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「おいしい」とは何か?〜辻調理師専門学校・メディアプロデューサー 小山伸二さん

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食のプロフェッショナル3名を招いたトークイベント「おいしいの叡智」の開催後、そもそも「おいしい」とは何なのか、「おいしい」を巡る世界の動きや「おいしい」と食育の関係、AIなど先端テクノロジーでレストランや料理人はなくなるのか? 世界文化遺産「和食」の将来は? など、ゲストの1人である小山伸二さんにじっくり伺いました。

<プロフィール>

小山伸二氏

辻調理師専門学校・メディアプロデューサー

1958年鹿児島県生まれ。東京都立大学法学部卒業後、柴田書店入社。食文化、コーヒー,料理本などの書籍編集者を経て1988年より辻調理師専門学校に。現在、学校ではメディア・リレーション、出版企画、勉強会のコーディネイトなどを担当。教員とともに全国の料理人、生産者、食関係者たちの「現場」を取材する「辻調☆技術教育の未来を考えるプロジェクト」に参加。「日本コーヒー文化学会」常任理事、「食生活ジャーナリストの会」副代表幹事を務める。専門はカフェ・コミュニケーション論。著作に詩集『きみの砦から世界は』(思潮社)。

「おいしい味」なんてない

「おいしい」とは何かを考える上でまず参考になりそうなのは、ジャック・ピュイゼの言葉です。彼はフランスのソムリエであり味覚研究の権威ですが、味覚研究所をつくって「味わう」という事を子供たちにどのように伝えていくか、それをメソッドとして確立しました。日本の食育の現場では曲解されていることもあるのですが、彼が言っていたのは「おいしい味」というものがあるわけではないということです。そこには「味わおう」という感性があるだけだと。

つまり「これが苦味だよ、これが甘味だよ」ということを教える教育ではなくて、「君はどう感じるんだ?」という教育。ピュイゼの場合は特にそれを言語化してみんなでシェアすることに重きを置いていました。「正しい」「正しくない」ではなく、感じた味をいかに表現できるかということです。

ワインアロマチャート:ワインの香りを表現する言葉
(*Public Domain )

一般的に、味に繊細な人は「味覚に対する閾値が低い」と言われているのですが、閾値の低い繊細な舌を持つ人のほうが料理を味わう上で優れているということではなく、それよりも重要なのは味わって食べる事だと。この「味わおう」という気持ちをいかに自発的に子供たちから引き出すか。ただ食べる、飲むというのではないということ。それが「食育」であり「ガストロノミー」なのだと。

統計学や最新の分析器を使って味を評価したり、栄養学や化学的に健康によいとされる栄養素を客観的に測ったりすることはできますが、それは「食」をとらえる一面に過ぎません。それらの面だけでなく、人間が五感を総動員して食に対してどのようにアプローチするか。いくらテクノロジーが発達しておいしい食べ物を人工的に作れたとしても、たとえそれが自然の肉でも人工的な肉であっても、人間の側に「味わおう」という気持ちがないと全く意味がありません。

旨味成分の一つ、グルタミン酸
By Arrowsmaster – Own work, Public Domain,

そしてさらにピュイゼは、ガストロノミーで重要なのは自然科学と人文科学の統合であり、その二つを結ぶ唯一の手がかりが言語であると説きました。食べる人自身がそれぞれの個性のなかで、一つでも多くの「食の味わい」を表現する言葉とボキャブラリーを獲得していくことが、その国の言葉を豊かにするとともに、食と環境の多様性を担保し、豊かで幸福な社会をつくるのだと。

その一方で、日本語がもつ「食育」という言葉特有の気持ち悪さも個人的には感じています。皆さんご存知かもしれませんが、日本は明治維新のときに近代国家になり世界の一等国になることを目指して「徳育、体育、知育」という三育、教育の三大スローガンを打ち出しました。いまだに、このコンテクストにならって「食育」がとらえられているふしもあります。

 

昆布
By Alice Wiegand, (Lyzzy) – Own work, CC BY-SA 3.0, 

実際に、ピュイゼが言っていることとは正反対の教育をしようとしている方たちもいる。たとえば、コンビニ弁当やインスタント食品に使われるような化学合成された旨味成分ではなく、天然昆布とカツオ出汁こそが正しいんだ、というような。僕たちが普段食べているものではなく高級料亭で使われているものこそが本物の出汁なんだ、という教え方です。これでは子供たちは「出汁を美味しいと思えない僕は間違っているんだ…」となってしまう。「これが正しい味だ」と教えることは一見正しいようにみえますが、その味の分からない人を「劣っている人間」にしてしまいます

