な考え方とそうでない考え方があるんじゃないかなと思います。12万年前に人類が生まれて地球上に広がっていきましたが、ヒトは太古から道具(人工物)に頼ってきました。生物が環境に適応して分布を広げていく過程を「適応放散」という言い方をしますが、ヒトという種の適用放散の過程を見ると、アフリカで起源しているのに寒いところにも行っているし、海まで渡っています。こんなに世界中に広がることができたのは人間が人工物、つまり道具を持つことができたからです。

道具の出現が人間の進化を止めた?

アメリカのデイヴィッド・ピルビームという自然人類学者が人と環境の関わり方をまとめた図を見ると、縦軸が年数で下に行くほど古くなっています。100万年単位で500万年前、200万年前、5万年前、現在となっていて、これがヒトの系統なんですね。横幅は個体数で、ヒトがどれくらい広い範囲に適応したのかを表わしています。

300万年前〜200万年前くらいはアウストラロピテクスという猿人の時代ですが、この時代はあまり高度な道具や文化というのが無く、違う環境に適応しようとすると遺伝的に変化するしかない。つまり、違う種になって違う環境に適応するしかない、普通の生物が違う環境に適応するのと同じプロセスなんですね。

この時代の猿人にはたくさんの種がいましたが、100万年前〜50万年前くらいになってくると、ヒト属、いわゆる原人ホモエレクトスになってきます。北京原人ジャワ原人が有名ですが、これくらいになるとかなり道具を使いこなして、火を使い始めたのもこの頃だと言われています。

ここまで来ると、違う環境に適応するのに道具を使ってかなり対応できるようになってくるので、生物の種としては進化するというか変化する必要がなくなります。ですので、一つの種で広い範囲に適応できるようになります。それが現代人、つまりホモサピエンスになると、もう完全に人工環境の中にいます。私たちは寒ければ暖かい空気を出し、暑ければ涼んだり衣服を脱いだりして人工環境を調節することでいろんな環境に適応していく。つまり、文化的行動的多様性を持つことによって環境に適応したんですね。

今の私たちヒトは、あらゆる人種を超えて生物学的にはただひとつの種です。ホモ・サピエンス、たったひとつ。しかし文化の多様性はものすごくたくさんあります。人工環境を調節することで違う環境に適応してきた結果だと思います

人口増加は新技術が引き起こした

これは人口がどのように増えて来たかを示す図ですが、人口が増える節目に、農耕や文字の出現などの技術があったことを表しています。人類の適応放散は人工物によって可能になった、人と道具はひとつの共生体を構成していると考えられるということです。人類という種は機械や道具など人工物と一緒になったシステムとして考えなければならない。文字や数字も人工物です。言語については、言語を司る領域が脳の中にありますから、自分の母語を獲得するために苦労したという人はいないと思います。ところが文字はどうでしょうか。

日本人ならひらがな、カタカナ、漢字があって、いずれも努力して訓練によって身につけるものです。文字を使うには自転車に乗るのと同じで練習しないと身につけられないんですね。脳の中の図形を見るところ、明暗を見るところ、言語を司るところ、音声を司るところなどいろんな部分が活動して初めて文字の処理ができるようになっているんです。その回路付けをする学習が必要なので習得に時間がかかることになります。

このような人工環境というのは、実は動物にも多少は見られます。程度は人間ほどではありませんが、他の動物にも普通にあるものです。動物が使う人工物のような環境改良のことを、リチャード・ドーキンスというイギリスの生物学者は「延長された表現型」という言い方をしています。ある動物個体がもっている遺伝子の情報のパターンを遺伝子型と言います。その情報をもとに生物個体の身体が作られていきます。通常はこの個体の身体のことを、遺伝子型に対して表現型と言います。ですがドーキンスは表現型を生物の身体に限定するのではなく、鳥が作る巣のような「人工物」も延長された表現型とみなすわけです。身体の延長だというわけですね。

