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アマゾンから考える「人対人」「微生物から人まで」 【A piece of PEACE】映像作家/文化人類学者・太田光海さんインタビュー

©Akimi Ota

Next Wisdom Foundationの今期のテーマは【A piece of PEACE】。そもそも平和とはどういうことなのか? 戦争・紛争、民族等のキーワード以外に、例えば微生物・宇宙工学……津々浦々古今東西多方面から深く問うことで平和の解像度を少しでも上げていきたい。この活動が「平和な世界」への第一歩になると信じて【A piece of PEACE】を探求していきます。
今回は、映像作家・文化人類学者の太田光海(おおたあきみ)さんにインタビューしました。

<プロフィール>
太田光海 おおた・あきみ
1989年東京都生まれ。映像作家・文化人類学者。神戸大学国際文化学部、パリ社会科学高等研究院(EHESS)人類学修士課程を経て、マンチェスター大学グラナダ映像人類学センターにて博士号を取得した。パリ時代はモロッコやパリ郊外で人類学的調査を行いながら、共同通信パリ支局でカメラマン兼記者として活動した。この時期、映画の聖地シネマテーク・フランセーズに通いつめ、シャワーのように映像を浴びる。マンチェスター大学では文化人類学とドキュメンタリー映画を掛け合わせた先端手法を学び、アマゾン熱帯雨林での1年間の調査と滞在撮影を経て、初監督作品となる『カナルタ 螺旋状の夢』を発表。また、2021年には写真と映像インスタレーションを用いた個展「Wakan / Soul Is Film」(The 5th Floor)を開催し、さらに熱海で行われた芸術祭「ATAMI ART GRANT」に参加するなど、映画に留まらない領域で表現活動を行う。
『カナルタ 螺旋状の夢』は東京の下高井戸シネマにて2022年4月23〜30日、岡山の円結にて2022年4月22日上映。
https://akimiota.net/

人類学がキリスト教・イスラム教の衝突を考える手段になる

Next Wisdom Foundation(以下NWF):太田さんは子どもの頃、世界平和を目指して国連職員になりたかったと。平和を考えるようになったきっかけは何ですか?

太田光海(以下太田):自分が周りから見ておかしな子どもだと思っていなかったのですが、おそらくどこか変わったところがあったんです。僕は、周りの子どもたちが好きな芸能人やバラエティ番組に興味がなくて、会話に全く入れなかった。芸能人や番組を知らないことでバカにされたり、”空気が読めない奴”に仕立て上げられていってしまう、おそらく日本特有の社会的関係の作られ方があって、僕は物心ついた瞬間から居心地の悪さを感じていました。

小学校・中学校と進んでいくうちに日本でこのままやっていくのかという疑問に苛まれていって、とにかく、世界をもっと知りたいと考えました。それで、親の知人の紹介で知ったYFU(YFU国際交流財団)に応募してオランダに行ったんです。その選択が僕の中で大当たりだった。日本で常識とされていることは常識ではなく、日本で発言したら「お前調子乗ってる」と言われることがオランダでは全く問題にならなかった。

オランダという小さな国にいましたが、周辺には強烈な個性を持った国がひしめている場所です。国境を跨げばベルギーがありフランスがあり、イギリス・ドイツがある。ものすごく多様な文化がせめぎ合っている場所です。これは批判的に捉えるべき歴史ですが、彼ら自身が世界中を植民地支配してきた歴史があります。一方で、特に第二次世界大戦以降は旧植民地からの移民たちがヨーロッパにどんどん入ってきて、いろんな軋轢が生まれつつ、ある種の多様性を社会の中に抱えざるを得ないという状況になっている。
ある意味、ものすごく低いレベルから、目の前にどんな人がいて・どういう立場で・何を考え・何を信じながら生きているのかということを、一歩一歩探っていくというコミュニケーションスタイルがあるのだなと、当時15歳の僕は感じていました。今の僕はヨーロッパが完璧だとは全く思わないけれど、芸能人を知らないことが問題にならないし、宿題を忘れたり体育座りをしなくても怒られない社会があるということを知りました。

NWF:第一次・第二次世界大戦を経験した国で学生時代を過ごしたことが、平和を考えるきっかけになったのでしょうか?

