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場を整えることでコミュニケーションは変わる-「非モテ」男性は本当にモテないからつらいのか?【A piece of PEACE】男性研究/臨床心理士・西井開さんインタビュー

平和について考えるにあたり、私は「世界の平和は一人ひとりの個人の平和の上に成り立つ」という仮説から、まず「個人の思想や尊厳が脅かされることなく、周囲と調和している状態」が個人を起点とした平和の礎であると考えた。ではそれが脅かされるのはどのようなときだろうか? という具体的な状況を考えたときに、以前読んだ本の中に出てきた「非モテ」男性たちのことが思い出されたのだった。

「モテないけど生きてます」では、「非モテ」と呼ばれる男性たちが当事者研究の形で自らの被害・加害経験を語ることで、「モテない」という女性との関係性やコミュニケーションの困難さ以前に、男性同士のコミュニケーションにおいて様々な障壁や葛藤、苦痛を感じてきたことが研究を通して明らかにされている。

非モテ男性は幼少期から思春期にかけて、自分のあらゆるパーソナリティ(例えば背が低いだとか、毛が濃いだとか、声が高いだとか、喋り方が変だとか、運動神経が悪いだとか)に対して他者から(それも大抵は仲間内の男子から)いじり、からかいを受けてきたことによってそれを内面化し、劣等感を感じるようになる。クラス内には明らかな序列が発生し、非モテ男性はコミュニティの周縁へと追いやられる。

自らのパーソナリティによって傷つくことや、逆にアドバンテージを得ること、それによって仲間内での立ち位置がオートマティックに決められていくという現象は、ほとんど全ての人にとって経験のあることだと思う。ぜひ記事を読みながら、自身のこれまでの経験に思いを馳せながら、自分だったらその時どうしたかを考えてみていただきたい。

<プロフィール>
西井開 にしい・かい
1989年大阪府生まれ。立命館大学人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。現在千葉大学社会科学研究院特別研究員。臨床心理士。公認心理師。専攻は臨床社会学、男性・マジョリティ研究。モテないことに悩む男性たちの語り合いグループ「ぼくらの非モテ研究会」発起人、男性の語り合う場をつくる任意団体「Re-Design For Men」代表。著書に『「非モテ」からはじめる男性学』(集英社新書)、共著に『モテないけど生きてます-苦悩する男たちの当事者研究』(青弓社)

<聴き手>
佐藤絵里子 さとう・えりこ/Next Wisdom Foundationプロジェクトフェロー研究員
1990年東京都生まれ。新卒でNPOに就職し、2021年退職。現在はパートタイムの仕事をしながら、子どものための場づくりの研究と実践を行う。「女神※」の当事者として、またそれを起因とした大小様々な被害を経験してきたことから非モテと女神の関係性や、加害のメカニズムに興味をもつように。ケアによってそれをする側、される側が生じる点に留意しつつ、どのようなケアがそこで起こるべきか、またどのように周囲の意識を変えることができるか?という課題意識をもつ。

※女神「ぼくらの非モテ研究会」で使われている言葉で、非モテ男性に対しても他の人と分け隔てなく接する女性のことを指す。

自己紹介はこちらhttps://note.com/nwf/n/nceb10dbe2b27

「非モテ」を表す明確な定義はない

Next Wisdom Foundationプロジェクトフェロー研究員佐藤絵里子(以下佐藤):まず「非モテ」とはどのような人のことを指すのでしょうか?

西井開さん(以下西井):よく聞かれるんですが、明確な定義をしていないんですね。

非モテ」とはグラデーション的な概念だと思っていて、人によって「非モテ」が指す内容って実は全然違います。例えばこれまでに全く恋人がいなかった人を指すのか、恋人がいない状態を指すのか、それとも「自分はモテない人間である」という意識を指すのか……などその実態はさまざまです。

だから定義をあえて明確にせずに、「非モテ」という言葉を呼び水にしながら、男性たちが語り合う場をつくりました。それが「ぼくらの非モテ研究会」(以下、非モテ研)です。メンバーたちと、僕らが持ってる内面世界や経験をつまびらかにしていくように、研究をしてきました。

そういった研究の中で見えてきたものとして「恋人がいない」とか「セックスができない」といった女性との関わり以前に、背景として非モテ研のメンバーたちが集団や社会の中で、周縁化されてたり排除されてきた過去を持っているということが見えてきたんです。

自分のことを唯一理解してくれる「女神」?

