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世界は贈与でできている 〜哲学研究者 近内悠太さんインタビュー

19世紀にポリネシアの原始的社会をフィールドワークした文化人類学者によって概念化され、近年は貨幣中心の資本主義に代わる経済システムとして注目されるようになった「贈与」。贈与経済は資本主義経済の代替になり得るのか? 贈与とはどのような考え方なのか? 2020年に3月に初の単著『世界は贈与でできている』を上梓し、話題となっている若き哲学者、近内悠太さんにお話を伺った。

〈プロフィール〉
近内悠太さん

1985年神奈川県生まれ。教育者。哲学研究者。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践している。『世界は贈与でできている―資本主義の「すきま」を埋める倫理学』がデビュー著作となる

世界と出会い直す

近内:内田樹さんが語った「贈与」という言葉を聞いたときに「これだな」って思ったんです。自分自身の経験の中でも、例えば先生や先輩や親からもらったものをお返しできず、誰かにパスするようなことがずっとありました。相手が友人だと比較的横並びのフラットな関係だから何かお礼をできたりするのですが、年長者からもらったものはそういうつもりでくれたわけではないだろうし「お礼はいいよ」と言われたらどうすればいいんだ、という思いがあったり。それを広く言えば愛だとは思うんですが、そういう自分の中に降り積もっていた経験みたいなものを「贈与」という言葉を見たときに「この言葉なのかもしれない」という気づきがありました。

今回出版した『世界は贈与でできている』という本の第1章「What Money Can’t Buy-「お金で買えないもの」の正体」や、第8章「アンサング・ヒーローが支える日常」のモチーフとなるアイデアがもともとあったんです。本が出てから「withコロナの本ですね」とか、「これからの時代を先取りしてますね」と言われるんですが、なぜこの本を書いたのかというと、非日常がやってくる前の準備としての本を出したかったからです。世界がこうなってしまったら、この本の目的としては本当は遅いんです。

3.11の時に僕は神奈川に住んでいて、ちょうど東京で出歩いているときに、地震が来たんです。電車が止まったり、帰宅難民が出たり、そのあとしばらく物流が止まったり、そういう景色を見た時「都市ってこんな簡単に壊れるものなのかよ、誰か教えてくれたらよかったのに」と思ったんです。何かがちょっとだけ止まるだけで、ここまで都市の機能って止まるんだなと思った時に、僕らの生活の薄い床の下に、地獄のような厄災、非日常、不気味なものがすぐそこにあることに気づきました。そのようなものがこっち側に浸潤してくるのを防いでくれているアンサング・ヒーロー(unsung hero、影の功労者)というような立ち位置の人がこの世界には無数にいて、彼ら一人一人の行いがそれを制御しているというんだな、というのが分かってきた。

でもその人たちに「こっちが金払って、その金を受け取っている仕事だろ、早く仕事をしろよ」と言ってしまったら、彼らの仕事のモチベーションは多分すごく削られて、厄災を避けることができなくなる。だから、そういう人たちがこの世界にいるんだ、ということを思い描くための想像力がすごく必要になるはずで、「贈与と想像力」という言葉があの本の骨格として最初にあったんです。

「僕らは世界と、そして大切な他者と出会い直すことができる」というのが、僕の言いたいことでした。例えば、親という存在は面倒くさいしウザったいと思っていたけど、実は裏で自分のことをケアしてくれたり気遣ってくれていたんだということを、あるきっかけでたまたま気づいたりということがあると思います。自分に向けて届いていたんだけど、それまで気づけていなかったものに出会い直す、気づき直すということをどうすれば引き起こすことができるのかという問いが本に通底しているモチーフです。

他者のメッセージを正しく受け取り直すということ。メッセージというのもまさに贈与で、届いていた手紙がどういうメッセージだったのかを気づき直すというのがまさに想像力。僕らはいつでも、今からでもまだ世界と出会い直せることができるということを言いたかったんです。

贈与は資本主義の隙間を埋める

Next Wisdom Foundation事務局(以下、NWF):資本主義の行き詰まりだったり、交換するものを持たない人が退場しなければいけないのが資本主義だとしたら、3.11やコロナというものを経験しながら、少しづつ資本主義に対して限界を感じている中で、贈与というものがそれを塗り替えてくれたらいいのにと思いながら読んでいました。贈与は資本主義の隙間でしかないんでしょうか?

