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「何があってもあなたでいい」みんながそれぞれの自然を謳歌できる世界に。 文化人類学者・小川さやかさんインタビュー

Next Wisdom Foundationの今期のテーマは【A piece of PEACE】。そもそも平和とはどういうことなのか? 戦争・紛争、民族等のキーワード以外に、例えば微生物・宇宙工学……津々浦々古今東西多方面から深く問うことで平和の解像度を少しでも上げていきたい。この活動が「平和な世界」への第一歩になると信じて【A piece of PEACE】を探求していきます。

連載8回目は、文化人類学者の小川さやかさんに話を聞きました。

<ゲストプロフィール>
小川さやか
1978年愛知県生まれ。専門は文化人類学、アフリカ研究。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程指導認定退学。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同センター助教、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授を経て、同研究科教授。『都市を生きぬくための狡知―タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社) で2011年サントリー学芸賞(社会・風俗部門)受賞、『「その日暮らし」の人類学』(光文社)『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社) で第8回河合隼雄学芸賞、第51回大宅壮一ノンフィクション賞受賞

人間は打算的でダメなもの、状況でガラリと変わるもの

Next Wisdom Foundation研究員(以下NWF):今回はNWF今期のテーマ”A piece of PEACE”についてお聞きします。小川さんはフィールドワークを通じて、日本とは全く違う文化に触れています。小川さんが現地を訪れて考えていること……おそらく実践的な論理の共通点や寛容性が、”平和とは何か?”という話に繋がっていくのではないかと思っています。

小川さやかさん(以下小川):何から話そうかな……、平和というと大きな話になりますね。
まず平和って別に暴力が無い状態ではないと思うんです。人間にとって、暴力のようなものは回避できない気もしています。「突然、何を言っているの」と思われるかもしれないのですが、暴力を無くすというよりも、むしろ、それぞれの社会において暴力はあるけれど、暴力を永続させないため・エスカレーションさせないために、暴力の発露をどうするか、または暴力を暴力ではないものに変えるにはどうするかの方が大事だと考えています。私がフィールドワークをしている場所では、暴力を根絶することではなく、暴力の存在形態を転換する、ということがなされている気がしています。

私は院生の頃、タンザニアで路上商人の研究をしていました。博士論文を元にした本(『都市を生き抜くための狡知』世界思想社・2011年)では「ウジャンジャ」という、商人が商品を売るための手練手管、ずる賢さについて書きました。私には、ずる賢いとか嘘をつくとか騙すことが一元的に悪になってしまったことのほうが興味深いんです。

人間って、普通に生きているだけで嘘をついていますよね。まったく好きじゃない人に「好きだ」と言われた時に、「今は忙しいから恋愛は考えられない」などと嘘をつく。だって、「あなたは、好みのタイプじゃない」なんて言えないでしょう(笑)。何かうまくいかないことがあった時は、自分自身にも嘘をつくことがある。人間ってそんなに強くないですし。そもそも嘘って、時代や状況が変われば嘘じゃなくなることもあるし、正しいと思っていたことが嘘になることもある。でも、いつの間にか私たちは「嘘は一元的に駄目なもの」ということにした。

暴力もそうだと思うんです。まったく暴力が無い世界って、たぶん、それはそれですごく生きづらいんじゃないでしょうか。だって、人間は生きているだけで誰かに対して暴力を行使しているんです。幸せそうな言動が誰かを傷つけることも、良かれと思ってした行為が暴力になることもあるのです。贈与もそうです。与える・支援するということは、時に相手に抱えきれない負い目を与えたり、相手の尊厳を踏みにじるものなったりする。贈与って毒にもなるんですよ。だから暴力のようなものを根絶するというのは、人間が機械のようになる、無色透明になると言ったことと近いと思います。

ただ、もっと多様な暴力の存在形態とそれを飼い慣らす知恵のようなものが人類社会にはあったのではないかと思っています。平和を、暴力のない世界と考えるのではなく、違う形で考えたいなというのが、私が平和について考える前提にあります。