何を食べるかではなくて、「君の中にあるものが世界を面白くするんだ」と教えること。「これは何だと思う? どんな味がする?」と生徒それぞれの感じ方を尊重する。その味に何を感じるかは子供たちに委ねる。先生の意見を押し通すのは簡単ですが、それをぐっと我慢するのが教育なんです。その子自身に感じさせる、感じ方をどのように獲得するか。正しい味というものはないし、答えがないということを知って、自分自身で味わう力を獲得すること。正しい事をトレーニングで覚え込むのではなく、自分自身で味わう力がつけばつくほど、「おいしさ」もバージョンアップしていくのです。

感情とテクノロジーのバランス

たとえば、AIが料理人になれるかという議論がありますが、現実的には「なれる」と思います。電子レンジもある意味ロボットかもしれませんし、既に人類はサプリメントという名前で自然由来ではない食品をつくりあげて身体に良いからと摂取しています。そしてやろうと思えば、サプリメントを単に嚥下するだけじゃなく、咀嚼するために肉のようなテクスチャーを付ける事もできる。

いまや、ありとあらゆるものを科学で再現することはできますが、人間という生命体が能動的に「味わう」ことができる限り、その「味わい方」を創造するのは人間の料理人にしかできないことです。

ただ、料理人の職業的な役割は変わるかもしれません。たとえば、人間の料理人1人が100体のアンドロイドを駆使して1000人分の宴会を効率的に捌けるようになるかもしれません。相棒としてAIの役割もあるかもしれませんが、最終的にAIがはじき出した情報を現場の空気やお客さんの気持ちなどあらゆる変数を五感でジャッジして、しかも1000人をただ満腹にするだけではなく、感動させるところまで持っていくことができるのは今のところ人間だけではないでしょうか。

能動性が必要になる仕事は生身の人間にしかできません。料理だけではなく、教育やコミュニケーションに関わるあらゆる職業の人たちが、そのことを意識し始めています。片方に科学があって、もう片方に人間があって、それらが相反するものとして扱うのではなく融合させながら上手い落としどころを探っていくことが、いままで以上に求められています。

未来の食を考えると、将来的に100億人を超えるという人類の生命維持のためにはカロリーベースでも考えないといけないので、天然ものだけではなく人工的なもの、たとえば機械化された農業や健康的で持続可能な養殖漁業などにテクノロジーの最先端が投入されるかもしれません。しかしそれでもなお、相変わらず生きている魚を包丁で殺して、その奪った命に何かを感じながら食べる、ということは変わりません。

「おいしい」と思う感情と最先端のテクノロジーが今まで以上にコントラストが激しくなっていく。そのバランスを取るための知性と教養を若い子どもたちに身につけてもらって、次の世代にバトンタッチできるようにできればなと思います。

By 不明 – 七十一番職人歌合, パブリック・ドメイン, 

新しい料理教育の場を作る

いままで料理人は美味しいものをつくる職業でもあったけど、特に食糧問題や地球規模の大きな問題を考えるとき、ある種のテクノロジーや工業化せざるをえない部分も出てきます。伝統的で非効率的なものが軽んじられ見えにくくなる世界観の中で、料理人と呼ばれる人たちが今後担っていく重要な役割として「食文化の継承」というものがあるのではないかと考えています。料理人も地球のことを考える職業になっていくということです。

たとえば持続可能な食料を考えたとき、多くの人が牛肉や魚や乳製品に殺到するなかで、バターではなく敢えてオリーブオイルを使った新たな料理をつくるということが求められてくる職業であり、それをシェアすることも求められる。食べることの知恵や文化、つまり食文化を担うこと。それが重要な役割になってくる。

文化というのはお金に換えられない価値なんです。でもお金をださないと得られないものがあります。たとえば、ファッションは文化です。ジーンズがすごく好きな子だったら、バイト代が時給800円でもお金を貯めて5万円のビンテージジーンズを買ったりするわけです。そこで料理人ができることは、若者に「料理も面白いんだよ」と伝えること。

