ARTICLES
第3世代のAIの登場で人工知能が私たちの生活に入り込み、インターネットを通じて人々が繋がる現代社会の中で、宗教のあり方はどのように変わっていくのでしょうか? もしくは、時代の流れには関係なく変わらないものなのでしょうか? また、AIが宗教化するようなことはあり得るのでしょうか? 今回は、これまでインターネット寺院『彼岸寺』や、お寺カフェ『神谷町オープンテラス』などを立ち上げ、僧侶のためのお寺経営塾『未来の住職塾』を運営し、新しい時代の仏教を切り拓いている仏教者、松本紹圭さんにお話を伺いました。
<ゲスト>
松本紹圭さん
1979年北海道生まれ。東京大学文学部哲学科を卒業後、自ら仏門を叩く。在学中の2010年、ロータリー財団国際親善奨学生としてインド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講。2013年、世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leaderに選出される。著書に『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』(ディスカバートゥエンティワン)他。
仏教を宗教の枠から開放したい
NWF:松本さんは、僧侶としてはユニークな経歴をお持ちです。
松本:そうですね(笑)。最近、オウム真理教関連の死刑執行が話題になりましたが(※2018年7月にインタビュー実施)、地下鉄サリン事件の時、私は15歳でした。もともと母方の実家がお寺なので、人類の叡智の集積としての仏教に対してはポジティブな感覚を持っていましたが、仏教を名乗っていたオウムが起こしたあの事件をきっかけに、宗教に対する疑問も抱くようになりました。人の暮らしや人生の価値観を豊かにするはずの宗教が、なぜこんな事件に繋がってしまうのか、と。だから、実家はお寺ではありませんでしたが、伝統仏教のお坊さんになって、内側から状況を変えていこうと思ったんです。
伝統仏教が宗教というカテゴリーに置かれた瞬間、行政や教育などからアクセスできないものになってしまいます。たとえば公立の学校で学ぶのは、せいぜい法然や道元といった日本仏教祖師の生没年で、その思想にはほとんど触れませんが、これはすごくもったいないと感じています。
一つの方向性として、仏教は宗教をやめてしまえばいいのではないか、と前から思っていて、その問題意識を神社の友人と話し合ったことがあります。彼は「神社は自分たちを宗教だと思っていないし、自分たちのことを宗教者という自己認識もない」と言うんです。「入信するも何もないし、信者を獲得するというものでもない。来る人がお参りするだけの場で、囲い込みという発想もないから、宗教法人という枠にはめ込まれるのはすごく居心地が悪い」と。僕は、この意見にとても共感しました。
考えてみれば、神道って「神教」にならなかったんですよね。一方で仏教は、古くは「仏道」と呼ばれていたものが、明治期に入ってキリスト教やイスラム教といったreligionに出会う中でつい「仏教」と名乗るようになってしまった。Religionの語源は「固く縛る」といった意味だそうです。本来は人の心を自由にするはずの仏教が、宗教というカテゴリに縛られてしまっているのではないかと。神道にはいわゆる教義がありません。環境的宗教であり、自然的宗教であり、広い意味では宗教的なものですが、別に宗教=religionの枠にくくる必要もないと思うんです。だから仏教も本来の「仏道」として、神道とともに『宗教(religion)じゃないよキャンペーン』を展開してはどうかと思うんです。
NWF:確かに多くの日本人は、仏教は宗教だという認識を持っているかもしれません。