NWF:小川さんが持っている前提は、小川さんがアフリカで体感してきたものに基づいているのですか? 具体例があればお聞きしたいです。

小川:最近、無条件の条件というものを考えています。朝日新聞出版の『一冊の本』で連載をしているのですが、どこまで何を無条件にして世界は回るかについて考えています。

たとえば、私たちが暮らしている日本からアフリカに行くと、履歴書は無いし、住民票も無いし、国家はきちんと機能していないし……と、無いものばかりです。警察も、私たちの社会のようには機能していないです。そんな状態の中でも、完全に無秩序になるわけではない。何も無い状態で、どこまで彼らが実践的に秩序を作っていけるのかを考えるのが好きです。国家なき社会を探求したり、貨幣がない社会を探求したりしてきた人類学は、異文化を通して翻って私たちの社会にはそれがあることを当然としている物事がなかったらダメなのかと考え直してみるという営みをしてきた。だから無条件の条件を考えることは、人類学のオーソドックスな思考法のひとつだと思うのです。

私が調査しているタンザニアの路上にも暴力はあります。ただ路上商人たちにとって自分たちを取り締まる警察は天敵ですから、騙されたり喧嘩をふっかけられても、なかなか警察には行かないんです。しかし警察に行かなくても、復讐の連鎖が止まらないわけではなく、路上商人の中で「このくらいの暴力はいいけど、これ以上の暴力はやめとこう」と、いろんな形で、上手に暴力のエスカレーションを抑える論理が発動します。

たとえば、彼らは暴動を起こしたり、警察に不条理に逮捕されることがあったとしても、すべての警官に対して抵抗することはしないです。彼らは「オレたちは、道路交通法や都市条例に違反しているし、税金や営業許可料を支払わないインフォーマルセクターだ。自分たちは逃げるのが仕事で、警察官は追いかけるのが仕事だから、個々の警官に文句をつけても仕方がない」と淡々と開き直って言うのです。もちろん彼らも怒ることはあります。ただそれは、自分たちは税金を支払ったり露店を構えたりする経済力がない貧者なのに、問答無用に取り締まられるのは許せないといったものではないのです。例えば、ある日、私の友人の路上商人たちは、路上商人一斉検挙から逃げる時、警官が一番足が遅くて弱そうな若者を追いかけていったことにすごく怒ったことがあります。

彼らは、「狩りをするなら、なぜオレたちを追いかけないのか。田舎から出てきたばかりの少年に狙いを定めるなんて、ここはサバンナか。オレたちは人間なんだから、人間らしい狩りのルールがあるだろう」と言うんです。警官が自分たちを捕まえるのは仕事だから仕方がないけれど、路上商人を捕まえて手柄にするなら、商品を没収されて罰金払って一文無しになっても何とかやりくりできる年長の路上商人にしろと。一番の弱者を狙って捕まえるのは、ダサいじゃないかと。うまく言えないのですが、暴力に関する一般的な感覚は、暴力は絶対に駄目だから無くしていこうと言いつつ、暴力のなかにこれは暴力であり、これは暴力ではないという線引きをすることで、暴力の道徳みたいなものを作り出すものではないかと考えています。

NWF:小川さんは、路上商人の喧嘩の流儀のようなものを成り立たせる環境要因を研究で挙げていると思います。今の日本でも、その環境要因は当てはめられるものですか? タンザニアと日本を比較したりしますか?

小川:そうですね。私はもともとダメ人間なので、人間とは打算的でしくじりやすいのがデフォルトなんです。理想的なヒューマニズムや正義を掲げ、一刀両断に違反や暴力を批判したり非難したりしても暴力は止められないと思っています。こんなこと言って、炎上したらどうしようかと思うのですが……誰でも、むかついてぶん殴りたくなること自体はあるのではないでしょうか。今は、イラッとしてイヤなことを言ったり、人を傷つけたりした時に、手遅れにならないように取り繕ったり、追い詰めないように歯止めを効かせて上手に逸らせたり、対処したりする知恵が少なくなっているように思います。路上商人たちは、程度にもよりますが、暴力自体は起きうるもので自然なものだと捉えたうえで、自他を追い詰めないための知恵や社会的な仕組みを大事にしているように思います。

小川:タンザニアの商人は、私から見るとドライな人間観を持っています。人間はその時々で違うとよく言う。腹が減ったら逃げるし、追い詰められたらキレるものだとあっけらかんと語ります。人間はいつも完璧ではないと考えているから、人が何気なく発言したこと、してしまったことが悪いことだとしても、そのことをもってその人の評価を固定したりはしない。むしろ、人間には晴れの日も雨の日もあるものだ、人間は豹変するものだという前提で、ではその浮き沈みをどのように社会全体で回すかを考えているんです。