スマホ代に2万円払うんだったら、1万円を握りしめて割烹に行って、店の板前にその魚はどんな魚なのか、どこで獲れたのかとか根掘り葉掘り聞いて、グルメのおじさんの真似をしてじっくり味わいながら食べることもエンターテイメントになり得るわけです。

僕も辻調理師専門学校の生徒たちと実際にやったことがあるんですが、10万円のロマネ・コンティを100人の学生で買って飲む会をしたんです、半分お遊びで。1人あたりほんの少ししか飲めないんですが、学生はそのことを一生忘れないはずです。この体験があれば、ロマネ・コンティより格下ですが1本5万円のラ・ターシュを飲む時に「ああラ・ターシュか」とちょっと見栄を張れたり、ロマネ・コンティを基準に味を比較できるようになったり。食に対して憧れ を持たせること、その先導師になることも料理のプロとしてすごく重要なことだと思っています。

それを考えると、教育のカリキュラムを作るときに今までのような料理の歴史や手順を教えるだけでは足りなくなる。そこで自分で考えさせる教育、答えはなく、どれが一番美味しいかではなく、料理人が新たな「おいしい」へのアプローチを考える力。ある程度技術力や経験がないとできないのですが、学生の時からちゃんと考えてもらう。その時に最先端の調理技術だけでなく感性の部分、味覚教育というのがテーマになっています。実際のカリキュラムにするのは難しくて今後の課題なのですが…。

たとえばフランス料理の授業では、今まで「これが本物のフォン・ド・ヴォーの味だ」という教え方をしていた。確かに美味しいけれど、その味をなぞっているだけでは新しいフランス料理のイノベーションは起こせない。学校では子牛の骨で出汁を取ると習ったけど、違う素材で試したり中国料理や日本料理の調理技法を借りたりすることで、ハイブリッドで全く新しい出汁ができる可能性もある。これはあらゆるクリエイティブの現場でも言えるのではないでしょうか。

新たな食の動き

人類はどのような生物を食事の対象としてきたか。最近新たなタンパク源として虫が注目されていますが、実は日本人も虫を食べていました。長野などでは食文化として今でも残っています。古代、まだ農耕も発達しておらず食料の貯蔵もできなかったとき、虫も含めて人類は地球上にあるものをあらゆるものを食べていました。毒に当たったら「これは毒があるから食べられない」と学んで。

そして現在問題になっているのは、もし人類みんなが牛肉を食べはじめたら地球がもたないということです。牛を飼育するために大量の穀物が必要で、100gの牛肉を生産するためには1000g以上の穀物飼料が使われています。その一方で穀物が充分に食べられずに飢えて死ぬ人もいる。でもこれは単純な話で、人間は牛を食べなくてもいいんです。牛に負けず劣らずおいしい羊を食べればいいし、羊がだめなら他の動物の肉を食べればいい。アリだって食べられます。地球上の全アリの重量は人類より重いそうです。海産物にしても、海の表面に生息している2%くらいの魚しか僕らは食べておらず、98%は手つかずです。

Nomaのアリを使った料理に対してグロテスクだという反応もあったそうですが、やさしい目をした牛を殺して枝肉にしてバラバラにして…という牛肉製造の全プロセスを見ると、そちらのほうがよほどグロテスクかもしれないし、牛がもう食べられなくなるかもしれない。人間は頭で食べているところがあって、それが食文化なんですね。だから「何がおいしいか?」ではなく、「何をおいしいと思うか?」ということが重要なんです。

北欧の動きは日本の将来を考える上でも非常に示唆的で、2004年には「新しい北欧料理のためのマニフェストが発表されました。その首謀者がnoma共同創業者のクラウス・マイヤー氏で、テレビキャスターでもあり、総菜やベーカリーやホテルなどを経営する実業家でもあり、研究者でもあるという様々な顔を持つ人です。

彼が危機感を抱いたのは、北欧が元々食材の豊かな土地ではないことに加えて、ある時から食の工業化が一気に進んだこと。たとえば漁業ではサケやタラなど少品目に絞って大型船団で大量に獲ったり、大型の養殖場をつくったり、大型工場で加工するやり方が主流になって旧来型の漁民はどんどん排除された。肉や乳製品なども工業化していき、食の多様性が失われ、子供たちの食も荒廃し社会も荒れた。