佐藤:なるほど。特に学生時代なんかは「非モテ」と呼ばれるような周縁化された男性の存在って顕著ですよね。一般的に、それが彼ら自身の問題や責任かのように扱われることに対しては違和感があります。

ただ、一方で非モテの人に対して手を差し伸べたいと思っても、なかなか思うように相手にそれが伝わらなかったり、実際のところ、どういう形でケアがされるべきなのかはよくわからないんです。

非モテのつらさも、おそらく瞬間的な、「今ちょっとつらいな」というものと、それが継続して、ジワジワとつらさを感じているっていうのと2種類あると思うのですが、どのような周囲の人間の立ち振る舞いがあると、それが少しでも癒されたり、緩和されるのでしょうか?

西井:非モテ研のメンバーの中でも、例えば中学・高校のクラスの中で、男子グループには入っていても日常的にからかわれていたり、いじられていた経験が蓄積して自己否定感を募らせている人や、クラスの中で話せる相手が全くいなくて、一人でずっと過ごしていたというような状況にあった人が、結構多いんですね。精神的・物理的に孤立すると、周囲の人に対して「もういい」とか「こいつらは自分と付き合う資格がない」とか「俺がすごいから周りがついてこれない」というふうに思ってしまって、人付き合いを諦めてしまう場合もあるんですけど、やっぱりどこかで、人と関わりたいとは思っている。

そういう状況の中で、優しくしてくれる女性というのはすごく大きな存在で、非モテ研の中では「女神」と呼んでいます。唯一繋がれる、自分の話を聞いてくれて、優しくしてくれる存在のことです。そうすると今度は必然的にそこに救いを求めてしまう。

蜘蛛の糸のような存在になってしまって、そこにどうしようもなく執着していく……。そういったメカニズムがあるのではないかというのを、研究の中では見てきました。異性愛に救いを求めてしまうわけです。ですので、周りが何をしてあげられるかというのは難しい問いだと思います。女性がかかわる場合、ケアすると女神化につながってしまって、対等な関係になりにくいということが懸念されるからです。実際、声をかけただけのつもりが、思いもよらず拙速なアプローチをされるようになってしまって戸惑ったという女性のエピソードを聞くことが少なくありません。片思いや恋愛的なアプローチ自体は否定されるものではありませんが、互いの関係性の文脈を読み違えると、相手に負担を与えるだけになってしまう。

非モテのメカニズム(西井開さん提供)

抜本的な構造をどう変えるか

佐藤:その通りですね。

ではケアをするのが男性だとどうでしょう? 元を辿れば男性同士のコミュニティの中でからかいやいじりが発生して、周縁化が起きているわけですよね。そこに一石を投じるような男性が登場すると、状況は大きく好転するのではないでしょうか。

西井:そもそも、どうしてその「周りの人間が何ができるか」という問いを佐藤さんはお持ちなのか教えてもらえませんか?

佐藤:はい。まず前提として、あるコミュニティの中で誰かが周縁化されることは決してその人自身の問題ではないと思っているんですね。さらに言えば、周縁化が起きるということ自体、コミュニティとして不健康だと思っています。

周縁化というのは不確定なマイノリティ要素によって生じるわけですが、ではそのマイノリティ要素を自分の中から排除したら状況が変わるかというと、そんなに単純なものでもない。例えば、肌が白いことでからかわれている男性が日焼けをしてちょっと肌が黒くなったからといって、今度は別の理由でまた周縁化される可能性があるわけですよね。

そう考えたときに、本人が努力するよりも、周りがどう変わることができるかということに実はすごく可能性があるのではないかと感じています。もう少し抜本的に変えるにはどうすればいいんだろうか、ということを考えたいんです。

西井:なるほど。私も同じような課題意識を持っています。ただ、手を差し伸べるってなったときに、そこにはまた、権力関係ができてしまう可能性には注意する必要があると考えています。これは非モテだけの話じゃなくて、他の領域の問題でも言えると思うんですが、助けてあげる、助けてあげられるという二項対立が生まれたときに、そこにはもう既に上下関係が生まれてしまっているからです。

だから佐藤さんが言っていたように、「抜本的な構造をどう変えるか」っていうところが大事だと思います。『「非モテ」からはじめる男性学では、社会集団の中に薄く埋め込まれた「男らしさ」や「暴力の文化」に焦点を当て、それらをいかに相対化できるかというところを目指しました。男性性には「競争的」で「排除的」なものが織り込まれていて、それで成り立っているような側面が強いということも研究を通して感じたことです。