例えば、国家がしっかりしておらず、警察が十全に機能していない社会で、ホッブスの万人の万人に対する闘争状態ではない状況にしようとすると、警察に代わる相互監視の共同体を築き、互いが互いを規制することで秩序を維持することが想像されがちですが、それでは息苦しいですよね。流動性の高い暮らしをしている路上商人は、自分も含めて、人間が変わっていくことに賭け、それまでのつきあいを上手に調整することを目指しているように思います。余裕がない時に人は他人に優しくなれないことも、何らかの考えに凝り固まって他者に攻撃的な態度をとることもあります。そうした時に、いきなり攻撃的な他者を否定しはしない。それより少し距離を置いて付き合いつつ、タイミングを計りながら、それはよくないことだと気づかせたり、どのように関係を紡ぎ直したりするかに資する知恵を、彼らは「ウジャンジャ(ずる賢さ)」として評価します。

私たちは失言や不適切な言動をしないように気を配り、それをした人を罰することでそれを防ごうとしがちです。一応、述べておきますが、私も差別的な発言や不適切な言動に対しては批判的なのです。でも、これもそうかもあれもそうかもと不安になり、とにかくうっかり失言でも一発アウトになる状況では、そもそも問題の根源が何かを理解する機会が失われますし、どこかで帳尻が合わなくなって、ボンっと爆発するだけのような気がしているんです。それよりも、人が置かれた状況は違うし、人間は人生を通じて一定ではないことを前提にした知恵を育んだほうがいいんじゃないかと思うのです。ちょっと……難しく考えすぎかもしれませんが。

NWF:いえ! もっとお聞きしたいです。

人はそれぞれに違うことを前提に、社会を組み立てる

小川:ウジャンジャは平たく言うと、その時々の状況を上手に切り抜ける知恵なんです。その時の状況を切り抜けるために、相手の心を読んで行動するということです。一方で、彼らは「どうせ、相手の心は分からない」とも言うんです。互いの内面が分からないからこそ、上手くやれることもあるし、上手くやれなくても人の内面は分からないのだから仕方がない。今の私たちのように「キチッとやろう」ではなく、「とにかくその場を切り抜けることさえできれば、それでよし。次なる困難が来たら、また考えよう」という発想です。

NWF:タンザニアの路上商人たちの最終的な目的は、金儲けにある気がします。一方で、今の日本は、群れること・同調していくこと・周りと協調していくことに目的が置かれているから息苦しいのかなと思いました。路上商人と今の日本では、最終的な目的設定の違いが大きいのでしょうか?

小川:確かに、路上商人はすごく実利主義的にやってはいますね。

NWF:究極的な利己主義が、最終的には利他になるのか……? 利己主義が良いサイクルを回していく歯車になっているのでしょうか?

小川:利己主義……そんなに利己的でもないんですよね。私の話を「情けは人の為ならず」のニュアンスで受け取りましたか?

NWF:ほどよくお金儲けをする、一方で楽しむことにも重きを置いている。でも、他者のためにやっている感じではない、こんなニュアンスで受け取ってます。

小川:『チョンキンマンションのボスは知っている』で下敷きにしていたのが、デヴィッド・グレーバーの議論です。『負債論』という本が出ています。グレーバーは、人間経済と商業経済があって、もともと人間経済は、それぞれの人間が貨幣や数量的に換算できないもの「基盤的コミュニズム」をベースにしていたと述べています。基盤的コミュニズムといっても、共産主義とは関係ないです。もともとコミュニズム的状態にあるというのは、社会的なやり取りをする際にいかなる収支決算もされていないし、それを考慮することさえ不快だ・異様だとみなされているような状態のことをコミュニズムと呼んでいます。コミュニズムは、あらゆる人間の社交性の基盤のようなものとして存在しているのだと言っています。