太田:もちろん高校時代の経験は大きいですが、2001年の9.11にものすごい衝撃を受けました。当時僕は11歳でした。サッカーの練習から帰ったら、テレビの中でアナウンサーが世界貿易センタービルの前に立って「たったいま飛行機がビルに突っ込みました」と実況していて、実況中に二機目の飛行機が突入したのを見ました。その後、アフガニスタン侵攻、さらにはイラク戦争に繋がっていくのを小・中学生時代に経験したことが、シンプルに平和について考えさせられるきっかけになりました。

CC BY 2.0, Plumes of smoke billow from the World Trade Center, Flickr user Michael Foran (https://commons.wikimedia.org/wiki/File:WTC_smoking_on_9-11.jpeg)

NWF:そこから太田さんは、パリで人類学を学びます。

太田:9.11からのアフガン・イラク戦争という流れの中で、僕の中で浮上してきたキーワードの一つがイスラム教でした。2001年に9.11が起こり、同じ年にアメリカを中心とするNATO有志連合軍が「テロとの戦い」を掲げてアフガニスタンに侵攻し、2003年からイラク戦争が始まり、2005年に僕はオランダに行きました。そして、2005年11月にフランスのパリ郊外で大規模な暴動が起きたんです。

フランス社会の中のパリ郊外……パリに限らず郊外という場所が、フランスではある意味ゲットーのような捉えられ方をしています。なぜなら、18〜19世紀のパリの都市計画の中で低所得者をパリの中心からどんどん排除していくという都市政策があったから。その結果、戦後にフランスに入ってきた北アフリカ系のモロッコやアルジェリア移民、旧フランス植民地の西アフリカ人たちが郊外に押し込まれていくことで、都市部の人たちと乖離が進んで半ばゲットー化したという社会状況があるんです。

2005年に郊外が発火点となって、フランス全土を揺るがす暴動が起きました。当時のサルコジ大統領が「郊外にいるクズの若者がただ暴れているだけだ」という趣旨の発言をして、フランス社会の中でイスラム教徒が敵扱いをされていく状況を目の当たりにしました。身近なところでは、フランスの女子学生が学校でヒジャブスカーフを着けていいのか・ダメなのかという議論が盛り上がっていました。当時僕が通っていたオランダの学校にもイスラム教徒の女子生徒がいて、スカーフを被っていたので、彼女たちのためにもとても重要な問題でした。

こんなふうにイラク戦争や暴動を目の当たりにして、キリスト教社会におけるイスラムというのが、自分の中の大きなテーマになりました。そして、パリで人類学を学ぶ時の研究テーマをパリ郊外にしました。イスラム教徒の方たちが西洋で受けている、圧倒的に相入れない者という視線にとても興味をかき立てられたんです。調べていくうちに、中世のオスマン帝国との戦いの時代にはすでに存在していたくらい根深い問題だということが分かってきました。

Public domain, Nicopol final battle 1398 (https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nicopol_final_battle_1398.jpg)

僕が平和を考える出発点は、日本人としての僕がどうのとか先住民がどうのと言うよりは、もう少し世界史的なものです。一般的に想像されるような西洋中心の世界史の中でのキリスト教的文化とイスラム教的文化の衝突をどう考えるのか、ということに興味がありました。それを考える最も面白い・効果的な手段が、僕にとっては人類学だったんです。
人類学にはフィールドワークという実践の場がありますが、フィールドワークとして現地の真っ只中に飛び込むと、必然的に自分と他者のコミュニケーションが生まれます。

例えばAさんがイスラム教徒だとして、Aさんに近づけば近づくほど、最初に持っていたイスラム教徒という言葉から想像されるパーソナリティが崩れていくんです。
オランダ留学をした時に、オランダ人家族にホームステイさせてもらいましたが、異文化と言われる人たちの内部に入ってみると自分との違いがあるのが分かります。その違いですら、”自分は日本人で、相手はオランダ人だから”といった単純な括りでは捉えられない繊細な違いがあった。もしくは、同じ部分があった。そうやって、人間関係がどんどん変換されていくんです。

その”変換していく人間関係”を、イスラム教徒や移民と呼ばれる人たちとの間に発生させることができれば、”イスラム教徒とそれ以外”という壁を少し和らげることができるのではないかと考えました。フィールドワークという経験を通して彼らと僕の間にどういう関係性が生まれたのかを、人類学の理論を使いながら論文という文字に書き起こすことで、パキッと分断しているかのように語られる”イスラム教徒とそれ以外”の壁を和らげることができるのではないかと。

平和への想いという視点で言えば、一般的に想像される他者との境界というイメージが分解されて、自分との境界が無くなった時に、いわゆる平和的状況が生まれるのではないかと思っています。

西洋と西洋以外の学問

NWF:文化人類学を学んで感じたことは?

