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Next Wisdom Foundationは、AI時代だからこそきちんと考えたい『人間らしさ』をテーマにイベントを開催。毎年恒例のケイザイ祭、今年はこの『AI時代の人間らしさ』に『経済』を掛け合わせ、利己と利他と経済の関係に迫っていきました。
Part1は、大阪大学名誉教授の筒井義郎氏が登壇。行動経済学会の会長、日本金融学会の会長を歴任し、日本の行動経済学を牽引されてきた筒井氏が、経済合理性と利他の関係について考えます。後半はモデレーターとして、クリエイティブとビジネスを越境するビジネスデザイナー・Takramの佐々木康裕氏にご登壇いただきました。
<プロフィール>
筒井義郎さん 甲南大学経済学部特任教授、大阪大学名誉教授
甲南大学経済学部特任教授。大阪大学大学院中退、博士(経済学)、名古屋市立大学経済学部助教授、大阪大学大学院経済学研究科教授、などを経て現職。大阪大学名誉教授。行動経済学会会長、日本金融学会会長を歴任。著書に、『金融市場と銀行業』(東洋経済新報社)、『金融』(東洋経済新報社)、『金融業における競争と効率性』(東洋経済新報社)、『日本の株価』(東洋経済新報社)など。
モデレーター:佐々木康裕さん | Takram ディレクター
クリエイティブとビジネスを越境するビジネスデザイナー。エクスペリエンス起点のクリエイティブ戦略、事業コンセプト立案を得意とする。DTC含むニューリテール、家電、自動車、食品、医療など幅広い業界でコンサルティングプロジェクトを手がける。ベンチャーキャピタルMiraiseの投資家メンター、グロービス経営大学院の客員講師(デザイン経営)も務める。ビジネス×カルチャーのメディア「Lobsterr」の共同創業者。 Takram参画以前は、総合商社でベンチャー企業との事業立ち上げ等に従事。経済産業省では、Big DataやIoT等に関するイノベーション政策の立案を担当。 早稲田大学政治経済学部卒業。イリノイ工科大学Institute of Design修士課程(Master of Design Method)修了。
「利己的」とは「自由」のことだった
筒井:今回は経済というより経済学のお話をしようと思っています。現代の経済学の定義をひと言で表すと「人々は自分の満足度あるいは幸福度を最大にするように行動する、という見方で分析する」というものです。重要なのは「人々は対等で自由だ」ということを前提にしていて、その結論は「社会は素晴らしい」。それが経済学なんですね。アダム・スミスから始まって、1959年には数学でそういう体系が証明されました。それは「人々は完全に自分のことしか考えない状態であっても大丈夫」ということです。
なぜそうなったのか、ポイントは経済学の歴史性にあります。現在の特徴は市民社会であって、民主主義であって、市場主義がある。それが成立するという理論的バックボーンが経済学ですが、市民社会以前は違っていました。利他性や社会規範というものは、社会ではなく王様に奉仕し忠誠を尽くすことでした。そうではないのが利己的という意味でした。では、自由とは何か。それは王様の決めたことに従わなくても、自分がいいと思うことに従って行動することです。
つまり、王様や貴族ではない普通の市民でも素晴らしい社会は作れますよ、ということ。今だったら当たり前に思うかもしれませんが、当時ではとても信じられないようなことを主張したのが経済学でした。ですから、現在使われている「利己的」という言葉を「社会に奉仕しなくてもいい」という意味として捉えるのは、若干ミスリーディングです。
つまり、もともと経済学が前提としている社会は「三方よし」と矛盾する訳ではない。「三方よし」を経済学で考えると、まず長期的な利益を追求する企業は、結果的に成功するということ。例えば江戸時代。最近の経済史の研究者は、江戸時代の初期、武士ではなく普通の市民にも「家制度」があって、その家がいわゆる企業として存続することで、江戸時代の経済が発展していったと考えている。「家制度」ができる前は、市民が店を出しても、その人が死んだら店は無くなってしまうし、途中で逃げてしまうかもしれないし、長期的な取引をする地盤がそもそもなかったんですね。