基盤的コミュニズムを平たく言うと、各人はその能力に応じて貢献し、各人はその必要に応じて与えられるという原理から発しているものです。私たちの日常生活でも、家族や友人に何かをあげる、何かをしてあげるときに、その行為がどれくらいの価値をもっていて、相手がどんなふうに返礼するかをいちいち考えないことはありますよね。そう考えると、基盤的コミュニズムは資本主義経済の中にもあるし、あらゆる人間社会はこの基盤的コミュニズムの上にあるのではないかとさえ思えてきます。タバコの火を貸したら、今度はこれをしてもらおう、ついでにコピーを会議室に届けてもらったから、今度ラーメン奢らなきゃなんて考えず、相手がして欲しいと思っていることで自分がいま無理なくできることを日常からやっています。こんなふうにして人間社会の大部分は成り立っている。会社でも、仕事に遅れた人にいつでも必ず「なぜ君は時間を守れないのか」と怒るわけではなく、時には調子が悪いのかなという感じで、その人が置かれた社会的な文脈やその人らしさに思いを馳せて、一律の基準で物事を図らないことを自然に前提にすることは多々あると思うのです。

でも、個々にバラバラの人生を送っていて、個々に固有の事情があり、みんな違う体と心を持った人たちだという前提で全てを回すのは、商業経済では難しい、近代的な社会システムでは困難だと私たちは考えています。給与を決めるときに「あの人は手が小さい」「あの人は笑顔が素敵だ」「あの人は最近、恋人に振られたばかりだ」などの個々の違いや事情を考慮するなんて不可能だと。いちいち「あの人は今さみしいのだ」「あの人はいまちょっと腰の調子が悪いのだ」と考えて、発言の背景を斟酌しはじめるときりがないと。結果として、共同体や社会、会社や経済を動かしていくことを想定する段階になると急に、社会的背景や私的な事情や個性を持たず、形式的にみんな同じで平等だと仮定するようになる。そうしないと、業績や生産性を測れなくなってしまう、近代的なルールのもとで社会の秩序を築けないと。これに対してグレーバーは、こうした個々人が置かれた固有の状況から人を引き剥がすことに暴力があるんだと話しています。

私が調査をしているタンザニアの商人たちは、基本的に、個々が置かれた社会的状況からなるべく人間を引き剥がさずにやりくりしていく方法で生きているんです。モノの値段も、人によって違います。私たちからすると、同じモノの値段が人によって違うのは不平等だと感じますが、彼らからすると「世の中にはお金持ちと貧しい人がいて、お金持ちでも病に陥って大変な状況にあるときもあるし、貧しい人にも急に懐が温かくなる日もある」ということになる。その時々の、その人の状況に応じてモノの値段は変わるものだがふつうなのです。香港のチョンキンマンションに滞在してアフリカ諸国と交易をしているタンザニアの人々も同じです。取引ツールとして使うSNSを見ながら、配送が遅いとか、画像と違う商品が届いたとか、そういう理由で「この業者はダメだ」と烙印を押すのではなく、今は羽振りが良い状況だとか、困難を抱えている状況などを想像し、誰と取引をして、いくらで買うか決めたいと思っている人たちです。

資本主義経済のなかで競争的に生きていても、弱い人々からぶんどるのが自然にならないようなある種のモラルが彼らのあいだにはあると思うんです。状況に応じて人間が変わっていく、豹変するというプロセスそのものを、雨の日の人がいれば晴れの日の人も必ずいるという大きな社会の中でうまく帳尻を合わせていくことで、彼らなりの秩序を作っているように思っています。

NWF:資本主義にどっぷり浸かっている身としては、タンザニアの路上商人のような、人間性が引き剥がされない経済の回し方に憧れもあります。資本主義による大きな経済と、人間性を引き剥がさない経済は並走できるものですか?

小川:そうですね、すべてをそれに還元するのは無理だけれど、並走ならできると思います。私たちは、いろんなものを数量的に貨幣などに換算している社会に生きているので、タンザニアの路上商人の暮らしを奇異に感じるかもしれません。でも、人間を形式的に同じものだとみなさないことをどこまで徹底するかは別として、人間はある程度、違うものだということを前提に経済や社会を組み立てることはできるのではないかと思います。いまAさんは病気で、Bさんは健康だから、レストランの同じ食事を、Aさんは300円、Bさんは1,000円にする。それで帳尻が合うのなら、それで良いと思います。私たちも親しい者どうしのおごりあいでは、普段からやっていることですよね。

多様性があれば、生きていけない人はいなくなる

NWF:人権や民主化、法治国家などルールで社会を維持しようという西洋の考え方と、もっと生物として人間を見てバランスを取ることで平和を維持するというのは、まったくアプローチが違います。小川さんの話を聞いていると、平和とはバランスのある状態なのかなと思いました。どうやってバランスを取るか。近代的なツールを使い社会システムとして強制的にバランスを取るのか、もっと人間の本能でバランスを取っていくのか。