3人以上になった時に競争型のコミュニケーションが生まれる

西井:男性同士のコミュニケーションを見ていくと、競争ありきでコミュニケーションが進んでいるようなところさえあったりします。特に集団になると、その傾向は強まる。一対一だったら結構ナイーブな話もできるのに、3人になった瞬間に「競争的」で誰かをこき下ろすような会話形式がスタートしてしまう、ということがあります。

佐藤:確かに中学とか高校くらいの男の子って、なぜか知らないけど3人以上のグループでいつも一緒にいますよね。

CC BY-SA 4.0,Adventure2580,店の前でたむろ(居座る)若者たち

女子はわりと、特定の子と2人で仲良しっていうことも多いと思うんですけれど、男子はどちらかというと大人数のコミュニティの中に身を置くことが多いですよね。もちろん、男の子同士でも休日にどこかへ遊びに行くような、クラスの中からは見えない関係性があるのかもしれませんが、クラス単位で見るようなグループだと、男子のグループの方が人数が多いイメージがあります。西井さんご自身の経験からも思い返してみて、どうでしたか?

西井:確かに私の周りでも一対一より3人以上が多かったです。

3人以上になると何が起こるかというと、やっぱり1人を蹴落とすことで残りの2人が繋がり合うみたいなことが起こりえます。男性に限った話じゃないのかもしれないけど。そこを崩したいというか、それとは異なるコミュニケーションのあり方や関係性の作り方を提示したいという思いがありました。解決方法とは言わないけれど、一つの道として「相対化する」ということがあるのかなと思っています。

男は弱音を吐くべきか?

佐藤:では、またちょっと違う方向から質問させていただきます。

先日、映画「ドライブ・マイ・カー」を観ました。この作品では、男性が自分の弱さや傷に目を背けず直視することで、自分の中にも弱さや傷があるという事実をまずは認めるということが一つのテーマになっていたと思います。

それと同時に、そこで描かれていたのは男性が自分の弱さを認めることそれ自体の難しさだったり、弱さを認めづらいことがひいては男性の生きづらさそのものに繋がっているという社会構造でもあると思いました。思った以上に、世の中の男性たちは自分が傷ついてることや、つらさを抱えているということ自体をネガティブに捉えているんだなというふうにも感じました。

これまでのいわゆる「男らしい」あり方として、乗り越えるというよりも何か別の物事や感情で上書きするだとか、そういった弱さや傷をなかったかのように振る舞うことが、ある意味で「よい男らしさ」だとされてきた面もあると思います。

ただ一方で、そういった従来の「男らしさ」に対して、「もうちょっと楽に生きてもいいんじゃない?」とか「従来型の男らしさに代わるような新しい男らしさが模索され、実践されるべきだ」という声も多く聞くようになりました。

これからの男性像を考える上で、西井さんが考える理想や、みんなが生きやすく楽になるための考えがあれば、教えていただきたいです。

西井:大きな問いが……笑 そうですよね。

佐藤さんの仰るように、「ドライブ・マイ・カー」は、男性が自身の痛みや苦しみを言語化することに主題が置かれていると感じました。主人公である家福の内面が長い時間の中でようやくほどかれていく過程が繊細に描かれていました。ただ、ひとつ気になったのは、結局家福は若い女性にケアをされてしまっているというところで、それは性別分業の再生産なのではないかという点については気にかかりました。

 佐藤:はい、そうですね。さらに突っ込んで言うと、若くて綺麗な女性という。笑

西井そうですね。『ドライブ・マイ・カー』にかんしてもうひとつ気になっていることがあります。確かに弱音を吐くことは、日常生活を送る上で大事なことです。それは心理臨床をやる中でも感じているところで、やはりどちらかというと男性は自身の困りごとを周囲の人に相談せず、抱えることがすごく多いので、もうすこし喋れるようになったらいいのにな、と思っています。

ただ、それと同時に、弱音を吐くことが称揚されすぎることへの懸念も持っています。そもそも自分の弱音とか、痛みや被害経験って、そんなに簡単に出てくるものではないんです。人に言ったらからかわれるリスクだって当然ある。特に男性社会の中では、「お前そんなことで悩んでるんか」とか「そんなん気にせんかったらええやんか」と馬鹿にされたり、笑われたりするっていうことは往々にして起きるので、そういう背景を無視して「男性たち、もっと弱音を吐いていこうよ」っていうのは、無責任すぎると思っています。