もう一つ、企業が社会にとって役立つことも必要です。しかしそれはどういう意味なのか。歴史的に見ると、宗教や哲学、そして国家は「徳」のような言葉を使って「こういう人は立派だ、こういう企業は立派だ」という標語を掲げ、多くの人に「徳」が社会にとって有益だと思わせておいて、実は社会の一部の支配層のためにある、というような使い方をしていた過去があります。ですから「徳」のような概念を使って「みんなで立派な人になりましょう」という目標もすごく立てにくくなっています。
人間は頭が悪いし、時々間違いも起こすもの
利他性とは何か。経済学で言うと「他人が幸福になることが自分も嬉しい」。すごくストレートな定義なんですね。しかしそういうことが経済学として本当に成り立つのか。最近の経済実験では人間には利他性があるらしいという結果が出てきていますが、厳密には難しい問題です。経済学者は「利己的である」という前提でモデルを作ることが多いので、どちらかというと利己的であってほしいんです。利他的であると言うためには、利他的なモデルを作って証明しないと嘘だということになるのですが、それはなかなかできません。
もう一つは互酬性です。「相手に親切にすれば、相手も親切を返してくれる」これが互酬性です。では、自分が親切にするとなぜ相手が親切を返してくれるのか? その理由はよく分からないんですが、ともかくそれを信じること。そして相手に親切にしてあげると結局は自分のためになりますから、互酬性は完全に利己的であるとも言えます。このことに関して国際的な比較が行われていまして、ネガティブな互酬性、つまり社会的に悪いことをしたら自分が損をしてでも罰するという点について、日本人はすごく強いんです。要するに「社会規範を脱するような人を厳しく罰する」という部分が日本では強い。
「三方よし経済」が経済学でどう評価されるかというと、厳密にいうと結構難しい。顧客関係が重要な場合、「三方よし」社会では顧客が品質や価格の安定したものを得ることができるメリットがある。その一方のデメリットとして、経済は安定的だけど、革新やイノベーションのようなものは起こりにくいかもしれないし、成長も緩やかになり社会が保守的で沈滞する可能性がある。その逆の社会、短期的な利益追求や欲求ばかりでもすごく大変です。顧客がモノを買っても品質が保証されるか分からない。問題はいろいろありますが、このような話は経済学でだいたい説明ができるわけですね。
経済学の始まりは先ほどもお話ししましたが、市民社会の行動原理であり、統治者と被統治者という関係ではなく、自由と個人の幸福を追求することで社会も幸福になる、というとてもハッピーな考え方です。歴史的には1930年頃に(ミクロ)経済学ができましたが、その時点でマクロ経済学は未完成だった。マクロ経済学は当時のミクロ経済学のアナロジーで作られたので「市民社会は素晴らしい、決して問題は起きない」という前提に立ったものでした。
ところが1926年に大恐慌が起きて、なぜ市民社会でこのようなことが起きるのかを説明する理論が必要になってきた。つまり、みんなが幸福を追求し対等に経済活動をすれば社会は良くなるはずなのに、必ずしもそうならないことが分かった。これは極端に言えば「王様の世界に戻ったほうがいい」という話になりかねないわけです。
その問題に挑戦しているのが行動経済学なんです。行動経済学は一つの試みで、今までの経済学は「みんなが合理的で頭がいい」ということを前提としているからうまくいかないんです。「実は人間は結構頭が悪いし、時々間違いも起こす」いうことを経済学に組み込んだら、マクロ経済学が抱える問題について説明できるのではいか。「みんなは幸福を追求するけども、あまり頭が良くないので結局うまくいかない」そんな話が行動経済学の大まかな考え方です。