近内:世界経済という大きなレベルになると僕はまだ論じることができないんですが、いち生活者の実感として、むしろ贈与は積極的に、隙間であるべきだと思うんです。贈与をメインの僕らの生活のシステムにすることはできないんじゃないか、もしやったとしても、多分150人だとか、それくらいの集団の規模になると思うんです。ちなみに150人というのはダンバー数、ロビン・ダンバーが言った、僕らが身近な人間を記号としての他者ではなく身内という感覚で捉えられる最大の人数が、多くて150人とか200人くらいということです。そのぐらいの小さな共同体、小さな経済圏、あるいは150人単位のものが複数つながりあっている、それくらいのレベルであったら、もしかしたら贈与を根っこに据えた経済はできるかもしれない。ただ150人の経済活動を現代の中で経済と呼べるのかという問題が多分あると思うんですよね。

既にこの世界ではロジスティックスがこれだけ発達して、コンビニに行けば24時間おにぎりが売っていて、というようなシステムが構築されてしまっています。これをゼロベースで作り変えるよりも、パッケージとしては資本主義を採用しながら、その中にいるエージェント、つまり行為者である僕たち人間たちが、システムとしては資本主義なんだけど、その中で勝手に贈り物をやらせてもらうよ、というような方向性は可能です。つまり、資本主義は贈与の邪魔をしないんですよね。共産主義は資本主義を拒否するけど、資本主義は共産的な振る舞いを否定はしない。「贈り物をしたかったら勝手にどうぞ」というような意味で、贈与する自由が許されてはいます。

ではなぜ隙間でなければならないか。贈与を論じる際に、ある程度一定の年齢に達した論者達は、例えば家族や地縁、地域共同体だったりというものの大事さを述べたりするのですが、僕自身は自分のマンションの部屋の両隣に誰が住んでいるか知りません。でもそれはそれで快適で、それを同じ地域に住んでいるだけで、地域のお祭りに参加したり、地域のコミュニティを作っていきましょうと言われても、ちょっと難しいなと思ってしまうんですよね。

わざわざ地縁じゃなくても、信頼している友人たちや仲間と、「家族ではないけど家族のようなつながり」を勝手に作ることはできる。逆に地域でつながりたい、地域の祭りとかに参加したり、地域ならではの宗教性に身を投じるのも大事だと思いますが、それは強制されるべきものではありません。だからそういったものはあくまでも「可能性」のひとつでなければなりません。もちろん、宗教的なものが介在したつながりというのは、重要な「可能性」のひとつではありますが。もしメインのシステムを贈与的なものにしてしまうと、全ての人が贈与に乗らなければならないものになってしまう。贈与というのは強制されるべきものではありません。

それこそ、社会主義が社会的実装としてはうまくいかなかったのは、贈与を強制してしまったから、という面もあるかもしれません。「道徳」ではなく「倫理」というものが贈与には必要で、贈与をシステムの基盤に全面的に置いてしまったときに、SFで描かれるようなディストピアになってしまう懸念の方が大きいのではないかと思っています。

シェアリングエコノミーは「贈与」か?