松本:企業の福利厚生プログラムとしてヨガなどと並んで坐禅を入れたりすると、「宗教だから問題あり」と判断されてしまうことがあります。教育現場だとその線引きはより厳格になります。仏教が宗教であることが、仏教の叡智に触れることを阻害してしまっている。それは不幸な状況です。だから、あえて「仏教は、宗教をやめてみませんか?」というわけです。
とはいえ、実際にお坊さんになってみると、最終的に「入信しますか、しませんか」を問われるという点では、日本の伝統仏教は、確かに宗教っぽい側面も十分に備えています。「仏道」が「仏教」と呼ばれるようになれば、中身も変質していくのかもしれません。「仏教は宗教をやめる」といっても簡単ではないです。
「教祖の言うことは正しい」「全ては教祖のおかげ」というメンタリティは、程度の差はあれ「イズム的宗教」で、そういう“宗教っぽさ”はどんな世界にもあります。企業や官僚組織だって、閉鎖された狭い環境であればおかしくなっていきます。例えば、社長が作詞した歌を社員が毎朝歌わされていたら、それだってほとんど宗教じゃないですか。多くの人はそういうものに疲れています。むしろそういうねっとりしたものを離れて、こころを整えようと訪ねたお寺も同じ構造だったら、それは救いがないですよね。
しかし、SNSなどの情報ツールの発達やグローバル化により、そろそろそういうイズム的宗教が通用しない時代になってきていると思うんです。声を上げられず、おかしいと認識もできないような村社会や会社組織の抑圧構造を破壊する大きな流れができて、「MeTooムーブメント」や「アラブの春」などに繋がっていったと思うんです。
NWF:二項対立構造や英雄的存在を作って「信者」を募るのではなく、自分の頭で考えることを促す、ということでしょうか。
松本:そうですね。仏教は歴史が長いために色々と雑多な要素が混ざり込んでしまっていますが、その根幹を「仏道」と呼ぶことにしましょう。ブッダの道です。ブッダとは「目覚めた人」という意味であり、仏道は私がブッダになる道、目覚めていく道です。「自灯明法灯明」というブッダの言葉があります。自らをともしびとし、法をともしびとして生きなさい、という意味です。ここで言う「法」は誰かが作ったイデオロギーではなく、道理のこと。誰かや何かに依存するのではなく、自分の足で生きていくんだよ、ということです。
「イズム的」なものに染まると、だれかの考えを自分のものであるかのように振舞う人たちがグループを形成するようになりますが、仏道はそういうものではありません。当然ながら、ブッダは信者を増やすことに執着したり、教団の権勢を誇示したりは決してしませんでした。「私は、みんなが川を渡って悟りの世界に到達するための筏にすぎない。いつまでも執着せず、渡ったら捨てなさい」と言っているくらいです。何かに依存せず、自分の頭で考えて、自分の足で歩きなさいと。でもこれは、別にエゴの話でもないし、自己中心的な話でもありません。「自分イズム」からも離れていくことが大事です。
多くの人が、これまでに受けた教育や育ってきた環境、社会の仕組みなどによって、いつの間にか自分ではなく他人の物差しで生きるようになってしまいます。就職活動でも自分の市場価値を示せなどと言いますが、自分を市場に合わせているうちに、いつの間にかその価値観を内面化してしまうわけです。システムに依存していく、とも言い換えられます。仏道は、そういった依存から自立する道です。
NWF:自分の尺度を、道理を基準に持ってもいいのではないか、ということでしょうか?
松本:はい。まずは自分がどういうシステムに、どういう価値観に縛られているのか、気付いていくことです。
ブッダになる道、悟りに達するための道には8つのステップがあると言われます。その最初に言われるのが「正見(しょうけん)」です。正見とは、正しく見るということ。といっても、正しい物差しを当てて良し悪しを判断するのではなく、いいも悪いもなく、物差しを持たずにただありのままに見ることです。言うは易しで、実践しようとすると難しいのですが。
AIは、宗教に代わる心の拠り所になる?
