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代々木公園のホームレス画家と考える、働くとは何か?

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【満員御礼】「オフグリッドの世界と、その可能性」〜働く編〜

いま日本中で「働き方改革」が叫ばれているなか、仕事を失ったらどうしよう、貯金が無くなってホームレスになったらどうしよう、という漠然とした不安を抱えながら、目の前の仕事をこなす日々を送っている人も多いのではないでしょうか。一方で、必要以上にモノを持たない生活、ミニマルな生き方に憧れている人も多いかもしれません。

働き方を考える前に、そもそも働くとはどういうことなのでしょうか? 自分にとって仕事とは何か、働くとは何かを突き詰めた結果、全てのモノを捨てて代々木公園で暮らす道を選んだアーティスト、川畑久夫さんにお話を聞きました。

<プロフィール>
川畑久夫(画家・露天商)

学校を卒業して鹿児島で家業の紙すき業を手伝う。大阪万博をきっかけに故郷を出て、パビリオンで働く。万博でスカウトされ、料亭のマネージャーを2年務めるが、体調を崩して退職。八丈島で2年の療養生活を送る。その後デパートに就職しスーベニアグッズ売り場などで55歳まで働く。退職後、代々木公園内にアトリエ兼住居を構えて、絵を描き始め、並行して代々木公園近くの路上で露天商を営み始める。代々木公園在住。

美しいものを見る、毎日恋をする

自分は、歳を取ることを気にしていません。毎日恋をする。何の欲望も持たずに、素直に感動することにしています。

自分が思いつきもしなかった服の着こなしをしている男の人を見て、「あと5センチ足が長かったらファッションモデルになりたい、と思ったこともあったよな」と思い出す。自分が持っていないものをすべて備えた人を見て、「その人はいったいどういう人生を歩いて行くんだろう?」と考えると、その日がとても華やかになりませんか? 僕は今、74歳なんですけど、そんな風に人のことを考えると嬉しくなっちゃうんです。

自分は人見知りする質で、本と音楽と映画が好きでした。映画も日本の黒澤から海外のものから全部見て。それから美術館を回って、美しいというものは全部見てきました。それしかお金の使いようが無かったからです。美しいものを見るのが趣味だったの。だから、人をいじめたり嫌がらせをしたりしなくて済んだ。でも、当時の僕はものすごく繊細だから、人からそういうことをされるのは辛かった。

仕事では、自分を表現することが大切

お仕事のことをお聞きになりたいとおっしゃっていたでしょう? そうすると、まず自分をどう表現するかがキーポイントになると思うんです。どんなに自分が立派な能力を持っていたとしても、それを人に訴えるものを持っていないと、せっかくの宝が持ち腐れになってしまう。それが思うようにいかないと、たいていの人は自分が悪いと思うんです。そういう人にいっぱい会ってきました。

 

私は、子どもの頃から絵を描きたいと思っていたけれど、ものすごく不器用だったんです。なので、会社に行ってもどこに行っても自分を表現できなくて、そんな社会の中でどうやって生きていこうと思って考えて、とにかく自分に与えられた仕事を完璧にこなして、周りから文句を付けられないようにしたんです。

自分を表現できない人というのは、ものすごく純粋な心を持った人だと思うんです。自分を過大評価しない人。人を傷つけたくない人です。

私は宮崎県の出身ですが、当時うちの田舎は大変な男尊女卑でして、男はこうあるべき、女はこうあるべき、というような古い考え方で厳しく育てられました。その後、就職で大阪に行きました。1970年に宮崎から出て、万博に応募したんです。だから、九州弁、大阪弁、標準語のトライリンガルですよ。

私が初めて大阪に出たときに、言葉がなまっていたのと表現力が無かったことを指摘されて、すごく傷ついて、吃音に悩まされるようになって。自分を表現しようとすると、緊張するものですから。

仕事を、自分の欠点をカバーするための素材にした

仕事では自分ができないようなジャンルにずっとトライしてきました。40年間はデパート関係のスーベニアグッズを扱いました。まったく知らない人に会うと緊張しちゃって。ものすごく人見知りだし、あがって言葉がどもってしまうのですが、ずっと人に会う仕事を選んだんです。私は、仕事を自分の欠点をカバーするための素材にしたんです。