ところが、これが非常に厄介でして、つまり経済学の最初の出発点が否定されるんです。我々が思っている自由な世界というものは実は機能しないんじゃないかと。例えば「現在の幸福を重視しすぎて将来のことを考えない」というバイアスが出てくるんですね。若い時に遊んでしまって老後の貯蓄がなくなると困るので年金制度ができた。これは強制的にみんなに加入させます。でもこれは経済学の元々の概念からすると、自由とは言えないし、必要ないわけですね。
ただ、行動経済学者も経済学者ですから、強制するというのはどうもまずい。ということで、いま有名な「ナッジ理論」が出てきたわけですね。「ナッジ(Nudge、ヒジでそっと突く)」というのは、強制せずにきっかけを与えて促すだけ。だから個人の自由も守れる。でも私の考えでは、これは妥協案で本質的な問題解決になっていないんじゃないか、という感じもします。
幸福と自由は矛盾する
もう一つの大きな問題は「民主主義」です。民主主義はすごい制度で、一人一票の完全平等です。ただ大きな問題は、民主主義という理想だけ先頭を走っていて、社会全体が取り残されているわけです。民主主義とは言いながら、所得による階層社会が現実なんですね。そして間接民主主義がとられている一つの大きな理由は、端的に言うと「国民みんなバカだから、自分たちで決めても社会が不公平になる。だからみんなで賢い人を選んでその人たちに決めてもらったほうが社会にとって良い」いう考え方です。しかし、一人一票でなくなると「独裁」というすごく悲惨な状況になります。
一方で民主主義、市場経済にとっての課題は、ものすごい金持ちが出てくると民主主義社会が崩壊するということ。自由で対等な人々がつくる社会というのが民主主義の大前提ですが、それが壊れてします。極端な所得格差をなんとかして止める、というのが今の社会を守るための最大の問題になっています。
では社会の目的として何を認めるか。だいたい考えられているのは、「幸福」「自由」「平等」「高潔さ」の4つです。その中で「幸福」と「自由」については、経済学からきた考え方で広く認められています。しかし「平等」と「高潔さ」については、私にはよくわからない。そこを説明するために「徳」という概念が歴史的に非常によく使われていますが、「みんなのため」という標語を社会全体に押し付けるのはちょっと危ないかもしれない。政府が道徳の教育をすると問題が起きてしまうように。
そもそもノーベル賞をもらうような優秀な経済学者というのは「経済学原理主義」が多いんですね。彼らは本来の経済学の考え方で動いています。幸福度と自由度が経済学で重要だという考え方ですが、この二つは矛盾することが多々あります。資本主義社会では必ず大金持ちが出てきます。しかしそれはまずいから大金持ちからお金を取って貧乏人にばらまいてしまう。これはある意味で自由を阻害しているわけです。しかし社会全体では幸福になるかもしれない。だから二つは衝突してしまうんです。
経済学はどうやってこの矛盾を避けてきたかというと、我々の幸福度は足し算できないという事実を取り出したわけです。「あなたはどのくらい幸福ですか?」と聞いて、「私はこのくらいです」「じゃあ足しましょう」と言っても、相手が何を考えているか、どう感じているかは原理的に知り得ない。痛みも一緒で、他人がどれだけ痛いか、自分にとってどのくらいなのかは絶対に分からないし、比較もできません。
結局、幸福度の総和は計算できないから、金持ちから金を取ってきて貧乏人に渡すことが社会的に良いことかどうかもわからない。だから、幸福度の最大化と自由度の問題が衝突するということになります。その事から、経済学が目指している理想は何かというと「無駄のない効率的な社会をつくること」、これが正しい答えです。だから、今までの経済学では所得分配については何も言わない、言えない立場になっている。そこで、最近作られてきている「幸福の経済学」がこの問題に挑戦しているわけです。
対談:日本人は本当に平等を求めているのか?