最近「有害な男性性」という言葉がにわかに流行っていますが、嫌な言葉だなと思っています。「有害」と言ったとき、そこには「健康な男性性」が対置されていると思うんです。弱音を語らずに溜めていく男性が有害で、きちんと自分の弱音や痛みをどんどん吐いていける男性が健康……というふうに、二項対立で考えていくと、そこでまた序列化が起こる。それはそれで新たな周縁化を生んでいくのではないでしょうか。

そんな単純な話ではないだろうっていうことを、「ドライブ・マイ・カー」を観ながら思いました。ちょっと西島秀俊さんはスマートすぎるというか……。

佐藤:わかります。私も、西島さんじゃない方が良かったんじゃないかって思いました。笑

あんなに明らかにいろいろなものを持っている人が、ちょっと弱音を吐いたくらいで乗り越えた感じにしないでほしいです。

場を変えると、コミュニケーションが変わる

佐藤:だから何か、「男性が弱音を吐く」ということを良しとするというよりも、弱音を吐いたときにからかわないようなコミュニケーションを、男性同士でできるようになった方がいいんじゃないかと思うんですけれど。なぜそこで、からかってしまうのでしょう?

西井:一つは「場の問題」が大いに関わっていると思います。場の構造や仕組み、文化を変えることで弱さが出てくる、というふうに考えています。

非モテ研にもある程度場のルールがあるのですが、場を整えると弱さは語られるんですね。語り合っていると、人の語りを聞いて、他の人が記憶を呼び覚まされることがあります。「そういうこと自分にもあったな」というふうに思い出し、今度はまたそれを語り出すという、場の中で相互作用が起こるんです。

CC0 1.0 Universal Public Domain Dedication

例えば、非モテ研のメンバーで発話に関する障害を理由にからかわれたという話をしてくれた人がいました。私は色覚障害なんですが、実はこれまであんまりそのことについて深く考えていなかったんです。他のつらい思いをしている人に比べたらたいしたことないと考えて、丁寧に振り返ってこなかった。でもその人の話を聞いて、確かに自分もそのことでいじられたりしたな、と思い出し、自分の経験を整理することができました。こうした相互作用は日常の中でも起こると思います。誰かから悩みを相談されたときに、「ああ、自分もそれで悩んでるな」というふうに素直に受け止めて、「実は、僕もこうこうで……」と言えたら、互いを尊重した対話が始まるのだと思います。

一方で、その時に自分が抱えてる悩みや痛みをないことにする動きも起こります。弱みや悩みを受け止めてしまったら自分が弱い存在になってしまうので、かき消そうとする。それで、かき消すときに相手に対しても「お前、そんなことは大したことじゃないんだから気にするなよ」と言ってしまうのではないかなと思います。自分が我慢してきたからこそ、他者にも我慢を強いたり「大したことないこと」として扱ってしまう。

埋もれている男性同士のコミュニケーションがある

佐藤:私、西井さんと杉田俊介さんとの対談で、非モテ研のメンバー同士が「みんなでマニキュアを塗り合ってみたり」する中で「お互いをいとおしむような瞬間がある」っていうふうに話されていたのがすごく好きなんです。何か、高齢者の方にお化粧をしてあげるワークショップとかにも通じるものがあるように思いました。それは見た目が美しくなることで元気になれるということと、もう一つは直接肌に優しく触れられることが精神的にも良い、とかだったんですけれど。

非モテ研で起きていることは、ある種特殊なことであり、特別な時間なんだろうなというように西井さんの本を読んでいても感じます。

西井:はい。でも一方で、あまり特殊にしたくないとも思っています。非モテ研みたいなグループをたくさん作れば解決するということでもないだろうし、非モテ研を持ち上げすぎると、それはそれで何か問題が出てきそうだとも思っています。

日常の中にも、ささやかすぎて埋もれている男性同士の関わり合いが、多分もう既にあるはずなんです。それを掘り起こしていくことが、意外と大事なのかなと思っています。街とかを歩いていても、おっちゃん同士で一緒に公園でお茶を飲んでいる、とかね。本当はそういうコミュニケーションがたくさんあるはずなんです。なぜか視界に入ってこないだけで。

佐藤:日常の中に、実は埋もれている男性同士のコミュニケーションがあって、それを注意深く見つけられるようになる……まずはそこから始められるといいのかもしれませんね。

バイスタンダーに求められる振る舞いとは?