NWFシェアリングエコノミーについてはどう思いますか? 「シェア」には「善意」から始まる感じもあるんですが、いま実際に世の中に出ているサービスとしては余っている部屋や余っているものを貸したり、売ったり、交換したりという仕組みで、まだ資本主義のサービスの枠から出ていない気もします。

近内:僕はシェアリングエコノミーは全然セクシーではないと思っていて、ただのロジスティックス的な意味での最適化なんじゃないかと思っています。それがインターネットや通信技術が発展したから余剰価値とニーズのマッチングがしやすくなっただけなんじゃないかなと。ここで使われているシェアという言葉は、僕が興味あるテーマとはあまり関係ないんじゃないかなと思っています。

NWF:シェアリングエコノミーはどちらかというと、自分の生活やプライベートを無理やり資本に変えてマーケットに載せるような意味合いも強いですよね。

近内:そうです。資本主義を突き詰めることで、今まで売り物でなかったものが売り物として勝負できるようになったりするわけで、「最適化」という言葉が一番正しいような気がするんです。今まで資源が無駄遣いされていたものを、ちゃんと資源として使い倒して、適切なところに送り届けようというだけで。贈与のように「受け取ってしまったものを誰かに繋ごう」ということとはあまり関係がありません。地球という環境の中で持続可能性を実現するための、資源分配の最適化を促すテクノロジー、方法論ですと言った方が潔い感じがします。

本の中でも言った通り、本当はリターンをきっちり求める交換なのに、贈与だと偽るのが一番よろしくないんです、欺瞞なので。欺瞞を言っている本人に自覚がない。自分は贈り物のつもりでやっているんだけど、実はリターンを求めているという場合があって。シェアリングエコノミーは資本主義のど真ん中から出てきたシステムですと言った方が、みんなも参加しやすいと思います。

人間の「いじらしさ」を見つめる

NWF:ベーシックインカムと贈与の関係はいかがでしょうか?

近内:ベーシックインカムの場合は、ベーシックインカムを採用する共同体の人たちに、僕が本の中で書いたような意識や感覚を持ってもらえたらと思っています。ベーシックインカムで仮に10万円を配ったとして、当然のようにもらえるそのお金が実は当然ではないということ、そういうシステムを採用しなかった国もあるということを認識するのが重要で、その10万円が当然の権利になってしまった時には、そのありがたみが消える。そのシステムのおかげで生きられた人たちがいるし、自分もそのうちの一人かもしれないという認識が確保されないと、ベーシックインカムというのは成立するのが厳しいのかなと思います。

「働かざるもの食うべからず」という心理的な壁があるという議論も聞きます。自力だけでは生きていけない人がいること、簡単には生きていけない人たちがいるという前提を一定の人たちが共有していれば、ベーシックインカムの大切さは理解されます。僕は今のところベーシックインカムがなくても生きていけるけど、社会にとってベーシックインカムのような制度はあるべきだし、それで救われる人はいるし、極めて人間的なシステムだと認識する人たちが社会の中で一定数いれば、維持できるシステムだと思います。現実的には制度的な問題もあるのでしょうが、どちらかというとそれ以前に、僕らの認識というものがベーシックインカムに対応できていないと思うんです。

人間というものは「コスト」がかかる生き物だという認識がないまま、どんどん無駄を無くしていこうとすると、いざという時に破綻する。スラック、つまり余裕や隙間みたいなものが必要で、その思考を変えないとベーシックインカムを実装したとしても長く維持できないんじゃないかと感じます。

NWF:人間が弱いものであるという前提と、贈り物をもらった時の想像力、誰かに支えてもらっているという認識ですね。

近内:本が出た後に僕もいろいろ考えて、人間の「いじらしさ」を僕らはもっと理解すべきなんだろうなと思っています。あの本に対して、人間の理性や知性、いわば「強さ」みたいなものを信じすぎているという批判はあり得ると思います。たしかに読み直してみると「これを実装するの結構大変だけど、この著者は人間を信じているんだろうな」と自分でも少し思うんですよね。

弱いくせに頑張って生きていたり、自分が弱いからこそ誰かを傷つけたりあるいは自分を傷つけてしまったりというのを、僕は「いじらしい」と感じてしまう。それはとても人間的なものだと思っていて、それを肯定したい。人間が身体的、精神的、霊的に健全に生きていこうとするには相当の「コスト」がかかるというのもそこだと思うんです。人間のことを丈夫で確固たる存在だと多くの人が思ってしまっているけど、人間ってもっと弱々しくていじらしい、バルネラブル(傷つきやすい)な存在なんだよと。切れば簡単に血が出るような弱い存在なんだという認識があったら、ベーシックインカムというのは最低限の弱さをマネージするために必要なものだという理解がうまれる。弱さから始まる思想みたいなもの、人間のいじらしさを根本に据えた思考というものをどこまで直視して、どこまで体感して、人間っていじらしい可愛い存在だなと思えるかどうか。それが鍵になるんじゃないかなと思うんです。