NWF:「AIと宗教」を考えることは、「人間とはなにか」を再定義することでもあると思うんです。AIが将来的に社会基盤になったとき、AIが「正見」になる可能性はありますか? 以前に、AIやロボットをテーマにした作品を多く描いていらっしゃる漫画家の業田良家先生にインタビューした際、「風水や占いなどの実現可能性をAIが計算で導き出せるようになったら、人はAIが『こういう行動をとればこういうことが起こる』と判断したことを信じるようになる。つまりAIが、宗教に代わる拠り所になっていく可能性があるのでは」とおっしゃっていたんです。
松本:AIが「正見」をするかどうかは、あまり考えても意味がありません。それは人間がブッダになるステップとして示されたものなので。でも、AIが既存の宗教に代わる人の拠り所になっていく可能性は、あるのではないでしょうか。そういえば、Googleの元エンジニアが、AIを神的な存在とする宗教団体を設立したというニュースがありましたね。創造主としての絶対神ではなく、ディープラーニングで進化する神。一神教的な宗教に親しんでいる人が考えそうな発想です。
実際ディープラーニングが進化すれば、AIはどんどんブラックボックス化していくでしょうし、今日食べるものから選挙の投票先まで意思決定をAIに委ねる人も出てくるでしょう。確かに気持ち悪いことかもしれませんが、似たようなことはこれまでの人類の歴史でも繰り返されてきたことです。自分で物事を決められず、何でも占い師に頼ってしまう人と、大差ないのではないでしょうか。
NWF:委ねる相手がAIに変わるだけ、ということですね。
松本:そう。人間は相変わらず迷っている、という話です。ケン・ウィルバーという哲学者が、宗教には、水平方向と垂直方向の機能があると説明しています。まずは水平方向とは何か。これは、自分の力で思い通りの人生を生きて満たされていたら宗教はいりませんが、人生はほとんどの場合思い通りにいかないし、起こって欲しくないことが必ず起こります。その究極が親しい人の死でしょう。それにより「こうありたい」と思っていた物語が破綻して、大きな喪失感が生まれます。
例えば自分の子供を亡くした方が、何をしても子供が生き返るわけではないけれど、それでも何かしてあげたい。そういう時、お葬式や法事などを勤めることで、死者との関係が新たになり、徐々に日常の物語が修復されていく。宗教のそういう役割を「水平」と表現しています。実際のところ、ほとんどの人にとっては「葬式仏教」ともいわれるそうした水平方向の機能で十分なんです。
しかし、人数の割合としては多くはないかもしれませんが、水平のプロセスをさらに俯瞰する人がいます。物語が破綻するたびにまた次の物語を追いかけたとしても、結局は同じことを繰り返すばかりで何も解決せず、最終的には死ぬだけではないか、という事実にハッとする人がいます。そんな水平方向に広がる物語の輪廻から抜け出したいと思ったときに必要とされるのが、垂直的な方向です。そこに仏道が始まっていく。AIは、この垂直的な方向にも活用できる可能性があるのではないでしょうか。
NWF:具体的にどういうことですか?
松本:日常的な物語を補うという意味での水平方向だけでなく、悟りへと至る垂直方向のサポートとしてもAIは活用できるということです。例えば、ブッダになる道は、さまざまな気付きを得ながら歩んでいくものですが、それには良き先輩や仲間が大切です。私たちは今は亡き先輩方の言葉に、本を通じて出会います。同じ本でも、時間を置いてもう一度読むと、当時と今では感じるものや気付くことが全く違ったりしますよね。その人の状態や問題意識に応じて、その人の気付きが深まるオススメの本を提案することなどは、ビッグデータとAIである程度できるようになるかもしれません。
NWF:そういう意味では、さっきのお話にあった「正見」にもAIを活用できるかもしれない。
松本:AI自体が正見するという意味ではなく、人間が正見に至るプロセスをAIがサポートするという活用ならできると思うんですよね。自分にとって役立つかどうか、という話ですから。AI自体は単なるシステムなので、まずどう活用していくかを議論する方が重要だと思います。
「聖地」が、置き去りにされた「身体性」を取り戻す
NWF:AIを使うことで、人間は生きやすくなるでしょうか?
松本:上手に使えば生きやすくなるでしょう。
NWF:上手に使えるかどうかは、その人の素地次第ではないでしょうか。俯瞰して見られないと、示唆があっても気付きに至るのは難しいかもしれませんね。AIを上手に使える人を育てることに、日本の仏教や神社が役立つのかもしれないと思うのですが、将来的に、お寺や神社の役割は変わりますか?
松本:あまり変わらないかもしれません。ただ、仮想現実の技術が進化して、バーチャルなものが増えれば増えるほど、ずっと人が祈り続けてきた物理的空間であることの価値は高まるのではないでしょうか。「聖地性」とでも言うのでしょうか。バーチャルが進行すると身体が置き去りにされてしまうので、そういう時代にあって置き去りにした身体を救うためには、聖地性が重要になるだろう、ということはなんとなく考え続けています。
NWF:昨今、頭でわかるだけでなく、体感・経験の重要性が説かれていますが、そういうことに近いのでしょうか?