最後はNWFメンバーみんなで質問タイムに。

NWF研究員花村 えみ(以下、花村):繰り返しになってしまうんですけれど、やっぱり「非モテの人に対して、女性はどのようにして関わっていけるんだろう?」ということについて、もっと知りたいです。女神的な存在がどこまで関わっていけるのか、そしてそうでない女性も含めて、どのように関われるとお考えでしょうか?

西井:あの、否定しているとかではないんですけど、なぜそこまで関わりたいんですか?

花村:そうですね……私の場合、多分自分への罪悪感っていうのがあって、クラスだったり組織の中で痛めつけられてる人を見過ごす自分に対しての「それってダメじゃない?」っていう自分への圧力もあるのかなと思って。「居心地の悪さ」ですね。

NWF研究員小柴美保(以下、小柴):それと、西井さんが話されていた「2人だったらいいんだけど、3人になると」っていう男性同士のコミュニケーションの話も、なるほどと思いながら聞いていました。

西井「バイスタンダー」という言葉があります。緊急事態の時にそばにいる人、という意味で、ハラスメントやいじめなどが起こってるときに、バイスタンダーはどう介入するべきかという議論が蓄積されてきました。バイスタンダー介入トレーニングを長年実施しているアメリカの人権団体「Right To Be」は、「5つのD」というのを提示しています。Distract(注意をそらす)、Delegate(協力してくれる人を探す)、Document(写真や動画の撮影、音声の録音、メモへの記入などして記録する)、Delay(ハラスメントを受けた人に声をかけ、支援先につなげる)、Direct(加害者に注意をする)の5つです。花村さんがおっしゃるように、男性の被害者を女性がケアしたときに、男性に執着されてしまうという懸念を鑑みるならば、Delay以外の対応を選択肢として考えてもいいのかもしれません。

佐藤:『モテないけど生きてます』の中でも、「今までずっと女神として見てしまっていたけれど、非モテ研の研究や語り合いを通して相手の女性を人間として見れるようになった」という話もありました。まずは「人間として見る」というのが、その第一歩なのかなと思います。

西井:そうなのですが、なかなかそう簡単にはできないと思っています。被害を受けていたり、周縁化されている状況にあると余計に他者への期待は大きくなってしまうので、自分の状況を相対化しにくいんですよね。

それを回避するには……単純ですけど、複数人でサポートに回るとかでしょうか。1人じゃなくてね。

母からのケアを女性に重ねる男性たち

小柴:非モテと女神の話は、異性であるということが問題を複雑にしているような気がします。

西井女神との距離の感覚って、すごく難しいんですよね。それが本当に恋愛としての意識なのか、それともただそこに救いを求めているのか……境界線が見えなくなってくる。

あとは社会全体の風潮というか、社会の意識の問題もあると思っています。男性同士でケアするっていう意識は少ないし、むしろ競争し合う存在として位置づけられている。一方で「女性はケアをしてくれる存在だ」っていう感覚が根強くあると思うんです。そこでモデルになっているのは「母」です。「母」がケアしてくれたという原体験があるので、それを女性にも求めてしまう場合があります。また、それまで女性との付き合いがあまりなかった男性からすると、魔法の薬のように、非現実的だからこそ、そこに救いがあるんじゃないかと思ってしまう。

CC BY 2.0,vincent desjardins,PxHere

非モテ研には女友達が少ないというメンバーが少なくありません。子どもの頃は女友達もいたけれど、小中高と学年が上がるにつれて、女の人との関係がどんどん切断されていく。なぜかというと、クラスメートにからかわれるからです。「〇〇と仲良くして、お前ら付き合ってんのかよ」というふうに、からかわれる。異性との友達関係はそれで切れてしまって、恋愛対象としてしか女性が浮上してこないようになっていくのです。

そういった異性愛主義や社会構造的問題が、女性との距離感をより複雑なものにしている背景としてあります。

自分を否定的にみなしすぎないことから、次の対話が生まれる

花村:私、もう1個だけ最後に聞きたいんですけれども、『モテないけど生きてます』の中で、何人かは「脱・非モテ」のような方向に歩み始めてらっしゃるように読めたのですが、最終的にどのような状態になることがゴールなのか? ある意味、西井さんにとって平和という状態とは何か? を聞くことだと思うのですが、女性を意識しすぎた状態はまだ戦争が終わってない感じがするんです。どういう状態になったら「非モテ」という呪縛から逃れられるのでしょうか?