寄付と贈与の違い

NWF:「助けて」という声をあげやすい社会にするためには、どのような制度やサポートが必要でしょうか? 人のいじらしさを誰も支えてくれなかったら寂しいですね。

近内:「助けて」と言える人間が自分の周りに何人かいる共同体を自分で構築することができる人たちは、ある程度コミュニケーション強者だと思うんです。けれど、コミュニケーション弱者、人とそもそも繋がるのが苦手、繋がりたくないという人であっても、いざという時に、助けたり助けられたりするような社会であるためには、やはり何らかの「宗教的なもの」が介在しないと贈与を社会の全体的なレベルでは実装できないんじゃないかなと改めて思います。マルセル・モースレヴィ・ストロースがやったような贈与研究というものは、基本的にある部族だったりアルカイックな社会において、神話的な世界像や宗教的な物語の下で、贈与というシステムがいかに回っているかを分析したものです。

日本にも「まわり地蔵」という風習があるみたいなんですよ。重さ数十キロもある仏壇を背負って隣の家まで運んで「はい持ってきました」といって、仏壇を開けるとお地蔵さんがいる。それを住民の間で定期的に回していくという風習が今でもあるらしいです。そういう風習によって自動的にコミュニケーションが立ち上がる。それは場合によっては、しがらみのような息苦しい部分でもあるのだけれど、宗教的な信憑や思いみたいなものがないと、「誰でもそこにアクセスできる贈与」の仕組みというのはちょっと厳しいかなと思っています。

僕が書いている贈与という概念はもっと偶然性に左右されるものですが、宗教というシステムはシステムだと感じさせないところがすごいのかもしれません。道徳というよりも、神と私の関係、霊的なものと私の関係の中で、私が贈与をするんだと思わせる力。それは実際は宗教というシステムとしての力なのですが、実はシステムなんだと気づかせずに本人の内側から立ち上がったと感じさせる点が、宗教の力強さだと思います。

また、寄付と贈与も微妙に異なる場合があります。寄付というものは背景に宗教感があって、例えば天国に行けるといった宗教的な見返りが得られるという期待がある。寄付や施しすることによって、巡り巡って自分のところにいいことが返ってくる。そういった心理的背景に基づいた寄付は贈与というよりも「交換」です。それは「未来」の時点での何らかの見返りや報酬を見込んでいます。ですが、逆に「私は多くのものを受け取ってしまった」という「過去」の負い目や負債感によって突き動かされた寄付であれば、それは贈与性を帯びます。すでに受け取ってしまったものに対する返礼、反対給付としての使命感に端を発する寄付であれば、それは贈与的になります。投資としての未来的な寄付なのか、返礼としての過去的な寄付なのか、それが交換か贈与かを分けるポイントです。その寄付に宿る「心性」が交換か贈与かを決定する文脈となります。「心」が介在するという点において、贈与論はコミュニケーション論でもあり、他者論でもあるわけです。

思考のインフラとしての贈与

NWF:今後、贈与のかたちは時代によって変わっていくものでしょうか?