太田:パリで文化人類学を学んで、その後イギリスに拠点を移して感じたのは、学問と呼ばれるもの自体がものすごく多様だということです。それぞれ研究者の視点が違うだけでなく、国や言語圏が学問に求めている根本的なものが大きく違うと感じました。

僕はパリに行く前まで、学問というのは「ユニヴァーサルなもの」としてあると思っていたんです。日本での学問はある意味、大衆的なものに近く、エリート主義的ではない。日本における学問は知的好奇心を満たしたり、教養を身に付けるための手段という感覚があると思うんです。素朴な言い方をすれば、ある種の真理、世の中の科学的真理みたいなものをみんなで考えていって、特に自然科学の中では知恵を持ち寄ることで世界の一つの科学的真理に到達するのが目的だという意識があったのですが、パリで実は全くそうではない可能性があると痛感しました。

人類学に話を絞ると、日本の人類学の本は世界の様々な文化について知ろうといった、ある意味、素朴で無垢で屈託のない関心が根底にある気がします。一方で、パリや他の西洋諸国は違っていて、もっとエキゾチシズムというか、ある種の残忍さを感じるんです。一概には言えませんが、パリの学問はもっとエリート主義的で、他者について知りたいという欲求が、長い歴史を通して作られてきた差別意識の裏返しのようなものに支えられている側面がある。彼らは何百年という歴史の上にいるので、それが無意識化されていて、おそらく気が付かないと思います。そして、別の側面では差別意識はもちろん日本人にもあります。ヨーロッパと同じではないけれど、何百年の間に醸成されてきた土地固有の歴史意識によって、自分たちは気が付かないけれど日常的に起きている。

僕がヨーロッパに行って人類学を学んで感じたのは、他者を圧倒的に支配してきた歴史の上に成り立っている社会が目線を向ける先住民の人たち、「非西洋人」、日本人もそこに含まれていますが、彼らにとっての人類学は、そのような他者をどう支配してやろうかという戦略みたいなものです。例えば、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトが書いた『菊と刀』という本は、第二次世界大戦中に日本人という存在をアメリカ軍が理解するために使用されました。当時の僕は、西洋社会の内部にいる修士の学生でしたが、僕の前で講義をしている白人の偉い先生が僕を見る目線というのは、他の白人の学生に向けられるものと同じではないんです。

フランス語や英語で書かれた人類学研究の論文のイントロダクションの段階で、「我々西洋ではこうだけれど、それ以外ではこうだ」という話から始まる。僕はそれを読みながら、「我々西洋では〜」と書いてある時点で、僕はすでに除外されているのだと感じていました。宗教にしても「キリスト教社会ではこうだ」という話になったら、僕が学問を真面目にやっているかどうか関係なく、初めから除外された存在だということを痛いほど感じました。こんな経験を経て、学問とは僕にとって何なのか? 西洋以外の人にとっての学問は今後どうあるべきなのか? こんなことを考えていました。

NWF:太田さんなりの納得解は出ていますか?

太田:本来、論文……書物ですら人間の生存とは一切関係ありません。人類の歴史は書物無しに始まっていて、文字は無かった。人類が文字を使い始めた歴史は短いです。いま人間にとっては地球環境が良くないほうに進んでいて、今後、人類の生存が脅かされるかもしれない時に、本質的に学問はなくてもいい。僕は根源的には、本というものすら無くても人類は存続できると感じています。

一方で僕は本が好きだし、本や論文を読むことが自分のためになっています。僕たちが学問とはこういうものだ・大学はこんな場所だ・研究者はこれをする人……と漠然と捉えている概念や出来上がったシステムを、一度数百万年前の文字が無かった人類の目線から見てみて、その上で「やっぱりこの部分は面白い」という部分に注力していく必要があると思います。