また、ある生態系における生物種の「居場所」のことを「ニッチ」と言いますが、ジョン・オドリン=スミーというイギリスの心理学者は、生物は環境に積極的に働きかけてそのようなニッチを自分で作っていくとして、「ニッチ構築」という概念を提唱しています。例えば、ビーバーは木を運んで水をせき止めてダムのような巣を作ります。鳥の巣、アリのコロニー、ミツバチの巣など、ものすごい人工物を動物たちも作り出します。そうやって自分の周囲の環境を変え、自分の居場所(ニッチ)を、より快適にしていくわけです。

論理的推論のようなものを持ち出さずに、ビーバーだってこれだけのものを作るわけです。これが知能と無関係とは私にはどうしても思えません。人間の論理的な部分だけを知能と呼んで、そこを機械に置き換えれば人工知能になるというのは、やっぱり違うだろうと私は思うんですね。

言語も人工物である

青山学院大学の認知科学者である鈴木宏昭さんは、言語的シンボルが人間の記憶のハードウェア的制約を大きく緩和してより柔軟な処理を可能にしたと言っています。さまざまな情報を結びつけて、そこに新しいシンボルを再帰的に生成していくという言語の性質が人間の認知の可能性を大きく広げているということです。

ここで言う「再帰的」とは、入れ子のようにどんどん概念をまとめていくということです。[コンピュータ]と[プロジェクター]は[電気機器]、[消しゴム]と[鉛筆]は[文房具]、[文房具]と[電気機器]をまとめて[道具]、……と、このように入れ子的に抽象的な概念をどんどん作っていくことができます。これはチンパンジーにはほとんどできない人間の特徴的な能力で、おそらく言語を使うことで人間はこのような再帰的な抽象化が可能になったと考えられます。

ただ、そのような抽象的な能力を持って万々歳かというとそうではなくて、言語的シンボルを獲得してそれを操作する処理系を発達させることによって、それ以前に機能していたシンボルを用いない処理系の働きが抑制される、ある部分の賢さが他の部分の賢さを犠牲にして進化発達してきた、と鈴木さんは言っているわけです。

人間が失ったものと獲得したもの

実際に空間認知の能力はチンパンジーの方が優れていると言われています。図形を逆さまにして同じ図形なのか違う図形なのかを判定させると、人間よりもチンパンジーの方がはるかに上手に判定します。また短期記憶もチンパンジーが優れています。おそらく人間はそのあたりの能力を犠牲にしてシンボル処理を獲得したんだろうと言われています。ニコラス・ハンフリーというイギリスの心理学者が『喪失と獲得』の中でいくつか例を挙げていますので、興味のある方はぜひこれを読んでください。

今後AIやロボットという人工物が世の中にあふれてきて、人間の認知や思考にどのような影響を与えるのか、これはいまから研究していかなくてはなりません。もしかしたら、言語を使うことによって空間認知能力が衰えたように、人間に大きな影響を与えるかもしれません。

ロボットをサルに置き換えてみると

最後にサルと人間の関係を考えます。1970年代に環境問題が盛り上がったとき、ガルフ石油というアメリカの大手石油会社が環境破壊や大気汚染をしていると大きな批判を受けました。その時にガルフ石油が打ったキャンペーンが人とチンパンジーが手をつないだこのイメージです。

“Understanding is everything”、私たちは自然を破壊することを目的にやっているのではない、人類の幸福のため、地球の環境の維持のために私たちは活動していると。チンパンジーと人が触れあって、指先でも握手でもなく手首が繋がっている。このことに何か意味があるのか分からないですが、人が自然を理解する、繋がっているというときにこのようなメッセージが使われるんですね。

では相手が自然やチンパンジーではなく、ロボット、AIならどうなるのか。キリスト教的な自然観と東洋的な自然観が異なるとすると、サルと人が一緒に写っているときの写り方にも違いがあるのではないかということが予想されます。

これは山極寿一さん、京都大学の総長でゴリラの研究者ですが、ゴリラと向き合うのではなくて向こう側にいて一緒にこっちを見ています。

この方は三戸サツエさん、宮崎県の幸島の対岸に住んでいた方で、サルの餌付けや個体識別で記録を取る仕事をして、京都大学が幸島に霊長類研究所を作るときに研究員として就職された方ですが、完全にサルの群れの仲に入ってこっちを見ています。