近内:AIが出てきて、僕らのコミュニケーションが完全に別のものに置き換わったとしたら、この贈与の議論もある程度アップデートされなければいけない、あるいは通用しなくなる可能性はあると思っています。例えば、zoomを使って話し合っているときに、相手が何を考えているか、どういう感情を持っているか、それが画面を通して数値化されて表示され、それが大いなる前提として機能するというようなレベルで僕らのコミュニケーションが根本的に刷新されるとしたら、コミュニケーション論としての贈与論は当然、変更を余儀なくされます。僕たちは普段、言葉を尽くして、ノンバーバルな顔の表情も情報として受け取り、相手が何を考えているか想像しながらコミュニケーションを取ります。その前提すらAIが壊してしまうようなレベルで、僕らのコミュニケーションがで変質してしまうような事態になってしまったら、僕が言ったような贈与論、世界と出会い直すための哲学、贈与みたいなものが通用しなくなるかもしれません。

そのような大幅な変化がない限りは、結局僕らは他者と言葉を交わすし、他者と恋に落ちたり、子どもを育てたり、先輩と後輩みたいな繋がりだったりというのがあるので、そういう意味では、人間の間で起こる贈与みたいなものはそんなに変化しないと思うんです。それがうまくできる人たちがいるか、あまりうまくできない人たちがいるかの違いだと思います。

NWF:AIまでいかなくても、いまでも機械を通して人間がしてくれたことに対して「ありがとう」を感じられなくなっている気がします。それは特にわざわざ感じるものではないと自分が判断するようになっていった時、最初に「もらってしまった」という感覚は目減りしてしまいます。そうすると、人間としては幸せを感じにくくなったり、もらってしまった感が薄れてしまうわけで、それは不幸なことだと思います。

近内:逆に言うと「ただ生きるためだけにやること」の労力が減ったから、生活プラスアルファで文化的なことに時間を回せるとは思うんです。文化的なものだったり、他者との人間的な繋がりがない人にとっては、本当に無味乾燥な世界になるかもしれません。それこそベーシックインカムのようなもので生活が保障されるなら、贈与的なものである程度社会を動かすことができるのではないかと思います。

僕は、結局「社会」自体に対する関心という以上に、「人間」に対する興味の方が強いんです。だから「具体的な制度はどう設計しますか?」と聞かれたら、それは誰か得意な人が一緒に考えてくれたらいいなと思います。ただ、どんな社会であっても、どんな人間であっても、実際に社会をよくしよう、システムを作ろうとなったときに、人間と人間の間には贈与の力学や贈与の構造、呪いの部分というのがあるんだということを一定数の人が認識していれば、活動の仕方や言語ゲーム自体が微妙に変化していくと思うんです。だから、みんなの認識や思考のインフラに「贈与」を置いてみたらいかがですか?  とお誘いするのが僕の役割であったり、僕のできそうなことかなと思っています。考えるよりも行動だという意識の人が多いですが、まずは世界を適切な言葉で読み取る言葉を持つところから始めるしかありません。

世界の前提条件を炙り出すSF

NWF:本の中で、SF作家の小松左京さんの話が出てきましたが、SFを取り上げたのはなぜでしょうか?

近内:僕は小松左京が好きで、今回は引用するのを見送った短編が他にもあります。「戦争はなかった」という短編なのですが、ある日起きたら、周りのみんなが太平洋戦争があったことを知らないという異世界に飛んでしまったという短編があるんです。主人公が太平洋戦争のことを話しても、周りの人はそれを誰も知らない。歴史の教科書を見ても太平洋戦争の記述がなくなっていたり、戦艦大和のプラモデルが人気だったのに、おもちゃ屋からなくなっていたり、完全に太平洋戦争がなかったことになっていて。でも太平洋戦争がなかっただけで、他に何も世界が変わっていない、日常に何も齟齬がないんです。自分一人だけが「戦争があった」と思い込んでいるだけで、別に世界が何も変わらないならいいか、と思いかけたんだけど、それでいいわけないだろう! と思いなおすわけです。戦争がなかったのに、なぜ天皇が人間宣言したり、なぜこの国に民主主義が根付いたんだ? 戦争で死んだ多くの人の犠牲があったからだろう! と、主人公が発狂していくんです。