例えば、哲学的な概念や人類学が積み上げてきた知見はもちろん価値のあるものですが、今の僕が実践していて今後やりたいと思っているのは、それらの価値体系を組み替えていく作業です。換骨奪胎と言えば伝わるでしょうか。近代社会の中で学問が積み上げてきた”ブロック”のようなものがあるとして、そのブロックの型を崩して、言葉遣いそのものから変えて自分たちに刺さる・心にきちんと響くやり方で価値体系を組み替えるということです。その中で人類学が果たす役割は大いにあると思っています。

僕がパリで感じたような圧倒的なエリート主義的学問が頂点にあるとして、「この世界の真理はこういうものだ」と流布させ、価値観を支配している状況への抵抗にもなると思っています。僕は、エリート主義の頂点でさらに実績を付け足して、自分がその中で上に立つというよりはむしろ、頂点を少しずつ溶かしていくことで新たな価値体系を作ることを目指したいです。
単純に、ブロックを全て崩して平べったくすればいいということではないです。今までの学問体系の中で積み上げられてきた「それをやってないと到達できない目線・地平」はあると思っているので、そこは大いに利用しつつ違うものとして届けるということです。

NWF:どんなふうに実践していくのですか?

太田:ある意味で詩の実践に近いと思います。フランスの詩人・民俗学者のミシェル・レリスギヨーム・アポリネールロートレアモンなど、シュルレアリスム的発想から詩の実践を行った人たちがいます。当時、詩人のアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』という本を書きました。シュルレアリスムは芸術運動としての側面が強いですが、一方でとてもインテリな運動でもあって、当時フロイトの精神分析やマルクスの革命論に共鳴した中で行われていた価値体系自体を組み替えていくという実践でした。

僕は、新たな現代の文脈の中で、当時のシュルレアリストたちが目指したようなことをやっている段階だと思います。そういう地平に立つと、一方に芸術があって他方に難しい学問があるという話ではなく、両方が両輪になって全体的な価値体系を組み替える発想になっていく。難しい革命論の用語も散りばめるけれどマルクスと同じ書き方はしない、みたいなことです。そして、難しい用語を単に小学生にも分かるように書きましょうということではなく、使う文脈自体を少しずつ変えていく。例えば、僕が映画の舞台挨拶をするときに来てくれるお客さんは人類学をやっている人に限りません。80歳のおばあちゃんも20歳のコンビニ店員の方も、あらゆる社会的バックグラウンドを持つ人たちが来るわけです。皆さんにどう話すか考えた時に、学会発表と同じ語り口ではダメです。僕が10年近く取り組んできた人類学の知見をどう散りばめていくのか、毎回挑戦しています。

NWF:映画を作ることも挑戦の一環でしょうか?

太田:映像というのは、言葉で説明しなくても感覚にすり込みができる。感覚自体に訴えかけるメディアとして、すごく強いと思っています。そして、映像とフィールドワーク、旅の経験は相性がいい。ここ10年ほどは、みんながカメラを持ってどこかに行って撮って大事な人に見せる・シェアするという実践が日常的に起きています。これを、”極限までシリアスにやったらこうなる”というのが映像人類学の良いところだと思います。

最近、『GUNDA』という映画を知りました。豚をありのままの豚として追ったドキュメンタリーで、ペットのような感覚を持てる可愛い豚だけど家畜用で、僕たちはその肉を食べている。自分たちが否応なく”大事にしなきゃ”と思うペットのような存在と、残虐に扱われて殺されても”関係ない”と思える存在のどこに差があるのだろうと考えました。

youtube→https://www.youtube.com/watch?v=mmInNEH1GRA

ある意味、アマゾンの人たちは世界の大多数の人たちからは食肉用の豚を見る視点と同じ視線で見られているかもしれない。全くそうだとは言い切れませんが、厳しい言い方をすれば、潜在的には世界のほとんどの人々にとって無意識化されている存在でもある。そこにある境界をどう考えて、どう無くしていけばいいか考えた時に、例えば言葉で「彼らも一生懸命に生きているかけがえのない存在です」と説明しても、すぐに豚を食べるのは止められない。もっと感覚的に深いレベルで腑に落ちることがないと人間はなかなか動かないと思ったんです。僕はそこに言葉の限界を感じています。映像メディアというものには、感覚に訴えかけることで想像力を広げたり、生き方に影響を与えるような役割があるんじゃないかと思っています。

©Akimi Ota

人間対人間からではなく、微生物対人類という視点で見る平和

NWF:太田さんにとって人類学とはどんなものですか?