小川:私はアナキズム人類学の文献に親しんでしまったので(笑)、ルール・規範・制度などで管理統制されることがどちらかと言うと苦手です。人類は、けっこう上手くやっていける仕組みや知恵を持っていると信じているからです。たとえば、私たちから見るとズルいと感じるのですが、タンザニアでは全く借金を返さない人がいっぱいいるんです。でも、借金を返さない人=悪というふうには思わないわけです。まず借金をどのように返すか、誰が返すか、いつ返すかをもっと柔軟に想定しているのです。

突飛かもしれませんが、商人はたくさん掛け売りをしていますが、ツケは必ず返ってくるわけではありません。ツケはふつう商品代金の支払いを先延ばしにする契約ですが、タンザニアの商人たちは、ツケを商品代金の支払いと時間の贈与の組み合わせとして捉えているように思います。私は、あの人はいつまでもツケを返してくれないのだから、ツケは焦げ付いたと考えます。そして彼らに「なぜ強硬にツケを取り立てないのか。返す人がいて返さない人がいるは不平等だ」と問いかけます。それに対して彼らは、「ツケはいつか返してもらう」けれども「ツケを返すまでの時間はあげてしまったものなので、急に取り上げることはできない」と言うのです。私たちもプレゼントのお返しを自分の都合で請求したりしないですよね。そのうえ、彼らに言わせれば、贈与した時間の流れや価値は、人によって違うのです。レンタルビデオを借りたら、私たちの社会では借りた時間に応じて均一に料金が増えていきますが、人が生きている時間の感覚は不均質です。楽しすぎてあっという間に過ぎることも、遅々として時間が進まないこともあります。体調の変化でも時間は伸び縮みしますし、抱えている事情によっても時間は停滞したり加速したりします。そういう個々の時間感覚に応じて、ツケを返せるタイミングは変わります。また、ツケが現金の形で返ってこなくても、かつてツケをしてあげた人が将来、パソコンの修理をしてくれるとか、農業の仕方を教えてくれるといった別の形でお返しをしてくれることもあります。商売上の金銭的な帳尻があっていなくても、私たちは稼いだお金で生活しているわけですから、パソコンを無料で直してくれるという返礼でも生活全般では帳尻があっているわけです。

もっと積極的に考えれば、ツケを返してくれない人は、自分にとって借りを作っている人だけれど、とにかくたくさん借りを作っている人間が増えていけば、その分、何か困った時に助けてくれる人が増えていくこととも言えます。その際にみんなが贈与した時間で成功しなくてもよい。人生は山あり谷ありであるから、支援した人びともいろんな仕事をして、いろんな考え方を持つようになる。でもピンチに起業を支援してくれる社長だけがありがたいわけではなく、詐欺に遭いそうな口を教えてくれる詐欺師だって、自身が病気になった時に病との付き合い方を教えてくれる人だって大切です。それぞれの人生で得た知恵や知識、技能、考え方を自身が必要とした時にそれが可能な人が返してくれたら、自身がどんな状況になっても生きていける可能性が増えます。むしろいろんな人が各々でバラバラの人生を歩んでいてくれるほうが、安心です。自分に借りを持っている“自分の分身”みたいな人たちをたくさん増やしておけば、どんな人生の岐路に立とうと、その時の自分と合致する人が必ず人生の先にいるんだと思える。こんなふうに帳尻を合わせていくと、借金が今すぐ返せないとか、助けたのにさらなる失敗を重ねたといった事態も肯定的に受け止める余地が生まれ、どうなるかわからない他者に賭けることを合理化します。そこに広義の平和みたいなものが現れるのではないかと思うのです。

自分の人生は露天商で終わっちゃうかもしれないけれど、自分の借りを持っている人が異なる人生を歩んでいれば、自分の人生は一つだけど、いろんな人生の可能性に波乗りできる。人生多様化戦略です。それは、たくさんの人生を歩めるのではないかという希望だと思うんです。

NWF:そういう社会が、ルール化された社会の波に飲み込まれる可能性はあるのでしょうか?