西井:多分、「脱・非モテ」みたいな言葉は誰も使ってなかったと思うんですね。

僕ら自身、あんまり「非モテ」ということをネガティブに捉えたくないと思っています。もちろん自己否定感とか、女性への囚われとか、男らしさとか、そういうものから全部解放されてサッパリ生きられたらいいのでしょうが、そうはならないという共通認識があります。人間って負の側面とか、どうしようもない愚かさとか、そういうものも抱えざるを得ない存在だと思っています。そういう意味で、あの本はだいぶ綺麗に書きすぎたと思っているような節もあって、「みんなで語り合って、ケアし合ってたら良い」みたいなふうにも読めちゃうんですけど、やっぱりそんな綺麗にいくはずがないんですよね。みんな後ろ暗い欲望や自己否定感もまだまだあって……。だから僕は「解放」みたいな言葉はあんまり使いたくないし、解放しきれないだろうという感覚があります。

ある状態を否定的にみなしすぎないこと。「解決しなければならない」っていうふうに思うと、むしろその方が自己否定感は高まってしまう。「非モテっていうのは良くない状態だから、それを解決しなければならない」と思ってると、それが解決できなかったときに「やっぱり自分は駄目だ」とネガティブな意識が深まってしまう。だから「解決しようとしすぎない」っていうことがまず一つ。しかし、そうは言っても、今度は逆に「非モテでもいいじゃないか」みたいなふうには行ききれないんです。恋人は欲しいし、結婚もしたい。そういう気持ちは当然湧いてくるっていう、中途半端な、つかず離れずみたいなポジションにいると思っているんです。でもそれで良いのではないでしょうか。つかず離れずで、答えが出ない宙ぶらりんな状態のまま、何とか生きていけるっていうことが大事なのかなと思っています。

そのときに、他者との繋がりはやはり重要になってくると思っています。さっき言っていたような、誰かを貶めることで繋がり合うような繋がりじゃなくて、オルタナティブな繋がり方、既存の男性文化とはちょっと違う、そこからちょっとずれたようなコミュニティのあり方ができたらいいのではないかと考えています。

佐藤:ありがとうございます。

最後に、あの、本当に素朴な疑問というか私の興味なんですけど、これまでに女神との対談だったり、非モテ研の中で女神をゲストとして招いて話す、みたいなことってあったんですか?

西井:いや、ないですね。女性参加ありというのはやったことがあるんですけど、女神の話を聞いてみようみたいなことはなかったです。

佐藤:意外です。実はそこにすごく興味がありまして……

西井:え、やったら佐藤さん来てくれますか。

佐藤:はい!ぜひ行きたいです。

西井:いや、なかなか難しいですねって言ってるんですけど。ぜひまたお声掛けさせてください。

佐藤:はい、ぜひよろしくお願いいたします。

西井さん、今日は本当にありがとうございました。

考察

自分とは異なるパーソナリティをもつ他者について考える時に、つい私たちは自分から切り離した対象として認識してしまう。社会的弱者と呼ばれるような立場にある相手なら、なおさらである。しかし、彼らが弱者の立場に置かれているのは往往にして社会の側から規定されていることであり、その原因は必ずしも個人の責任ではないことも多い。そのように社会に流通する既存の価値観や先入観は、世代を経ても似たような状況を再生産していく。それが再生産されないためには、既存の価値観を安直に受け入れるのではなく、時に自分らしさのあるクリティカルな視点をもってふりかえる姿勢が必要だ。そしてそのためには、細部をよくよく観察することが不可欠である。それによって、これまでは見えていなかった微小な現象にも目が留まるようになる。

今回非モテ男性について取材を行なった中でも、ふとした瞬間に垣間見える男性同士の「埋もれている関係性」があるという指摘があった。また、一見ステレオタイプに見える男性同士の会話のやり取りの中にも、本人たちにしかわからない微妙なニュアンスでケアが織り込まれているということもあるだろう。私たちはそれを安易に取り上げて褒めそやすのではなく、発見しながら静かに見守ることができるはずだ。そしてそれらの目に見えないコミュニケーションの繰り返しこそが、いずれオルタナティブな繋がりとして再生産される。きっとその時には、私たちは今よりもう少し安心して他者と向き合えるようになるのだろう。

[資料]僕らの非モテ研究会 開催一覧
非モテ研実施リスト

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