私は、この仕事に全然向いてないと思いながら、仕事をしてるときは頭が真っ白くなるほどに打ち込みました。自分は、それ以外に人とコミュニケーションを取る方法が無かったんです。仕事をしているあいだずっと、「人間ってつらいな」と思っていたんですよ。

だけど、ある日、人とスムーズにコミュニケーションを取れる人になりきることにしたんです。人は誰でも二面性を持っているんです。

杉村春子だって、越路吹雪だって、舞台に上がる前はブルブル震えてるって言います。マネージャーが背中をポンと叩かないと舞台になかなか出て行けない。それが、のれんをパッと開けて舞台に立った瞬間に、まったく別の人間になったそうです。人間は生まれてきた以上、別の人に生まれ変わることはできませんから、これが一番簡単な方法なんです。

のれんを上げた途端に、「自分はこうである」というイメージを頭の中に描くんです。最初は上手くいかなかったけれど、一年くらいでイメージした自分になれるようになりました。

私の場合は他の人と違って、立身出世するとかお金を貯めようとかいう気持ちが無かったんです。とにかく、仕事で自分の欠点をなんとかしたいと思っていたんです。人はそれを欠点だとは思わないけど、自分ではそう思い込んでいることってあるでしょう。私もそうだったんですよ。

それでも引退するまで、やっぱり乗り越えられない部分がありました。自分が自分に持っていたマイナスイメージをプラスに転じていくことが、会社でお給料をもらう暮らしをしていた間には、ついにできなかったんですよ。

どうやって今の社会の中に自分という人間をはめこんで生きていくか、ということを働いている間にずっとやっていて。バカみたいですが、そのことにずっと苦しんでいたんです。

 

一番できなかったのは、恥をさらすこと

まず、「自分に捨てられるものは何があるだろう」と考えて、それをひとつずつ捨てていったんです。

私が悩みに悩んでいた頃の写真をお見せしましょう。仕事を退職したときに、一枚だけ写真を撮ったんです。

5月で、その頃ラコステがメジャーだったので、ラコステを着てるでしょ。半袖でかっこつけて上野に行ったの。そしたら、みぞれが降り出したのよ。信じられないでしょ。そこで、5000円くらいのちょっとしたブレザーを買ったの。これが、僕がこういう生活を始める、はじめのときだった。

仕事をやめて、最初は絵を描こうと思っていたんです。いろんな場所で絵を描いて回るようになったんだけど、3年間売れなかったんですよ。何も仕事をしないで好き勝手なことやっていたらお金が無くなっちゃって、全部始末をつけました。

お金が無くなったので、お店を出したんです。そこでお金持ちの頃に買った財布だとか時計だとかを並べて売り始めた。でも、お店を出して売ろうと考え始めてから、売ろうと決めるまで1週間かかったんです。そこから、また実際に売るのに1日かかった。なぜかというと、そんなことをするのは恥だっていう思いがあったんです。

うちの母方は木佐貫っていうちょっと変わった苗字なんだけど、もともとは鹿児島の島津家に仕えた侍だったんです。うちの田舎では、侍の家の子が人の前でものを売るなんてとんでもないっていう考えがあったんですよ。私は、もののふの恥じらいというのを子どもの頃から厳しくしつけられてるから、ものを売ることができなかったんですよ。

結局、私が一番できないことっていうのは、恥をさらすことだったんだよね。それは、人によって違うのよ。

そのとき思い出したのが、昔の有名な写真家が撮った、戦争で焼け出された子どもの写真のこと。女の子が裸で逃げてる写真とかに混ざって、道端に立って大根一本を売っている写真もあったの。

人間は生きていこうと思うと、これだけのことをするんだよね。「おれもできないことは無い」と思った。この女の子たちが生き抜いていかなきゃならないとすれば、僕も同じ状況だよね。

生まれてこの方、人に借金をしたことも無ければ、人の前で酔っ払ったこともない。一応、侍だからね。どこかから借金をするのか、それはおかしい、おれにはできない。だったらどうするか。やりましょう、ものを売りましょう、って

はじめて自分に自信を持てた『750円』

朝の8時に明治神宮の前に出て行ったんです。その頃はフリーマーケットの走りで、メジャーになり始めた初期だったんです。だけど、いざとなるとできないんだよ。シートを広げてものを並べる勇気がない。結局、朝8時に出て行って、売り出したのが夕方4時くらいだったんです。