この話は、「戦争があったかなかったなんてどうでもいい」って思い始めている現代の僕らに対する小松左京からの問いかけなんです。「戦争でこれだけ犠牲がありました」と説明するのではなくて、エンターテイメントとして、狂っていく主人公にそれを言わせるのが、小松左京の知性です。そういう風に、僕たちがどうしても構造的に見落としてしまうものを可視化したり、僕らの世界の前提条件のようなものを炙り出すためにはSF的装置が必要なんです。何かをそもそもという根源的なレベルで考えるときに「もしもあのときこうなっていったら世界はどうなっていたか」をリアルに想像するためにSFが機能します。この世界がどういうパラメーターで変わってしまうのか、どのパラメーターが作用して今の世界があるのか、それを可視化するための思考実験だと思うんですよね。

他にもたとえば、もし人間に第六感みたいなものが当たり前のようにある世界だったら、僕らのコミュニケーションはそもそもどう変わるのか。他者の心が読めてしまう人が一人いるだけで世界のコミュニケーションは歪むわけです。僕らの思考が閉じ込められているからこういう社会になっているんだ、成立条件は暗黙のうちに実はあったんだ、ということを炙り出す。炙り出すのがSFという装置であり、SFは未来の社会設計や、人の認識にも影響を与えると思います。

人間は弱い、でも人間の理性は信頼できる

NWF:これから未来を考えていくときに、変わらなければいけないもの、変わっていくものがあり、私たちが望む変化もあれば望まない変化もあると思います。それらの変化といかに共生できるか、近内さんが思うところをコメントいただきたいです。

近内:人間の弱さやいじらしさ、人間はバルネラブルなものだということを強く認識するというところから、一緒に柔らかい共同体を作っていかなければなりません。たとえば、ネットでの誹謗中傷する人がいますが、それも人間の弱さに起因するところだと思うんですよね。ただただ快楽を求めて人を攻撃できる人ってそんなにいないと思うんです。やっぱり止むに止まれず、攻撃をしないと自分を保てなかったり、そういった環境や弱さからやってしまう。だから攻撃をしてしまった人を批判したり説教しても無理で、一定の環境に置かれた人はそういう風になってしまう。僕は主体の意図とか、意思とか、自由意志を疑っていて、ある環境に配置されたら、人はそういう振るまいに導かれてしまう、という意識のほうが強いです。それは性善説すぎると言われたらそれまでですが。

逆に言うと、人間は環境に振り回されてしまうぐらい弱い存在なんだと分かると、人間っていじらしいから、温かい場所をみんなで作らないと人間はどうしようもなくなってしまうという認識が生まれるし、人の攻撃を許せなくてその人を責めてしまうことも、それは仕方ないんですよ、人間は弱いので。そこを認識するところから議論を始めないと、いつまでたっても誰かが悪いという話になってしまいます。

人間の脳は器質的には7万年変わってないんですよ。認知革命といって、人類が絵を描いたり言語を使えるようになったときから、それ以来僕らの脳の大きさや構造は変わっていない。にも関わらず、僕らはこの7万年もの間に社会のシステムやテクノロジーをとんでもないスピードで変化させることができたわけです。例えば、ビーバーがダムを作るという本能を自然淘汰の中で獲得するのにはそれなりの時間を要したはずです。進化によってそれらを獲得しようとすると、かなりのタイムスパンが必要なんですが、僕らはミームとして、ドーキンスが言うような文化的な教育をしたり、言葉で伝達したり書物に残したりすることができる。

前の時代の人たちが作ってきたものを借りて新しいものを作ったりということができる。身体的なレベルやDNAのレベルでの進化スピードを超えた形で文化や文明というものをどんどん作れるわけです。人間はいじらしくて弱いんですが、人間だけが飛躍的に文明を進化させてきた。だからこそ、そのような社会構造に僕らの脳という身体が対応できず、不具合が発生するわけですが、昔に比べれば人間の生存率や寿命というものは確実に伸びてきた。世界を正しく把握し、なんとか世界と自分たちをマネージしてこれた。そういう人間存在に対する信頼みたいなものが必要で、人間を正しく信頼し直すことが、変化に対する希望にもなります。