これは京都大学の松沢哲郎さんという心理学者です。チンパンジーのアイちゃんと行った人工言語の研究とかご存知の方も多いと思いますが、チンパンジーの側にいて、向こうからチンパンジーと一緒にこちらを向いています。

どうも日本人はサルを私たちの仲間として扱う傾向が見られるのではないか。同じように仲間として技術や人工物を扱うときに、これがひとつのキーワードになるんじゃないかなと思うのが「テクノ・アニミズム」という考え方です。技術や機械に対してアニミズム的な、生き物的な感覚で日本人は捉えているのではないかということです。

テクノ・アニミズムとは

テクノ・アニミズムというのはカリフォルニア大学の人類学者であるアン・アリスンが言い出した言葉ですが、彼女は日本のアニメや漫画やゲームなどのポップカルチャーを分析して、そこに出てくる技術が生命的な要素を伴って描かれていることに気づいた。それを「テクノ・アニミズム」と名付けました。

鉄腕アトムのパトカーが犬の頭だったり、ロボットの形がイルカのようだったり、ポケモンを考えていただくと分かりやすいと思いますが、これは神道とか仏教の影響を受けていて、それがアニメやゲームに反映されている、ということを言っています。

2008年に出たある論文では、アメリカ人と日本人でロボットに対する好き嫌いを聞いたところ、アメリカ人の方がロボットを嫌う度合いが強く、日本人の方がロボット好きだという結果が出ましたが、反応するまでにかかった時間を測ってみると、差が無いという結果になっています。この反応時間は無意識レベルでの状態を反映していると論文の著者は解釈しています。

つまり、日本はロボットと仲良しの国だというイメージを私たちは共有しているので、ロボットの絵を見て回答するときにもそのイメージが影響して答えているかもしれない。しかし生理的なレベル、本能的なレベルでは、アメリカ人も日本人も差は無いかもしれないという興味深い研究です。このようにロボットに対する東西の比較をした研究はいくつかあるのですが、東洋の中での比較は無いので、日韓の比較を今後やりたいなと思っています。

そして、テクノ・アニミズムに対して批判しつつ検討すること。テクノ・アニミズムと言っている研究者はたくさんいるのですが、すぐに神道や仏教と安直に結びつけがちですし、日本以外にもアニミズムの事例はたくさんあります。このあたりはもっと厳密に検討する必要があると思っています。また身体性についても、西洋の哲学者にも身体的な感覚を重要視する哲学者はたくさんいます。人間を自然の一部として捉えることも東洋に限ったことではなく、ガイア仮説という地球全体をひとつの大きなシステムとして捉える見方がヨーロッパでも生まれています。なので、日本と他の国の比較も、より体系的に進める必要があると考えています。

問答 MON-DO

問1)アニミズムとは自然界の中に精霊が存在していることだと思いますが、それがテクノ・アニミズムになった瞬間にモヤモヤを感じました。テクノ・アニミズムという言葉はどうやって生まれてきたのか、もう一度ご説明いただけるとありがたいです。

答)テクノ・アニミズムという用語自体はアン・アリソンというアメリカの人類学者が日本のアニメとかゲームを分析する中で用いた言葉なんですね。おもしろいと思いつつ、私もそれが本当に概念として的を射ているのか気になっているところなので、もう少し分析する必要があると思っています。

京都大学の霊長類研究所では「サルの慰霊祭」というのを毎年やっているんですよ。実験で殺したサルの霊を弔う慰霊祭です。京都大学に限らず、日本では医学系の研究所などどこでも実験で殺した動物の慰霊祭をやっているんですね。しかしアメリカの研究者がやってきてこれを見てびっくり仰天して「なんのためにこんなことをするんですか? アメリカではこんなこと見たことも聞いたこともない」と言うんです。僕らは特別なことだと思わずに普通にやっていたことなのですが。日本には昔から人形供養や針供養などがありますよね。