売り始めても、それから1時間はずっとお客さんに背中を向けていたんです。顔を見られるのが、とにかく恥ずかしいから。道端でものを売るっていうことは、できない性分の人間には大変な勇気が要ったんです。

それでも売れたんです。最初の売上げは750円。750円というお金はわずかだけど、安易に人にこびを売らないで、とにかく後ろを向いてでもものが売れた。はじめて自分に自信を持てたんです。何十年もの間、一生懸命やってきた仕事では自分に自信を持てなかったのに。それで、こういう暮らし方でやっていけるんじゃないか、って思ったんです。

私は何でも工夫するのが好きなんです。人と同じようなことはしない。だから私は今ではこの世界でメジャーですよ。知らない人はいないというくらい。工夫してきたから。

時代に動かされない自分の価値観を持つ

仕事には、たとえばお金を借りてマンションを建てて、さらにそれを担保にしてまた建てて、というようなことが世の中にいっぱいあるじゃないですか。どんな人生も歩けるんですよ、歩こうと思えばね。でも、僕の場合はそうじゃなかったんです。仕事は表現をする手段だと思ったんです。

人間が人間として自分を表現する。何とかして生きていこうと思うと、自分がどんな状況にしても、どのようなものを与えられても、まず自分が幸せな状態をつくることです。

戦争中にアメリカの日系人は砂漠地帯の強制収容所に集められて暮らしていて、その人たちが作ったものの展覧会を見たことがあるんですよ。木切れ一本で彫刻するとか、椅子を作るとか。それを見て、人間はすごいと思ったんです。生まれつき与えられた才能とか環境ではなく、生命を与えられて生きているということのすごさです。

だけど、無駄に人生を歩いている人もいる。それが、なんとひどいことだろうと思うのは、ぼくは五十年かかって、ここに来たからなの。こういう生活をしたときに、すべて切り捨てなきゃならなかったわけです。電話もテレビも無い生活だけど、それでも生きていけるんだよね。

そうしたものは無くていいけど、人は人、私は私という厳密な価値観は持たなければいけないです。世の中これだけ情報があふれているわけだから、自分がその中から選り分けて生きていくための価値観を持たなければいけない。仕事の中にもその価値観が無ければいけない。それを持たなかったら、その人は人間ではないわけです。何かに操られているだけっていうことになるじゃないですか。

仕事は、何をしたっていい

絵を描きに六本木とかを歩いたりすると、感性の転換というか、そういうのを突然に感じることがあるんです。世間を一歩先に行って、そういう変なことを起こす若い人たちがいる。そういう人たちが壁面に水耕栽培の植物を這わせているのを見て、へーと思ったんです。

私はもともと生まれたときから、枯れ木とかコケとかシダが好きだったんです。でも、昔はそういうことを言うと「ジジ臭い」って言われたんですね。霧雨が降るときに花も何も咲かない森の中の、同じ草がずっと茂ってるようなところに行くと、細かな霧が粒のように雪のようにきらめいてる。なんて美しいんだろう、って。それを当時の人間に言うと「女々しい」って言われたんですね。

でも、時代というのは変わるんですね。自分の感性っていうのはおかしくなかったんだ、と思いましたね。だから、仕事っていうのはね、何をしたっていいんです。ある時には、それが嫌いな人もいれば、好きな人もいる。それに動かされちゃダメなんですよね。自分を通すことなのよ。

ここにいるといろんな方が訪ねてきてくださるんです。フリーマーケットに行くと、まったく知らない人が声をかけてくれたりもする。いろんな人に会って最近思ったのは、みんな自分の持っているささやかな財産に気がついていないということです。自分はこうしたいんだけど、その方法が見つからないという人がいっぱいいるんですよ。

私は自分の仕事を見つけるというのは、ケースバイケースだと思うんです。何十年続けて人間国宝になる人もいますし、10歳で見つける人、20歳の人、50歳の人、死ぬ間際に見つける人もいる。

めぐりあいなんですよね。サリバン先生とヘレン・ケラーの話、あれもそうでしょう。私が人生をすべて捨てちゃってここにいるのも、やっぱりそうでしょう。

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