人間のいじらしさをありありと見定めるのと同時に、人間の歴史を見たときに、長いスパンで見れば理性的に振る舞えるし、極めて知的に合理的な共同体や文化を作ることができる。信頼するという契機から人間を眺めてみませんか、ということがあの本の中で言いたかった大きなテーゼなのかなと思います。人間は弱くてどうしようもない存在。だからこそ贈与をする、弱いからこそ贈与をする。人間って弱い、でも人間の理性は信頼できる。その認識が当たり前になったら結構世の中が変わると思うし、それが僕の希望ですね。

贈与の宛先になること

NWF:本を読んでいて「親がなぜ孫を欲しがるのか?」その理由が胸に刺さりました。

近内:親は子どもに対して贈与のバトンを渡せたか、その確認がしたいのではないかという仮説です。親は子に無償の愛を与えるわけですが、その愛が正しかったのどうかは、自分の子が「他者を愛せるようになる」ことにおいて示されるわけです。それを見届けて、親は自分の責務が無事果たされたと感じるわけです。親は「孫が見たい」と最初は言っているんだけど、別に孫じゃなくても、例えば子どもが社会的に繋がることができたり、誰かをちゃんと愛せるようになったり、誰かから愛されるようになったりが分かればいいんです。だとしたら、バトンを渡せない人は、その贈与に参加できないのか? いや、贈与の宛先になることは相手にとっては十分に贈り物なんだ、と気がついたんです。誰かの贈与の宛先になることで、その送り主に自分が元気に生きる姿を見せることで、十分恩を返せていると。作家の東出直樹さんの「バトンを繋げなくなったものはバトンを握りしめて途方に暮れているのか」という言葉を受けて、答えが出せずに締めようと思っていたんです。でも本を書いていくうちに「ああ、そうか!」と、宛先としてちゃんと受け取ること自体がすでに贈与に対する返礼なんだと気がつきました。

NWF:次はどんな本を書く予定ですか?

近内:「自由意志」についてはちゃんと書きたいと思っています。この本で語った贈与論は人間の意図や理性をわりと強く前提としています。でも、例えば、友人同士でも何かを話してたときに「実は、前に近内さんが私に言ってくれたじゃないですか。それですごく救われたんです」と言われて、「俺、そんなこと言ったっけ?」というふうに、贈与したことを覚えていないことがあります。自分が知らない間に贈り物をしてしまっていたということは十分にあり得るわけです。その際、その行為には意図的な側面がないわけです。確固たる意志に基づいて贈与したわけでは決してない。にもかかわらず、それは確かに自分らしい行為のような気もする。だから仏教でいう「業」というカテゴリーの行為について考えてみたいと思っています。

「かつて私は受け取った、だから今度は与える」というのはすごくリニアな時間感覚の贈与論なんですが、時間の順序が逆転するような「俺がやったことが贈与になっていたんだ」とか、「ああ、俺も昔これを誰かからしてもらっていたんだ」急に思い出すという風に、時間の順序が逆になるような贈与があります。そんな贈与は、完全に動物的な反射でもなく、完全に意図的な行為でもなく、意図をしていたようなしていなかったような、非常にあいまいな振る舞いとなります。そこを「自由意志の存在」という哲学的問いを検討する中で説明できるんじゃないかと考えています。

僕らの身体は「モノ」つまりただの物体であり、僕らの行為は「自然現象」の一部です。でも僕がコンビニに行って、ハンマーでコンビニのガラスを破ったら、僕が責任を取らされます。それに対し台風が来て、コンビニのガラスが割れても誰も責めない。なぜ同じ自然現象としてのガラスの破壊なのに、僕は責任を問われて、台風には責任が問われないのか。これは行為論、アクションセオリーという哲学の中の問いなんです。なぜ、人間が行為として振る舞ったことに起因する損害に対しては責任を問われ、かたや人間以外の原因を持つ損害に対しては自然現象で片付けられるのか。なぜ人間の場合には、「意図」があって何かをやったと見なされるのか。「責任概念」というのは意外とグレーゾーンでよくわかっていないんです。意図的に贈与することなど、本当にできるのか? 意図や意志が不在の贈与こそ、最も贈与の名にふさわしいのではないかと考えています。

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