人形は人工物と生き物の境目にあると思うので分かりやすいのですが、現代ではカメラに名前をつけたりパソコンに名前をつけたりしますよね。自分に親しい道具に生き物の名前を付けるのは日本人だけではありません。実際にパソコンに愛称を付けている人とそうでない人で作業効率を比べると、愛称を付けている人の方がパフォーマンスが良かったという実験結果もありますが、これは日本だけではなくどこでもあって、それがかなり強い形で文化の中に出ているのが日本の特徴じゃないかということをアン・アリソンも言っています。ですので、日本だけの現象でもないし、ひょっとしたら量的な違いなのかもしれないなと思います。

問2)産業革命以降の2〜300年で急速に社会のあり方が変わって、1万年単位で適応してきた身体や心のあり方が急激な変化でバランスを取れなかったりどこかで齟齬が起こったりしているのではないかと思います。そしていまAIによる革命が起こっていると言われる状況の中で私たちはどのようにバランスを取っていけばいいのか、先生の考えをお聞きしたいです。

答)私もそこが最も気になるところです。進化というのは非常に時間がかかるもので、人間の身体や心はざっくり言うと1万年くらい前の環境に適応していると言われています。1万年前といえば旧石器時代で農耕がちょっと始まったくらい、まだ洞窟に住んでいる人もいたし、社会もせいぜい100人〜150人くらいの規模で、衣服は着ていたかもしれませんが、たまにマンモスを狩りをしたり、そういう生活に私たちは生き物として適応しているわけですね。

現代のこのような状況を「自転車で高速道路を走っているようなもの」だとよく比喩しますが、私たちの身体としては、ハードウェアは自転車だけど周りの環境が変わってしまって高速道路を走っているようなものだというわけです。危なっかしくてしょうがないけど、止まるわけにもいかないし降りるわけにもいかないし、なんとかやっていかないといけない、そういう状況です。そのときに「不自然だから昔に戻ろうよ」という人がいるのですが、僕は無理だと思うんですよ。戻って旧石器時代になってもハッピーになる人は絶対にいないわけです。

高速道路を自転車で走っている状況自体は変えることはできないけど、ひざ当てをしたりヘルメットをしたり、なんだかんだやっていくしかないんだと思います。そのためには、私たちの進化の過程と生き物としての特徴をもう少し考えなければなりません。今まではそこがあまりにもないがしろにされていましたが、ようやく最近になって行動経済学進化心理学のような学問分野が出てきて、人間はいつも合理的に考えるものではないということが前提になってきています。そういう状況の変化が起きてきているので、生き物としての人の特性を考慮した経済的な仕組みや政治の仕組み、社会のあり方をこれから試行錯誤していかなければならないし、作られていくんだと思うんです。

その時にAIやロボットが入ってくることによって、生き物としての人の特性を踏まえて新しい社会の仕組みに馴染むようにしていくのか、逆にそうではない方向に行くのか、それは使い方次第だと思います。AIという技術がいい悪いではなく、それをどう使うか、そこにいろんな知恵をみんなが集めて、我々自身が考えていくしかないと個人的には思っています。

問3)AIの定義についてお伺いしたいと思います。2つ仮説があって、1つは技術の使い方を決めるのはイノベーターではアーリーアダプターだと先生はおっしゃいましたが、AIはまだイノベーターの時期なのではないか、というのがひとつ目。もうひとつは、AIは人工物ではなくて人工物ではない新しい存在であって、だからよく分からないんじゃないか、ということ。先生ご自身はどのように定義されていますか?

答)いわゆるAIの研究者は「私は機械学習の研究者です」という言い方をよくするんですね。「AIの研究者」とはあまり自称しない。それは、AIとか人工知能と言うと「あれもできますか? これもできますか?」みたいに、AIは何でもできると思われてしまって、イメージが先行してしまっている。だから機械学習の研究者はまじめな人であればあるほど、AIと言いたがらなくなっているという現象があります。

機械学習というのは、私の理解しているところでは、ある条件の下で最適解を見つけるときに、昔はものすごく複雑な条件やデータがたくさんあると、計算機が非力だったので処理できなかったことが、最近はコンピュータの計算力が上がったのでできるようになった。機械の学習能力がものすごく高くなったので、データが膨大でも、条件をよく定義できないところでも、機械が自分で定義することができるようになった。実際に機械学習によって出される解がどのように導き出されたかというプロセスを研究者がよく分からないんです。最初だけ設定して、あとはガーッと機械に学習させて、その中身はブラックボックスになっているので危ないんじゃないかという話もあります。