小川:もちろんルール化は押し寄せていますが、その波にはあまり乗らない気はします。そう言うと「彼らがまだ貧しいからではないか」とよく言われるのですが、貧しいことはあまり関係がないと思います。それよりも、未来の不確実性をどう考えるかだと思います。彼らは、成功して銀行口座にお金がいっぱいあると、ますますツケを放置するんです。リスクヘッジは余裕があるときにこそしておくものですよね。万が一、銀行が潰れても紙幣が紙くずになっても、ツケを回収すれば食べてはいけます。人間に賭けておいた借りはその人が死なない限り、現金でなくても、何かの形で返ってきます。

NWF:資本主義の中にいる私たちは、人間よりもプラットフォームのほうがギリギリ信用がおけるかもしれないと思っている気がします。利子はマイナスになりつつあるけれど、人に預けるよりは、まだ銀行に預けておいたほうが何かが担保されるのではないかと思っている。路上商人たちは、タンザニアのプラットフォームに信用がおけないから人に借りを作るのでしょうか? そもそも全く違う論理で動いているのでしょうか?

小川:いまタンザニアではECコマースが急速に浸透しつつありますが、同時にSNSを使ったビジネスも盛んです。Instagramで商品画像を出して、欲しい人とWhatsAppでチャットして、Bolt(バイクタクシー等)でその日のうちに宅配してもらう。このようなSNSビジネスには店舗を持っていない商人たちも参与しています。確かに匿名アカウントの有象無象の商人から買うとしばしば詐欺にあうので、彼らはInstagramなどで商品を買う時は、欲しい商品を探すのではなく、知り合いの商品を探す傾向にあります。正規のプラットフォームならば、安心して好きな商品を買えるのではないかと聞けば、彼らは既存のプラットフォームだと人間的なやり取りができないと言います。例えば、Amazonでお酒を買うと、アルコール依存症だとか金銭的に厳しいかなどの個人の事情に関わりなく「あなたにおすすめ」とアルコールを勧めてくる。それに対して、SNSで知り合いの商人から買う場合、お前は酒を飲みすぎだと止めてくれたり、家賃の支払いが近いんだから今日は安いのにしておけと助言してくれる。そういう人間的なやり取りの方が断然安心なんだと。

知り合いの商人たちは懐具合もわかるので、余裕があって心に隙があるとぼられることもある。その代わり自分が本当にピンチのときは安く売ってくれる。これは、プラットフォームに対する信用とは違う種類の信頼なんです。

形式的な平等・本当の平等

NWF:AIが目指している世界はそれだと思うんです。人間同士のコミュニケーションが一番良いに決まっているけれど、それができないからAIやシステムを使う。AIが高度になるほど、人間に近づく。AIが目指してるのって、そういう優しさなんだと思います。結局、やっているゲームが違うだけなのかもしれません。資本主義という一つのゲームがあって、タンザニアには全く違うゲームがある。一つの社会に、二つ以上のゲームがあってもいいと思うし、二つのゲームを行ったり来たりしてもいい。

小川:面白いですね。確かにAIが本当に個人の事情や背景、その人が置かれている状況まで配慮して人間的に商売をしてくれるなら、タンザニアの人は乗ると思います。最高だなって(笑)。

NWF:AIはデータしか扱えないので、AIが進化するには世の中の全てのものを情報化する必要がありますが、実際にはそんなこと不可能ですよね、だからグレーゾーンも必ず発生します。今はいろいろな情報技術が生まれていますが、結局は人間同士の生のコミュニケーションがITの理想形なのかもしれません。集団の規模やコミュニケーションの総量が大きくなるにつれて人工的な「システム」で代替させる必要性が出てきただけで。

実際には日本の中にもタンザニア的なコミュニティが残されていたり、新たに作り出そうという試みがあったりします。最近でも、商品に価格を設定するよりドネーション制にしたほうが多くのお金が集まることもあったり。人間経済的なものが資本主義の原理の中にも生まれてきている気がしますね。

小川:そうなんです。暴力や平和の話についても、たとえば、SNSで「今この人がこんな発言をしたのは、こんな背景があるからではないか」と想像力を働かせてくれるAIだったら良いと思うんです。とにかく暴力はいけない、不適切なことは一切言ってはダメと規制するシステムをAIで監視したら、グレーなところがないと生きづらい人間は疲れてしまいそうです。自分だって失敗して機嫌が悪いときはあるわけで、そうした人生の谷間において少し物理的・精神的に余裕がある人からない人へと上手にモノやサービスや愛!を回してくれるというかたちで調整していく社会的機能が、タンザニアの人たちにとっては平和なのだと思います。