佐々木:私も大学時代に経済学を勉強していました。1970年代に、アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンが「新自由主義」を唱え出します。企業というのは株主価値の最大化が唯一無二のミッションであり、他のことはプライオリティを下げてもいいよ、というものです。以降アメリカ経済は成長して、オイルショックやバブルもあったけれども、2008年に成長の限界を迎えて、それから社会の潮目が変わったなと思っています。
2015~2016年くらいから、ESGやSDGsという考え方が出てきて、今年8月には「ビジネスラウンドテーブル」という、日本の経済同友会のような、アメリカの有名な経済団体が「株主至上主義をやめます」と宣言しました。その中にはモルガン・スタンレーなどもいて「我々は株主だけではなくて、従業員の幸せや社会の幸せにもプライオリティを持ってやっていきます」という方向に変わったんです。
1970年代から見たときのこの変化はものすごく大きいと思います。2008年にバブルが崩壊して、2019年のこのような状況は経済学者の方にはどのように映っているのかお伺いしたいです。
筒井:経済学者でも、なかなか現実についていけないところがあります。正直に申し上げて、最近の動きについてはあまり分からないというのが答えなんです。私の研究の視点から言いますと、経済学において幸福と自由が非常に大きな対立軸であったのですが、今の佐々木さんのお話で言われているのは、それ以上のものがあるわけですね。見方によっては幸福の中に入るわけですけども、要するに長期的な幸福にみたいなことを考える。我々の幸福だけではなくて、人類、我々が死んだ後の人たちも幸福も入っている。それから、地球の幸福も入っている。
今の経済学で考えているのは、まだ「自分の幸福」の話が中心で、その範囲からあまり出ていません。ですから、社会的な問題や現実に追いつかないというところが基本的にあります。では「経済学者は何をしているのか?」と言われるかもしれないですが、厳然たる事実として、我々は「自分の幸福以外のもの、地球の将来や次の世代、そういったものを本当に考えるんですか?」というのが、経済学者からの反論です。
例えば、私はいま平等に関する論文を考えています。我々がどれくらい「平等」というものを好きか? という内容でアンケートをしていますが、まず「あなたの周りの人々の所得はいくらぐらいだと思いますか?」という質問をする。その答えとその人自身の所得を比べることによって、自分が周りの社会よりも豊かなのか貧しいのかが、一応本人は分かっていることになります。その上で、その人の幸福度を尋ねているわけです。これを分析すると「人よりもお金持ちだと思っていることによって、幸福になるのか不幸になるのか」ということが分かる。
それを実際に調べてみると、多くの日本人は「自分がお金持ちになっている」ことで幸福になります。つまり「平等なんて実はクソ食らえ」なんです。もちろん貧しい人は平等にしたいんですけど、お金持ちの人は平等にしたいなんて全然思ってないわけです。ところがアメリカで調べると、お金持ちの人はその分だけ不幸になっています。つまり「アメリカ人は平等を求めている」ということになるんです。
その原因は宗教なんですね。アメリカ人の中で、宗教を強く信じている人はまさにその傾向にある。宗教を信じていない人は、日本人と似ています。あまり関心がない。僕たちが一体何を求めているのかをまず考えなければ「今の社会がこういう方向に動いていますね」と言っても、僕たちは本当にその変化を願っているのかどうかわからないんです。
佐々木:人間は幸福を追い求めるものですが、人は何によって幸福になるのかは社会環境や国によって変わるんですね。ある人は「お金持ちになりたい」と言うかもしれないけど、お金持ちになっても逆に不幸になる、そういう社会がある。すごく面白いと思いました。
筒井:そのことに関して私の個人的な気持ちとしては、どうも最近おかしいなと思います。何がおかしいかというと、みんな「消費」ばかりです。自分が周りの人たちよりも相対的に「消費が多い」あるいは「地位が高い」ということで「自分が幸福だ」と考えている。特に、消費がすごく効いている。それは昔の世界にはなかったと思うんです。
これは資本主義社会の特徴で、例えば社会主義の時代のソ連にはありませんでした。社会主義が崩壊して「これから自由だ、これから自由に物が買える」といって結局行き着いた先は、アメリカと同じような堕落した消費社会だったと、旧ソ連の人たちが書いていました。これは社会の悲劇だと私は思います。「消費錯覚社会」で日本やアメリカは本当の幸福を見失っているんじゃないか。
佐々木:「行動経済学」という学問分野が盛り上がってきたのは、ここ20年くらいだと思うんですが、それまでの経済学には限界というのがあった。行動経済学という学問は、心理学と経済学が交わったようなものだと思うんですが、2019年の今、既存の経済学がちょっと限界を迎えている中で、さらに新しいタイプの経済学はどのように出てきていますか?