ただいずれにせよ、計算自体の目的や初期設定は人が書いているんですよ。例えば囲碁で人間はAIに敵わなくなりましたが、囲碁はどんなに複雑に見えても有限の空間とルールの中で最適解が決まっているものですから、そのような分野はAIが得意なわけですね。逆に、開かれた環境の中でひらめきを生み出せるのは人間しかいない。例えば自動運転でいちばん問題なのは、周りの状況に合わせて柔軟に対応していくことです。制限時速50キロの道路を50キロきっちりで走っていると交通渋滞を引き起こしたり危なかったりするわけです。

高速道路に合流するレーンは、合流する直前までは40キロとか60キロとか制限速度ですが、高速道路に入ったとたんに最低80キロになって矛盾が生じる。でも人間は誰もそんなこと気にせず、制限速度を守らない形で高速道路に合流して法律違反をしているわけですが、法律で書かれていることと習慣で行われていることにギャップがあるんですよ。その曖昧な部分を学習するというのが非常に難しいんだと思います。

かといって、最初から法律を破ることを機械に許していいのか、ということになるんですね。法律を破ることに関しても、一般道で速度を15キロオーバーくらいまではギリギリだけど、30キロオーバーしたら多分危ない、という相場観のようなものを私たちは知っていますが、それを機械に学習させるのは非常に難しい。そのような、社会的に何となくみんなが共有しているような暗黙知や直感的なもの、美的なものがAIは得意ではないし、いずれにせよ目的自体をAI自身が作り出すことは今の技術ではできないわけですね。

一般の人がAIや人工知能という言葉をイメージするとき、人工知能と言った方が少しカッチリしていて、AIと言うともっとSF的なイメージを持つんじゃないかなと思うんです。このように、「AIってなんですか?」と聞かれたときに、そこに学術的な定義は無いわけです。専門家は「AI」の研究はしていない。一般の人がAIというものからどのようなイメージを想起するのかをもっと調査をする必要があるんだと思いますが、そこは人によってバラバラかもしれないですね。

問4)あらためて「進化」とは何なのでしょうか? 人間と機械が融合することを「進化」と呼んでいいものでしょうか?

答)進化というのは二つの意味があって、生物学で言う進化というものは良し悪しは関係ないんです。ある環境に適応して変わることが進化で、例えば深海の洞窟に住んでいる魚は目が無くなるんですね、太陽の光が射さないので目が要らないから。目を作るより他の器官に資源や栄養を振り向けた方が効率がいいですから。目が無くなるというのは私たちの感覚では退化だと思うんですが、生物学的には立派な進化で、退化というのが生物学的には進化なんですね。進化と退化は区別が無い、全部進化なわけです。

生物学的には、機械と融合しようが能力に変化があろうが、それによって人間の脳の一部が無くなろうが、それは進化です。しかし社会的に文化的に私たちが進化と言ったときに、その言葉には良い方向に行くとか、強くなるとか、良くなるという意味が込められている。進化が常に人間にとって幸せかというのは、私は分からなくて技術者が決めることではないと思うんです。最終的には人間社会が何を良しとするかによります。能登半島の奥の方に携帯が繋がらない宿があって人気があるらしいのですが、個人の判断でそれが進化なのかどうかを選択するということも出てくるかもしれませんね。

ところで私は7月に人間ドックを受けて「太りすぎです」と言われて、レコーディングダイエットを10年ぶりにやっていますがなかなか下がらないんです。もともと人間は甘いものや脂っこいものが好きなんですよ。これは生物学上の人間の進化を考えると当たり前のことであって、1万年前までは果物をたくさん食べたり獣の肉たくさん食べたりできなかったので、食べられるときにたくさん食べて皮下脂肪に貯えられるように人間の体はできているわけです。これは過酷な環境を生きるためにはまさに進化的です。しかし現代ではお金を出せば何でも好きなだけ食べられる世の中になってしまった、その結果として食べ過ぎで太るようになったんです。