松本:そうですね。最近、光明寺では「Temple Morning(朝掃除の会)」をやっているので、よかったら来てみてください。毎回、私のTwitterで案内しています。朝7時半から8時半までやっていて、そこにはいろんな人が来ます。近隣のオフィスで働く会社員、主婦の人、学生さんとか、いろいろです。フリーランスで自宅で働く人とかは、放っておくと誰とも話さない日があるから、朝のスイッチを入れるために来ている人とか。
先ほど「聖地」と言いましたが、聖地は最初から聖地としてあるわけではなく、聖地に「なって」いくものです。朝掃除の会にしても、最初はお寺と縁もゆかりもない人が掃除を続けるうちにだんだん愛着を持つようになり、光明寺がその人にとって「私の聖地」になっていくんです。
過去に数えきれないほどの人が自分の聖地として祈りを捧げ、通り過ぎて行った場が、お寺や神社です。つまり、身体的な関わりがある場が聖地になるんです。「私の聖地」を持つことは「私の身体」が拡張していくような感覚でもある。自分が同様の体験をしないとなかなか実感できない感覚ですが、そのためにも掃除はとてもいい実践なんです。
NWF:例えばいま、「AIによって職を奪われるのでは」というトピックが注目されていますが、そのとき人は何をするのでしょうか。 働かなくなるのか? 働くと言う概念自体が変わるのか? 私たちが毎年開催している「ケイザイ祭」というイベントで、今度はそんなことを考えてみたいと思っています。松本さんは、そのとき人は何をすると思いますか?
松本:好きなことをすればいいと思います。ただ、そう言われて困る人は多いでしょうね。日本人は無宗教と言いますけど、私からすれば、「努力教」「我慢教」を信じている人が多いですよね。あれはしんどい。しかも、上の世代が下の世代に「私たちがこんなに我慢してきたのだから、お前達もすべきだ」と押し付けることで、輪廻していく。生産性も上がらないし、ハラスメントも増えるだけなのに。
これからの時代に力を入れたいのは「抜苦与楽(ばっくよらく・苦を抜いて楽を与える)」です。仏教において、苦とは「思い通りにならないこと」という意味。「自分の人生を思い通りにしたい」という苦は自然と生まれてしまうものですが、それをほどいていくんです。
NWF:どうやって「抜苦与楽」するのですか? 気付きを促す? または、こちらから積極的に教えるのでしょうか?
松本:気付きのきっかけになることはできるかもしれませんが、誰かの代わりに気付いてあげることはできません。仏教はすでに答えのありかを示してくれていますが、答えだけ聞いても意味はなくて。本人がいろいろなことを経て当たり前のことに自分で気付き、腹落ちしないと苦は抜けないですよね。例えば私は、進路に迷う学生さんに、よくこんな話をします。
多くの人が、夢を語ることや目標を持つことはいいことだと思っています。でもそれは、「今」を否定することでもあります。「ならなければいけない自分がある」ということは、「今のままではいけない」と言っているわけですから。夢を持つことを否定するわけではありません。それでモチベーションが上がり、生きる気力が沸いてくるならいいんです。ただ、夢が叶わなかったら失敗の人生だったかというと、そうではない。夢に到達することが全てではないし、たまたま今の状態になる以外の選択肢がなかっただけである。
こんな話をすると、学生さんたちは何か気づくことがあるみたいで。そんなふうに、何か人に気付きのきっかけを与えるということに関して、AIを活用する余地は大いにありうると思います。
NWF:活用はするけれど、代替はできないのでしょうか?
松本:AIであれなんであれ、私の気付きを他人が代替することはできません。「ぼくは忙しくて時間がないから、あなたが代わりに坐禅しておいてくれ」というようなものです。AIは活用することにしか意味はありません。誰かに気付きのきっかけを与えるということに関して、その相手が私としゃべるよりAIとしゃべった方が気付きが多いというなら、私の役割をAIが代替するということはあり得ますし、それはそれでいいと思います。それだけの話です。
AIが普及すればするほど、人に対する興味は深まる
NWF:VRの技術を使ったゲームをやると、身近に宇宙を感じたり、永遠なるものに想いを馳せることがあります。そこから、「人間とは何か」「人生とは何か」といったことを考えたくなる人が増えるような気がします。
松本:時間を切り売りして生計を立てなきゃいけない時代は、「人生とは」を考える前に、まずは飯を食えないとしょうがないので、働くことが優先され、考えないことの言い訳になっていました。しかし、AI等のテクノロジーの発達によって「人間の仕事が奪われる」というネガティブな見方がある一方で、「人類が労働から解放される時代が来る」というポジティブ見方もあります。働かなくても飯が食える時代になったら、「人間とは何者なのか」という問いが重要性を増し、そのために仏道の叡智が与えてくれる示唆が大切になるでしょう。「人間とは何か」「悟りとは何か」「私たちは何に苦しんでいて、どうやったらそれを解決できるのか」などの問題について、身体的実践も伴いながら精緻に論理立てて記述されている思想体系って、なかなかないと思うんです。
NWF:世界中に宗教がたくさんあります。働く必要がなくなって人の関心が宗教に向かい出すとしたら、今よりも宗教間での争いが増えてしまわないでしょうか?