世の中を変えるには食を変えなくてはならないと彼が旗振りをして、まず料理人たちを持続可能なものにするためにマニフェストを掲げた。その時、彼らは 料理人だけのマニフェストにせずに国や大企業も巻き込んで、北欧の国々は元々仲が良くなかったのですが、みんなで北欧と北欧の食文化を立て直そうと動き出した。このような動きに日本のシェフたちも共鳴して、nomaのシェフであるレネ・レゼピが仲間とともに設立した「MAD」という料理人や生産者の世界大会で、日本の料理をプレゼンテーションして世界に拡散しました。料理人が食文化の担い手になる、この発信源となったのはフランスでもなくスペインでもなく、北欧でした。

この北欧の動きをきっかけに、元々違う文脈で活動していた料理人や生産者たちが一つのコンテクストとして繋がってきた。孤立していた点が集まって面になりそれが波になってムーブメントが起こった。ネット環境やSNSの広がりでISのような原理主義も広がりましたが、食に対する見直しも世界中で起きてきた。テクノロジーには良い面も悪い面もあるということです。

たとえば、新しいテクノロジーとして料理レシピのビッグデータである「クックパッド」というサービスがあります。でもそこには限界があって、だから面白いんですが、みんなの膨大なレシピが見られるようになったことで、料理人にとって新たな価値が生まれました。それは何かというと、ビッグデータに載ってないもの、自分にしか作れないものに出会うためにクックパッドが使える、ということ。

古典や基本を学ぶことにも通じるのですが、自分のオリジナリティをつくるためにクックパッドを利用すること。料理人のアラン・デュカスが言っていたのは、世界中を旅して様々な人の影響を受けて、いろんな料理を食べて、食材に出会う。その末に自分にしかできないことを見つける。そのために旅を続けるんだと。だから僕らにとってクックパッドは大きな旅でもあるのです。クリエイションをするためにクックパッドを見る、あらたなアプローチを探るために。ビッグデータは、それをどう読むかという人間側の受信力と感受性の問題であって、そのことを料理のレシピでやってみせたというのは画期的なのではないかと思います。

「料理人」はなくなるか?

まだ地球上の人々が物流網やインターネットでつながっていない時代には、食べ物や資源の乏しい国はより豊かな国を侵略し、資源の不均衡が戦争につながることもありました。現代では貿易と市場経済がそのバランスをもたらしたかのように見えますが、実はそのバランスも環境破壊によって崩れ始めています。
この宇宙船地球号をこれからどうするか、それは本当に難しい問題だと思います。僕たちは負荷をかけてまで移動させる価値のないものを、もしかしたら移動させているかもしれない。でも、東京で世界中のおいしい料理が食べられるのも市場経済のおかげです。その一方で何でも輸出入してしまうのもどうかと思うし、教条主義的な地産地消もいかがなものかと思う。やはりバランスということもしれません。

極論は威勢がいいけど、極論がうまくいかないということを僕らはよく知っている。僕ら人類は答えのない旅をしているんだと思うんです。たしかに原子力はだめだけど、100%ダメだといいきれないところもある。制御不能な原発を作ってしまったのは罪ですが…。ああでもないこうでもないと言いながら、そのうち人類もなくなると思う。地球も銀河も何十億年もすればなくなる。僕らのアーカイブもなくなる。そうしたら、一度しかないこの人生でいかに誠実に旅を続けられるか、しか道はない。壮大なことを考えながら、地道なことをやる。その二つは同じ秤の上にあるんだと思わなければならない時代にきています。

AIが人間を代替するというのも、ある意味極論かもしれません。ただAIが面白いのは、言語でもそうだし料理でもそうなのですが、「いったい料理とはなんだろう?」ということを考えたとき、AIがどこまで料理ができるかを通して人間とはなにかを考えることができるということ。このような時代のなかで、人間には発信よりも受信の力が問われているのではと思います。料理人という職業にも、人がどう感じているか、受け手がどう受け取っているか、受信に対する感受性の豊かさが必要になる。食を通じて、料理を提供する側と料理を味わう側がよりインタラクティブな関係になるために自分を高めること。

そのような意味で、将来的にレストランはライブハウスのようなものになっていくかもしれません。レコードができるとライブがなくなる、CDができたらレコードがなくなる、データ配信でCDがなくなる、などと言われてきたのに、今でもちゃんとライブにお客さんが集まっている。飲食業界でもカフェみたいなものは要らないものの筆頭だったはずなのに、今でもちゃんと残っています。