筒井:日本人はアメリカ人ではないですよね。自由だ、幸福だと言ってはいますが、僕が見るところでは、日本人は自由に関心がない。自由に関心があるのはアメリカ人です。日本人は個人の自由よりもむしろ「みんなで楽しくやりたい」と思っている人が多い。だから、アメリカ人を前提として作られた経済学とはそもそも目的が違うので、日本でそれを使うのは限界がある。日本人が何を求めているのか、そこに合致するような経済学にしないといけない。そのために、日本人とアメリカ人がどう違うのかをもう少し研究しなければいけないんです。
企業は株主の利益を追求していると言うけれども、そもそもそれが最大の問題です。だから大金持ちが生まれる。何が重要なのかというと、経済でお金が出てくるのはどこかというと「剰余価値」です。つまり、みんながいろいろな経費を落とした後の儲け、利潤です。利潤が誰のものになるのか、そこが問題です。利潤が大金持ちを生むわけです。
そして重要なのは「自分は大金持ちになるんだ」といろんな起業家が企業を作って、大抵1,000人いると999人は失敗して、1人だけ成功して大金持ちになるわけです。それによって経済はどんどん良くなっている、生産も良くなる。そして、そのメカニズムを壊してしまうと成長が止まる可能性があるんです。けれども、それは剰余価値を1人が手にする形になるので格差が生まれ、社会全体の幸福に反する。そういうジレンマがあります。これをどうやって乗り越えていくか。それが一番大きな問題だと思います。
これからの経済を考えると
佐々木:この財団は、数十年後というレベルではなく、100年後を見据えて考えていこう財団です。筒井さんは100年後の経済や世の中の仕組みがどういう風になっていると望ましいとお考えでしょうか? 筒井さんが考えるグランドビジョンをご共有いただければありがたいです。
筒井:いま言いました矛盾が自分では解けていないもので、いい社会になりうるのかどうか……。それを乗り越えるためのいい方法が見つかれば、すごくバラ色の社会になると思います。昔マルクスが言った「共産主義社会」というのは、それを考えているわけですね。
いまAIによって多くの人間が失業するんじゃないか、という話があります。なぜそのような不安が生まれるのかというと、僕たちが生産手段を持っていないからです。生産手段を持っていれば、失業は絶対にあり得ない。それを考えたのが、マルクスなんです。だからその意味ではマルクスはものすごく正しかった。しかしその一方で、大金持ちになるというインセンティブが全くなくなります。
イントロダクションの話にあったように、人類の歴史を見ると、みんな「自分が偉くなりたい、人を支配したい」と必死に戦って社会を発展させてきたんですね。そのインセンティブがなくなる。全く競争がなくなると、昔のソ連のような生産性が伸びない社会になる。そこをどうするのか? その中間を採るようなことで、何か新たな可能性が生まれるかもしれません。
佐々木:そのあたりのお話は、イントロダクションの竹村さんのお話と掛け合わせがあるとすごく面白いと思いますね。経済活動は国家を中心に行われていた、それが企業に移っていき、個人に移っていったという流れがある中で、その矛盾を解決するヒントが、もしかしたらその辺にあるのかもしれないな、と思いました。
筒井:私は最近ようやく「これから社会がどうなるのか、どうしたらいいのか」ということに関心を持つようになってきました。今までは「経済学のプロ」として活動してきましたが、現在の社会の要請に応えられるような研究を残さなければならないと感じています。今は経済のプロではなくても、いろんな社会問題や経済問題を考えて発信している方々がいる。だから今日はみなさんのような方に会えてすごく嬉しかったです。ありがとうございました。