太田:「平常状態」の人生に自発的に歪みを生むことで他者を知ることができる大きなツールとして人類学を捉えていますが、それ以上に、自分も変わることが僕にとっては大事です。例えば、文学・歴史学などを通して知識は蓄積できるし、世界認識が変わって自分が変わるプロセスはありますが、僕にとって人類学が圧倒的に面白いのは、知るというプロセス自体を自分自身でコントロールできないという点です。

僕がいくら「研究者です」と言ってアウェーな状況の中に入っても、思い通りにはならない。彼らの社会は彼らの社会としてガンガン動いていて、僕が「君たちにとって大事なことは何?」と真面目な話をしようとしても全て冗談で返されて相手にされない。アマゾンだと歩いて彼らに付いていくだけで体力が奪われて、話を聞く・彼らを知るという話ではなくなる。自分というものが、どんどん現実の荒波に飲み込まれていって、学問がどうのこうのという次元が消えていくんです。必然的に自分から脱皮させられてしまう状況が生まれるのが僕にとって人類学の最も面白いところで、他の人文科学や社会科学と圧倒的に違うところです。

©Akimi Ota

僕はもともと10代中盤から哲学書が好きで、わりと知的で理屈っぽいことに興味あるタイプでしたが、人類学というものが無かったら博士号まで取ることはなく、別の道に進んでいた気がします。それぐらい僕にとっては、自分が生きるということと直結するような学問です。

NWF:人類学を通して、ものを見る目はどう変わっていきましたか?

太田:3.11が起きるまでは、例えばキリスト教徒が多数派の中で、イスラム教徒がどう生きているかとか、移民がどう受け入れられるのかなど、僕にとっては人間対人間の関係が重要でした。国連のような大きな組織が社会の中で虐げられている人たちへの助成金を増やして、みんなが安定した収入の中で生きられるように促すとか、そういうことで世界が平和になるのではないかと考えていました。

でも、3.11で津波や放射能汚染が起きた時に、イスラム教徒だとかキリスト教徒・仏教徒といった人間が勝手に作った差というのは、津波や放射能汚染には一切関係がなかった。自然はそんなことを考慮してくれないという衝撃が自分の中で開きました。その後アマゾンの研究をしていくのですが、すぐにアマゾンに行ったのではなく、まずは自分が受けた衝撃が何だったのかを考え、自分の興味が向く方向というのが少しずつ変わっていったという感じです。

その過程で特に印象に残っているのが、アムステルダムにある微生物博物館『ミクロピア』です。3.11後に見たインスタレーションで、地球上にはあらゆる種の生物、人類・哺乳類・爬虫類・虫……いろいろあるとして、一方で微生物という存在もある。遺伝子構造の視点から見て、自然生物種の中で人類がどういう距離感と位置関係にいるかというインスタレーションです。それを見ると、人類と虫は、驚くほど近い位置関係にいました。それまでの僕は、人類というものの中の一部の違いに関心がありましたが、微生物も含めてこの世界を捉えようとしないと、3.11以後の世界は生きられないのではないかとハッとしたんです。人間対人間の関係ではなく、もっと根源的にあらゆる環境の微生物を含めた生物種との関係性の中で生きている人類というものに興味が向いていきました。

そのころ生物学者のリン・マーギュリスの本を読んでいました。古典的な”ダーウィン主義的進化論”があるとして、その理論は、”多くの生物種がありその中で環境に適応して他を蹴落とした種が生き残ることで進化が生まれる”というものです。それに対してリン・マーギュリスは、生物の進化は淘汰ではなく、共生することに本質があるのではないかと言っています。そして、リン・マーギュリスの息子でドリオン・セーガンというエッセイストは、生物学からインスピレーションを受けた文章を多く書いていますが、僕は彼のエッセイに影響を受けました。

僕たちは、種として人類の一個体だと自己を捉えがちですが、腸内細菌が無いと生きられない存在です。僕たちの内部にいる微生物は、微生物という別の種なんです。人類は微生物が体内にいるから今まで生存しているし、今この瞬間も自分は生存できていると考えると、一体人間という自分の種は何か、と考え始めました。

CC BY-SA 2.0, Micropia Museum Amsterdam, Yann Caradec (https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Micropia_Museum_Amsterdam_5.jpg)