NWF:平等は不平等なのかもしれません。

小川:そうですね。人間は平等で同じだと言うけれど、本当は不平等です。だって、世界は不条理ですよね。なんで私の大切な人が病気になったのか、なぜ大事な時に限って雨なのかは、誰にも説明できないですよ。

NWF:本当の平等は、個人個人に寄り添わないと達成できない。

小川:どこまで寄り添うのかという問題もあります。全てを考慮に入れるとパンクする。それでもやっぱり、ひとり一人が代替不可能な個人であると思ってもらえる社会のほうがいいなと思います。暴力は承認を巡る闘争の中でも加速します。基本的に私たちの社会は、所有物というものを基盤において承認を得る競争的な社会になっていると思うんです。たとえば、地位や業績、富や財産もそうです。でも、タンザニアの人たちは資本主義経済で稼いだお金の多くを分配してしまう。タンザニアの銀行預金率は20%です。成功者もいっぱいいるし、中間層も拡大している。その人たちが何をしているかというと、稼いだお金を様々な事業に投資し、その事業を仕事のない者たちに任せたり、必要な人びとに贈与・分配している。なぜそんなことをするかという背景には、先ほど話したサバイバル戦術だけでなく、所有物を基盤とする承認ではない、承認を得るためではないかとも思うのです

彼らのほとんどはインフォーマル経済で、少なくともグローバル経済における評価軸では、学歴も特別な技能もない、資本も小さい、地位も肩書もないということで、承認を得にくい人々です。がんばって稼いで成功しても、不安定な政治経済環境なので些細な出来事で有象無象の「不安定労働層」に逆戻りしてしまう。そうなった時に贈与することは手っ取り早く承認を得る行為でもあると思います。誰かとの競争に勝つことや、誰かから何かを奪い取る暴力によっても承認は勝ち得るけれど、贈与を通じた承認はもっと手軽にできる。露天商が卸価格で売ってあげるとか、タクシー運転手が乗車賃を安くしてあげるだけで、その行為を受けた人にとっては、彼は“かけがえのないあなた”になるわけです。何かを与えることによって私が誰かにとってかけがえのない人間として承認される、それは誰でもできることです。たとえ、資本主義経済では負けても、少なくとも誰かにはかけがえのない人だと思われていると知っていることは幸せです。

買い物に行く時に「あなたからお代はもらえないよ」「いつもありがとう」「君が生きてさえいてくれれば私は満足」といったことをあちこちで言われながら日々を暮らす。それはもう、心の安定です。もちろん商人たちだって、資本主義経済の中で生きているのだから、生産性を上げるとか、多くを稼ぐとか、富裕者になるといった成功は当然大事ですし、そのような形で成果を挙げたり富をなしたりしたら評価されたいと考えています。でも彼らにとって市場競争は厳しいだけでなく、突然、補償もなく政府が特定のビジネスを禁止する、国際的な取り決めで急に特定のビジネスが禁止されるといった不条理にも溢れたものです。万が一経済的な競争から零れ落ちた時に、何者でもない私でも必ず誰かに必要とされ受け止めてもらえるという基盤をどう築くのか。だから彼らは、資本主義経済の只中に贈与経済の論理を組み入れることで、私という特別な自己を承認してくれるものを築く。いかに多くの、あるいは希少なものをもつかを基盤に置いた承認システムを、贈与を通じていかに自身を受け入れる人間をたくさん作るかという承認システムに変換する。そして、そこでの承認を、また厳しい市場経済で生き抜く原動力に変換するのです。

NWF:人の役に立っている実感が、社会に存在していく杭になっていく。それを、理論云々ではなく実地で生きてやっていると思うと圧倒されます。

小川:ただ、どれだけ役に立ったかという成果の比較になると、資本主義経済の論理にどっぷり嵌るんです。「この人たちはこんなにボランティア活動をしたから偉い」というふうになると、急に大変になってしまう。でも日々を生きていくためにささやかな承認を必要としているのは自分であり、自分が欲しい承認をくれる人を自分ができるときに無理なくつくればそれでいいはずです。