食べるだけならテイクアウトやコンビニで事足ります。でも料理人がいる場に行かなければ味わえないものがあるかぎり、そういう場所はちゃんと残る。未来社会では様々な職業がなくなると言われます。ただ現在の形態はなくなるかもしれないけど、その本質は形を変えて残る。人が人に料理を作ってあげる、という本質が変わらない限りは料理人という職業も形態が変わりはするがなくならないし、前はたまたまレストランという場所だったかもしれないけど、場としても新しい形になる。

重要なのは、それに変わる機能をどうするのかということ。家族制度がこれだけ変わっているのに、あいかわらず「家で料理をつくらなきゃだめなお母さんよ」ということを食育的に言い続けてもしょうがない。ありとあらゆるシステムが変わる中で、一つの職業が機能し続けることはないんです。

「和食」もなくなる?

和食がユネスコの世界文化遺産に指定されたのは、和食という文化が絶滅の危機に瀕しているからです。ただ、当初から難しかったのは和食の定義。定義の曖昧なものを守るのはさらに難しい。たとえば、明治や江戸の後期あたりの時期が今からアクセス可能な「伝統」であるとしたときに、そこから連綿と受け継がれていて、いま存亡の危機にあるものは何かといったときに、それは在来作物だったりその加工品だったり郷土料理だったりする。

それらをどう組織的に守るか、そういうことがユネスコから求められていると思うんです。具体的には国民会議のようなことが農水省主導の下で行われていて、それまで各団体の人たちがバラバラに守っていたものが国民連絡会議になり、そこがベースになっていくとは思います。ただ僕が思っていることは、個別の料理だけではなく、日本に根付いている食文化みたいなものの伝統を守ることだけではなく、この列島で数千年に渡って常に「変わり続けよう」とした「変わらない意志」を育てていく事です。

らーめん八角の姫路ラーメン, By (株) – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, 

いい意味で変わらなくてはいけない、伝統だけでなく革新もエンジンにしてやらなくてはいけない。僕が思うのは、どんなジャンルでも起源や伝統というものは大事なんです。だけども、その大事な伝統が動かないものになったとたんに、その伝統そのものでさえも台無しにしてしまうと思うんです。料理の伝統を守ろうといったときに、その時々の食材のありようだったり、技法だったり が伝統になり、そこで革新が起こることで未来につながるし多様性が生まれる。それを失ってはいけない。そのダイバーシティにどうアクセスできるか、そのためのいろんな回路をつくることを僕らはやらなくてはいけないと思うんです。

例えば日本のカレーは、イギリスから伝わったカレーをさらに進化させて、なおかつ起源であるインドカレーも研究しつくすことで、インド人もびっくりのカレーができた。天ぷらも、元々はポルトガルから入ってきた料理ですが、それをつきつめて江戸前の天ぷらになって、ポルトガル人も驚くほどの繊細な料理になった。それと同じようにラーメンも日本の料理になった。南蛮渡来のころから日本人がずっとやってきたバイタリティ、それが日本の食文化なのではないでしょうか。日本がやってきたことはそういうことなんです。

 

<考察>
恋人と食べる星付きレストランのフルコースディナーも、農家のおばちゃんが作ってくれる朝採れ野菜の手料理も、残業の合間に食べるお湯を入れて10分待ったカップラーメンも、すべて「おいしい」料理になり得るということ。

そして「おいしい」は舌だけで感じるものではない。ただの美食趣味でもないし、目新しい技術を使って調理すればいいわけでもない。「おいしさ」を決めるのはミシュランや美食家の評判だけではなくて、提供する人と提供される側の関係性や、食べる人間の五感と表現力に委ねられている。人によって、環境によって、文化によって、いくつもの「おいしい」があるし、相対的な評価でしかない。

全ての生物は生命維持のために「食べる」。しかし、その先の「味わう」という行為は人間にしか許されていない。ましてや、AIや機械がその味わいを客観的に記述したり再現したりするのはおそらく不可能だろう。しかも、万人にとって「おいしい料理」というものもなければ、「おいしい」に正解はない。

ただ、それぞれの「おいしい」を成り立たせているもの。その料理が皿に盛りつけられるまでに関わった全ての人たちと産業のつながり、その料理を生んだ文化や風土、そして生物の多様性と地球環境。それらすべての絶妙なバランスの上に、私たちの「おいしい」があること。その事実と向き合い、想像し、敬意を持ち、貢献すること。それが「おいしい」の叡智なのかもしれない。

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