NWF:そこからアマゾンに入っていったのですね。

太田:アマゾンは、今までの自分の関心と3.11以降に湧き上がった新しい関心が含まれている一番やりがいがある場所だと感じました。アマゾンは、人間対人間の関係についても、根源的な問いを突きつけてくる場所だったんです。

西洋とイスラム社会の戦いの歴史は確かに非常に長いです。一方で、15世紀に大航海時代が始まり、コロンブスがアメリカ大陸を発見したことで、エルナン・コルテスがアステカ帝国を、そしてフランシスコ・ピサロがインカ帝国を征服した。大都市を中心とした文明社会とは全く違う感覚で生きている存在を、歴史や社会から排除していく世界史的な動きが始まっていくわけです。

僕の関心がアマゾンに向かい始めた頃に、カルチュラル・スタディーズという学問をやっていました。そこでよく出てくるのが、ポスト・コロニアルスタディーズという植民地主義をどう捉えるのかという学問です。いま僕たちが生きている時代を”後期資本主義社会”として、その社会の土台を考えると、西洋が植民地社会というものを構築し、大規模な土地支配と奴隷制の導入というシステムを作って圧倒的な搾取構造を世界中に張り巡らせたという事実があります。だから僕は今こうしてコーヒーを飲み、コットンを含む服を着ているわけです。その歴史が一番最初に巨大な力として始まったのは、南米ではないかと考えました。アマゾンでは19世紀にゴム産業が発展し、アマゾンの人たちは奴隷的な扱いを受けて、森の中にあるゴムのプランテーションでこき使われた歴史があります。

一方で、アメリカ大陸で500年以上の支配の歴史がある中で、アマゾンには未接触民族や未知の存在になっている先住民がいるのは、すごく面白いと思いました。もちろん、悲しい歴史もたくさんありますが、長い年月をかけて植民地社会と対峙して完全には支配されていない存在がアマゾンにはいる。しかも、彼らが元々持っていたアニミズム的な世界観がある。スペインやポルトガルは、キリスト教の宣教師をアマゾンに派遣してキリスト教化しようとしています。キリスト教がアマゾンを変えている歴史はありますが、完全には西洋に染まりきらない彼らの世界観もある。僕がアマゾンに惹きつけられた理由は、先住民が自分たちでは決して簡単には手が付けられない自然環境の中で生きているということです。

それに、3.11以前に僕が持っていた人間対人間の関心……他者とどう向き合うのかということに関しても、彼らはすごく深いレベルで根源的に、今の僕たちが生きている社会そのものに繋がるような歴史の出発点のようなものを内包しながら存在している社会だと感じたんです。僕は、その両極が同時に存在しているアマゾンは面白いと思いました。

©Akimi Ota

NWF:アマゾンで感じたことは?

太田:最初にフィールドワークで南米に行った時、エクアドルの首都キトを見て回りました。街を歩いていろんな場所でいろんな人の話を聞いて、本屋でエクアドル文学を探して、博物館に行った。博物館には、アマゾンの人たちが作った土器やカゴなど民芸品が飾られていて、「アマゾンの人たちは土器をこんなふうに使う」と説明されていました。

ミシェル・レリスが「博物館は、ある意味、売春宿と同じようなものだ」と言っています。つまり、”自分たちにとって都合のいいものを漁るだけ漁って出ていける場所だ”ということだと思いますが、博物館にはアマゾンの人たちの民芸品が置かれていて、アマゾンの人たちは同じ国の中の別の空間でひっそりと生きている状況なんです。僕がキトのタクシー運転手に、「アマゾンでこういうことをやろうとしている」と話すと、「彼らはテクノロジーを持っていなくて、裸で生きてるんだろう」と言うわけです。同じ国でめちゃくちゃ近い距離にいるはずなのに。

僕たちが考えている距離というものは、一体何なんだろうと考えさせられました。空間的に近いところにいる人のことは、より知っていることになるかというと、全くそうではない。キトには白人やアンデス山脈に住む先住民、インカ帝国に血筋がある山岳民族との混血の人がいます。彼らにとってアマゾンの人たちは、とりあえず同じ国籍を持っているけれど、未知の存在なんです。僕にとっても他の人たちにとっても、アマゾンの人たちは一体どんな存在として認識されているのか考えることが、人間対人間の関係を考えることに繋がると思っています。

『カナルタ 螺旋状の夢』予告編youtube⇨https://www.youtube.com/watch?v=Af6SGeOsNwY

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