だから進化の結果、人間が持っている特徴を今の環境に当てはめていくと、必ずしも幸せなことにはならないこともあります。しかし多くの人は自分でそのことに気が付いて、ジムに行ったり体重をコントロールしたりするわけです。それと同じように機械やAIとの付き合い方も、能登の宿に行ってオフラインになってみるとか、そういうことが大事になってくるんじゃないかと思います。

問5)新しいテクノロジーや人工物ができたとき、なぜ人間は恐怖を抱くのか? その恐怖の根源は何でしょうか? 

答)根源的かつ難しい質問ですが、ひとつは人間には好奇心があって変化を喜ぶ反面、変化をすごく恐れることが生得的にあると思います。さきほどニホンザルのイモ洗いの話をしましたが、いわゆるボスザルは死ぬまでこの行動をしなかったんです。イモ洗いはまず子どもから始まって、次に雌がマスターして、次に若い雄へと広まっていったのですが、ボスザルだけは最後までやらなかった。だから、群れ社会の中心にいる高齢の雄というのは極めて頑固で保守的であるというのが、ヒトも含めたあらゆる霊長類共通の特性なのではないでしょうか。

高齢者がスマホを使えなくて困る、みたいなことがあるかもしれませんが、考えてみるとこんなにしょっちゅう技術が変わるのは人類の進化の中でごくごく最近のことなんですね。石器を見ると何万年もの間、同じようなスタイルの石器をずっと作り続けています。現代の方が極めて異常な事態で、本当は親から受け継いだものをそのまま何も変えずに子どもに伝えていくということもできたのかもしれません。ボスザルが保守的だと言うのも、要するに保守的というのは現状維持ということで、食うや食わずで生きてきた過去と比べて現代は充分豊かですし、現状維持でいいのかもしれない。賭けに出て全滅するよりは現状維持を取った方がいいということも言えます。

だいたい若者の方が好奇心旺盛なので、新しいものにすぐ飛びつきたがるものです。例えば縄文時代、村の若者が「向こうの方にもっと水場のいいところがあるって聞いたので移動しませんか?」と村長に提案したとします。しかし村長としてはすぐにそれを受け入れるわけにはいかない。「群れには子供もいるし老人もいるから、おまえが行きたいなら行け、向こうが本当によかったら10年後に戻って来て教えてくれ」と言うのが村長の役目だと思うんです。種としてはその方がはるかに適応的ですから。

もし村長が若者にほいほいついて行って、10回に1回は当たりがあるかもしれませんが、10回に5、6回は全滅するわけです。だから保守的で変えない、現状維持というのが一番賭け金の戻ってくる確率が高かった時代が何百万年続いてきたのですが、本当にここ数十年で「変わらなきゃダメだ!」みたいな話になっていて、それに適応するのはつらいという人がいるのも分かります。やはり人間という種としても本能的に変化を恐れる部分はあるんじゃないかと思います。

やはり変化に対する不安感が一番大きいと思うんです。変わることによって今まで慣れていない状況になったとき、自分にとって良いことだと実感できないと反発するんですね。そういう事例はたくさんあって、例えば、昔イギリスで消しゴム付き鉛筆が発明されたときに大論争になったそうです。子どもにこれを使わせると「間違えてもすぐ消せるから字をちゃんと書かなくなる」と、しばらく小学校で禁止になっていたんです。同じように新しい技術を忌避するのは今も日本にもありますし、日本だけの話でもありません。「これがいいんだよ」と納得できるかが大事なのだと思います。

Next Wisdom Foundation

地球を思い、自然を尊び、歴史に学ぼう。

知的で、文化的で、持続的で、
誰もが尊敬され、
誰もが相手を慈しむ世界を生もう。

全ての人にチャンスを生み、
共に喜び、共に発展しよう。

私たちは、そんな未来を創るために、
様々な分野の叡智を編纂し
これからの人々のために
残していこうと思う。

より良い未来を創造するために、
世界中の叡智を編纂する
NEXT WISDOM FOUNDATION

記事を検索