松本:可能性としてはありえます。唯一絶対のストーリーを信奉する宗教の間では、衝突は絶対に起きます。だからこそ仏教から「宗教をやめますキャンペーン」を今のうちに始めたい。そもそも仏教は説いている内容からして、そういう種類の宗教ではないので、原点に立ち返るという意味でも。
私はいろいろな宗教が一緒になって、お互いの聖地を掃除することをしてみたいです。つまり「対話」ではなく、その場に身をおいて体を動かし、交流することから始めたい。対話から始めようとすると頭でっかちになって、それぞれ自分のストーリーが唯一であると主張し合うだけで終わってしまいます。もちろん対話も必要なんですが、そこから始めると結局対立してしまうので、まずは友達になることが大事なんです。
お互いの聖地に触れて、聖地を感じ、共同作業を通じて友達になる。対話するのは、それから。そんなことを考えています。テクノロジーが発達しても、やはり身体を動かして得たものが重要なんです。
NWF:「得られる何か」とは、要するに、波動とか、アトモスフィアとかということでしょうか?
松本:名前をつけると途端に怪しくなってしまいますが(笑)。今はまだ名付けられないものも、あるのかもしれません。
科学の進歩によって全部わかったような気になりがちですが、実はまだこの宇宙全体のごくわずかなことしかわかっていないと言いますよね。だから、わかっていないことだらけだということを前提に生きていくことが大事だと思います。
未知なるものに対する恐れに囚われるな
NWF: AIが社会基盤になるとして、人間として、いま何を一番考えておくべきでしょうか。AIにはできない、人間だからできることは何でしょうか? あるいは、AIと人間が一緒になってどういう未来を作れるのか、そのためにどういう心持ちでいればいいでしょうか?
松本:「AIに仕事を奪われる」という認識は、我慢教、努力教に支配された現在の資本主義経済だから生まれる恐れではないでしょうか。しかし、これは様々な社会システムが変わっていく中の一つの事象なので、特別心配することはないと思います。
では人間は何をするのか? 何も恐れることなく、好きに自由に生きればいいんじゃないですか。でも、誰しも恐れがあるから、つかんだものを手放せないし、好きに自由に生きられない。
「布施」という言葉には3種類の意味があります。一つが法施、物の道理を説いてあげることです。次が財施、金品など日頃執着してしまうものを手放すということ。3つめが無畏施、恐れを無くしてあげるということです。今の時代は、この無畏施をみんなでお互いに施し合うことがとても大切だと思います。
強い不安や心配をベースに行動しはじめると何かにすがりたくなってしまいます。でもそれは結局迷いを深めるだけです。何かに依存するのではなくて、自分自身が、恐れる必要はないと知ることが大切です。不安というのも、今ここにないものに対する感情、言ってみれば「妄想」なので。
恐れや不安をベースに人を動かそうとするのは、カルト的なやり方です。宗教だけでなく、企業や政府などあらゆる組織に、そうしたカルト性は内在しています。そうした恐れを軽くしたり取り除いてあげることが、今後大事になってくると思っています。
NWF:そのうち、AIに自分の知識をアップロードして永遠に生きようと思う人たちも出てくると思います。自らが神に近づこうとする、というか。これはキリスト教的な考え方なのかもしれません。仏教では「苦しそう」と捉えそうです。
松本:永遠に生きたい、と思う人は、変わらずに生きる何かが存在することを前提しています。一方、仏教では「諸行無常」「諸法無我」を根本的としています。つまり、一切は変化して、変わらずにあり続けるものは何もない。また、私という主体的な実体はなく、全ては関わり合いによって生じている。そのことに気づくと、永遠に生きたい、という最初の問題設定が無意味になります。
アインシュタインが「今日我々の直面する重要な問題は、その問題を作った時と同じ思考レベルで解決することはできない」と指摘したことを、まさに仏教は2000年以上も前から実践で示してきたんです。