それぞれの人が、それぞれにとっての自然を謳歌できる世界

NWF:西洋的な価値観の枠組みで、タンザニア社会を一方的に評価はできないですよね。西洋社会が前提としている「個人」の考え方もそもそも違うのではないでしょうか。

小川:先日、所有論の論集に論文を寄稿したのですけど、私の身体は私のもので、自分の労働を投下して得られたモノは私のモノ、というロック流の私的所有の考え方は、必ずしも普遍的なものではないと思うのです。マルセルモースが贈与論で取り上げた「ハウ(精霊)」のように、贈り物には人格が取り付いていて、手放したからといって自分のモノでなくなったわけではない。形が変わったとしても自分のモノであることもある。だから、モノが自分の手から離れたって構わないという価値観は、私的所有物をどれだけ持つかという世界と違う想像力に根差しています。

たとえば、私たちも手編みのマフラーには何かがついていると思いますよね(笑)。怖くて手編みのマフラーを捨てられない人もいると思います。師匠からもらった道具というのも、師匠の思いが乗りうつっているわけで、ちょっと悪いことに道具を使おうとすると師匠が怒っているような気がするからできない。これって、師匠は道具を弟子にあげることで、モノを介して弟子の人生に働きかけているということです。モノが単なる商品ではなく、その与え手や、場合によっては作り手の何かがついていると考える社会において、モノを手放すとか自分のモノとして独り占めすることは異なる意味を持ちます。

タンザニアの人たちは、仕事がない人に道具を買い与えます。それは、生活費をたかり続けられるよりはマシだし、仕事をさせて自立させた方がよいという理由もあるけれど、自分がその人のために荷車やミシンなどの資本を投資すると、道具をもらった人は「あの人が私のために道具を用意してくれたおかげで、自分は生き延びられた。この道具をくれた時、自分にこうなってほしいと願っていたんだな」という与え手の思いと共に生きるわけです。もちろん贈与したモノのすべてに与え手の魂は宿りません。けれど、生きていく術がない、再起を図るチャンスが欲しい、門出を祝福されたい、といった相手にとって重大な局面で与えたモノには魂が宿ることが多いのではないでしょうか。そうやってここぞという時にここぞという支援をして、自らの弟子筋・ファン・フォロワーを作っておくのは、自分の生きた痕跡を作っていくことに近しい営みです。私はダメになっていくかもしれない、衰えていくかもしれない。でも、助けた人が別の人を助け、その人がまた別の人を助け、弟子が弟子を育て、その弟子が弟子を育て、という事態が続いていけば、それこそ、私だけの系譜、私だけの生きた痕跡となっていきます。

これは、家を建てるとかモノを所有するよりも、もっと根源的な人間の欲望や野望です。結婚して子どもを産むだけではなく、私自身の痕跡を何らかの形で残したいという欲望にダイレクトに関わっている営みで、その行為を通じて、人々がそれぞれの人に思いを馳せることができるのなら、それで良いんじゃないかと思うんです。

NWF:人生をずっと一つの物差しで生きる必要はないんですね。

小川:いろんな人が生きているのだから、いろんなシステムがあった方が絶対にいいと思うんです。世界が好戦的な人ばかりになるのは嫌ですが、でも好戦的な人を絶滅させるよりも、分かり合うことはできないけれど、とりあえず共に存在するだけは許せるように模索し、万が一自分の生命権が侵されそうになったときに、好戦的な人が頑張ってくれるという世界にしておいた方がいいんじゃないかと……ちょっと都合の良い危険思想でしょうか。ただ、”ちょっと危ない考え”というのも、この世界の、現代の価値観の中だから危ないのであって、未来社会でも本当に危ないかどうかは分からないですよね。今の社会のルールや規範に合わない人たちが、今とは変化した未来の世界のルールや規範にあっている可能性はゼロではないでしょう。皆が同じ方向を向いた社会より、異質な方向が潜在する社会のほうが、私はシステム的に安定的だと思っています。

NWF:最後に、小川さんが考える平和とは何ですか?

小川:私が思う平和……そうですね。それぞれの人が、それぞれにとっての自然を謳歌できるような世界でしょうか。うまく言えないのですが、働きたい人も働かない人も、一人でいたい人もみんなでいたい人も、殴りたい人も殴りたくない人も、その状態がそれぞれの自然だったら、それでも生きていけるように共存できる社会。もちろん殴りたい人に殴られるとめっちゃ困りますから、枕とかサンドバックとか違うものを殴ってくれるように調整しないといけませんけれど、私たちの社会がそれで崩壊しない限りにおいてそれぞれにとっての自然をできる限り謳歌できるように、社会的知恵もテクノロジーも総動員できている状態が平和なんじゃないかな。

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